1189話 大学講師物語 その18

 異文化体験を想像する


 今年のレポートも異文化体験を想像するというスタイルにした。具体的にはこういうものだ。

 モンゴルの草原で2か月間ホームステイをすることになりました。モンゴル人家族とともにゲルで暮らし、牧畜を手伝い、モンゴル語を学びます。ゲルは、電気・水道なし、スマホ圏外です。まず、モンゴル人の生活をよく調べて頭に入れ、そこで自分が過ごすと、あなたの頭と体はどういう変化を起こすでしょうか。その想像の異文化体験を2000字で書きなさい。

 このレポートテーマには、いくつもの要素が入っている。「モンゴルの生活を書きなさい」だと、学生は資料の引き写しをするしかない。そんなものを読んでもおもしろくない。学生にコピペさせるようなテーマを与えてはいけない。だから私は、モンゴルで生活する自分を想像せよというテーマを与えた。自分に受け入れられる事柄と、なじめない、あるいは拒絶する事柄、そしてどうしても必要な事柄などを考えてもらおうというのが私の出題趣旨だ。
 その場所をモンゴルとしたのは、モスクワだろうがサンパウロだろうが、大都市なら日常生活の生活落差はそれほど多くないと思った。アマゾン奥地やニューギニア山中だと、落差があまりに大きく、レポートがほとんど同じになるだろうと思った。モンゴルの草原だと、基本的に肉とミルクの食生活で、電気水道なし、風呂トイレなしなど日本人には障害が多いが、食い物は充分にある。だから、「異文化のなかの自分」を考えるにはちょうどいいかと想像したのである。
 いままでレポートは1000字程度だったが、今年は2000字にした。1000字だとそれほど想像力(創造力)を発揮しなくても書けそうだが、2000字となると、モンゴルの生活をしっかりと頭に入れ、そこでの自分をじっくりと考えないと書けない。学生にとって、想像で2000字の文章を書くというのはちょっとした負担だろうと思った。その負担を回避する方法があるので、レポートテーマ発表時に、こう釘を刺しておいた。

 モンゴルの説明は必要ありません。長々と説明して行数を稼がないように。

 想像の文章が書けないと、ネットにいくらでもあるモンゴル情報を取り込んで行数を稼ごうという学生が多く出てきそうな予感がして、こういう注意書きを書き添えた。それにもかかわらず、注意を無視するかのごとく、モンゴルの気候だの歴史だのモンゴル語の説明を書き続けたレポートが数多くあった。したがって、そういうレポートはD判定(不可)である。本にもネットにもない話を自分で書き上げるというのは、難易度が増す。だから、こういうレポートにしたのだ。
「なんだ、つまらん」と言いたくなるレポートが3割くらいあった。ひとまとめにすれば、こういう文章がレポートの最後の部分にある。

 「最初のころは、私にとってはつらい異文化体験でしたが、滞在するうちに慣れてきて、モンゴルを去るころには楽しい思い出に変わっているでしょう」

 なんだよ、このとってつけたような終わり方は。つまらん。友人の教授によれば、こういう結論は就活の学習成果なのだという。企業の人間が納得するありきたりの、もっともらしい結論というのが、就職試験の必勝法なのだという。ダークスーツを着た人間に、リクルートスーツを着た学生が発する文章あるいは話は、こういうきれい事がぴったりなのだろう。気が重くなる。こういう結論だからと言って減点することはないが、けっして加点はしない。
 モンゴルでの滞在地を「スマホ圏外」としたのは、日本との関係を一定期間断つとどう反応するのは知りたかったからで、案の定「スマホ依存症」患者からの苦痛の声が寄せられた。それでわかったのは、繋がらないスマホは何の役にも立たないと思っていることだ。「写真が撮れない」とか「音楽が聴けない」、「果ては、時間がわからない」といった苦情が書いてあって、スマホを持たない私を驚かせた。電気がなくてもソーラー式携帯バッテリーなどを持っていけば充電はできる。インターネットにつながらないだけで、音楽を聴くことができるし、写真も撮れる。どこにでもコンセントがある環境にあると、コンセントがないと充電できない、だからスマホはまったく使えないと考えてしまうらしい。
 「スマホが使えない」ことは嘆いても、真正面から孤独感を考えた学生は極めて少ない。その数少ない学生は、いままでにひとり旅をしたことがあったり、留学を経験していたりして、外国での孤独感を実体験していることが文章からわかる。だから、話し相手がいない、周りの会話が理解できないという孤独感は、わざわざ想像しなくても、はっきりと記憶している。言葉が通じないというのを「不便だ」とは理解しても、「孤独だ」という想像がないのは、いままで何度か外国旅行をしていても、日本人と一緒だったからだろう。
 こうした異文化体験を想像するというレポートを、いままで何度かテーマにしたことがあったが、興味深いことに、「なんとか対応できる」という趣旨よりも、「そういう異文化には対応できない」という趣旨のほうが、内容的にも文章力でも優れているのだ。「どんな異文化でも、努力すれば克服できる」とするおりこうさんのレポートは、総じて出来が悪い。ろくに現地事情を調べなくても、肯定的な文章は書けるからだ。
 考えてみれば、本や映画の評価でも、「あー、おもしろかった」と書くなら、ネットの書評や広告を見るだけで書ける。しかし問題点を指摘しようと思えば、ほかの資料を読んだり、じっくり考えないといけない。私のレポートも、それと同じように、架空の滞在記を否定的に書くなら、それ相応の準備と文章力が求められるということだ。
 私の成績判定は、異文化に対してどういう態度をとるかで成績を判定はしないので、「モンゴルなんて行く気がしない」という内容でも、その理由がきちんと書いてあれば評価している。
 これが、講師最後のレポートとなった。
 今回で「大学講師物語」は終了します。

1188話 大学講師物語 その17

 私の旅行史研究 (5)

 石毛直道さんは1958年京大入学、吉村文成さんは2年遅れて1960年に入学し探検部に入った。吉村さんの大学生時代は8年間にわたるので、在学中の1964年に海外旅行が自由化されることになった。すると、京大探検部員も従来の探検・冒険派と、ただ自由に旅をしたいだけという学生の2派に分かれた。自由化以前は、日本人が外国に行くためには、その渡航が日本にとって有益であると認められる必要があった。政府の許可がないと、自由に渡航ができなかったのだ。だから、渡航する大義名分をでっちあげ、企業を回って寄付を集めるというのが、いままでの探検・冒険であり、それはとうぜん団体行動であった。1964年の海外旅行自由化以後、大義名分は必要がなくなった。探検部に入らなくても、旅行費用をなんとかできれば、個人で海外旅行ができるようになった。
 吉村さんは、従来の探検や冒険から距離を置いた最初の部員のひとりだった。自由化前には、「カナダ・エスキモー学術調査」というもっともらしい名目をでっちあげて北アメリカ旅行をして、在学中に『アメリカ大陸たてとよこ』(吉村文成・島津洋二、朝日新聞社、1964)を書いた。北アメリカから帰国してしばらくすると、「外貨規制が解除され、だれでも海外観光旅行ができるようになりました。私は単身で東南アジアに出かけ(意外に安上がりなことを発見して)しばらくの間、インド・ヒッピーとして暮らしました」という学生だった。引用した文章は、あとで触れる『京大探検部』。
 吉村さんより2年後の1962年に京大探検部員になった鳥居正史は、1964年に海外旅行が自由化された喜びをこう書いている。「私にとって、IMF八条国移行(海外旅行自由化のこと。前川注)ということはあまりに衝撃的だった。先生や先輩が組織した探検隊に加わらなくても、自分一人の力で海外に行ける時代になったのだ。怖いもの知らずの私が個人で海外に飛び出すことを決心するのに時間はかからなかった」。そして、1964年5月、神戸からヨーロッパに向かって船出した。探検部員が、北欧で皿洗いして旅行資金を稼ぎヒッチハイクの旅をするようになる。そのいきさつは、『一九六四年春 旅立』(鳥居正史、幻冬舎ルネッサンス、2012)に詳しい。上に引用した文章もこの本から。ヘルシンキにいた1965年、小説家の卵がやって来て、皿洗いで旅行資金を稼いでいる若者に取材したという話がでてくる。小説家はその時の取材をもとに書いた小説でデビューする。五木寛之の『さらばモクスワ愚連隊』である。
 そうしたいきさつは、『京大探検部 1956〜2006』(新樹社、2006)に詳しい。この本は、戦後の若者がいかにして日本を出て行ったかを知る名著だ。日本のバックバッカー研究の必読書だ。普通の読みものとしても、すばらしくおもしろい本だ。この『京大探検部』と若者の旅の話は、2012年にこのブログ448話ですでに書いている。
 海外旅行が自由化された1964年以後、海を渡った若者たちの装備は、留学生や移住者を別にすれば、登山部と同じだった。リュックサック(横長のキスリング)と寝袋やテントだ。貧乏旅行のノウハウは、登山部やワンダーフォーゲル部のものだ。国内を旅する若者は横長のキスリングのせいで「カニ族」と呼ばれ(おもに1970 年代)、北海道に大挙出没した。外国を目指した若者は、キスリングを背負ってシベリア鉄道かフランス郵船に乗った。ただし、カニ族と海外貧乏旅行者とはどうリンクするのか、私にはよくわからない。カニ族のうちどれくらいの若者が外国に出たのか知りたいが、そういう資料や証言を知らない。根拠のない想像なのだが、インド帰りとシンクロするのは北海道ではなく沖縄や奄美諸島だ。奄美→沖縄→東南アジア→インドというルートのほうが、私の想像力を刺激する。
 日本には、バンコクの安宿カオサンに行って旅行者にインタビューする程度の学者はいるが、旅する若者の大潮流を調べてみようという人はどうやら私以外にはいないようだ。それが、針の先のようなマイナーなテーマだとは思わないのだが、残念ながら若き研究者を刺激するテーマではないらしい。

1187話 大学講師物語  その16

 私の旅行史研究 (4)


 日本のバックパッカー黎明期をずっと調べている。
 先日、旧知の吉村文成さんに会い、旅の話をした。吉村さんは京都大学にいた8年間探検部に所属して旅をしていた。卒業後、朝日新聞に入りインドやインドネシア特派員もした。定年退職後の今は、喫茶店のおやじをやっている。
 吉村さんに会ったら聞いてみたかったのは、梅棹忠夫のことだ。この1年ほど、梅棹の本をまとめて読んでいて、「もしかして、日本のバックバッカーのひとつの源は梅棹忠夫かもしれない」と思い始めているので、長らく京大探検部にいた吉村さんの意見を聞いてみたくなったのである。
 バックパックとはbackpack(背・袋)であり、ドイツ語のrucksack(背・袋)を英語に翻訳したものだ。だから、バックバッカーとは「リュックサックを背負う者」という意味であり、主に野外行動をする旅行者をさしていた。今でも”backpacking”で検索すれば、アウトドア用品の案内や、キャンプの仕方などのノウハウが出てくる。
 バックパッカー関連の資料に、「小田実は日本のバックパッカーの元祖である」と書いているものがあるが、「それは、ちがうなあ」という違和感がある。バックバッカーという語のそもそもの意味を考えると、別の人を探したくなる。小田と野外生活は結びつかないのだ。
 梅棹は、もともと登山の人だった。少年時代から京都を中心にしばしば山登りをしていた。ところが、ある時期から「垂直移動から、水平移動へ」と変わっていく(『山をたのしむ』ヤマケイ文庫、2017)。『白頭山の青春』(1995)は、1940年、旧制高校3年生の梅棹が友人とともに白頭山(現在は北朝鮮)に登った記録なのだが、登る前の話も長く書いている。これ以後モンゴルなど水平移動をするようになっていく。山には登るが、より高い山、より困難なルートを選ぶ山登りはしなくなる。
「人間とか文化に興味をもったからでしょうかねえ」と吉村さんに聞くと、
「そうだと思いますよ、きっと」と同意してくれた。
 水平移動に変わった理由はほかにもあると思う。山に登っているだけでは、研究者としてメシが食えないのだ。文化や動植物を相手すれば、研究者としての仕事がある。京都大学で探検部を作ったのは、山岳部員だった本多勝一だ。海外旅行が自由にできなかった時代、探検部には「探検」を口実に外国に行く方法を探している若者が集まっていた。のちに食文化研究者になる石毛直道もそうだ。高校時代の話を、石毛さんから直接うかがったことがある。
 「外国に行きたい」と強く願う少年だった。金持ちの子供ではないから、タダで外国に行くために船員になろうと思い、商船大学の受験を考えた。ただの若者が、さまざまな国にタダで行こうとしたら、船員になるのが手っ取り早い。かつてそういう時代があったから、私は船員の本も読書範囲に入れている。石毛さんは、特定の「どこか」に行きたいという若者ではなく、とにかくいろいろな国に行きたいと思っていた。それは学者になってからも変わらない。石毛さんは特定の地域や民族の専門家になる道を選ばなかった。だから、留学ではなく船員を考えたのだろう。船員志望と同時に、考古学を学びたいという希望もあり、結果的に船員として外国に行くという道をあきらめて、考古学を学ぶために京大に進んだ。入学した京大には、2年前にできた探検部があった。探検部に入ると、すぐさま外国(トンガ)に行くチャンスが巡ってきたというわけだ。
 海外旅行が自由化される前、なんとしてでも外国に行きたいと願う若者たちは、創意工夫をして日本を出た。『ボクの音楽武者修行』の小澤征爾であり、『どくとるマンボウ航海記』の北杜夫である。若き三島由紀夫開高健も、外国に行ける仕事を積極的に利用した。

1186話 大学講師物語 その15

 私の旅行史研究 (3)


 「若者の旅の歴史」をテーマに、何年か授業をした。その資料をだいぶ集めた。
 講師の給料というのは、時給換算すると1万円ほどだ。90分授業だから、1回の授業で1万5000円ほどになるが、そのカネはほぼ資料代に消えた。「資料代」として特別に支給されるわけではないので、実質的にはほぼ無給で授業をやっていたことになる。まあ、道楽だ。
 資料というのは大きく分けて、書籍とCD&DVDだ。授業で何回か世界の音楽を取り上げたから、その資料として買い集めた。大学の図書館にもCDやDVDはあるが、劇映画が中心だから、私が使いたくなるような作品はない。音楽CDはほとんどが西洋古典音楽、いわゆるクラシックだから、やはり授業では使えない。ユーチューブでも探し出せることはあるが、「よりいい音で」と考えると、どうしてもCDを買うことになった。CDを山ほど買ったのは、「資料」を名目に、さまざまな音楽を聞いてみたかったせいでもある。
 ある音楽を聞いて旅をしたくなることがある。インド音楽を聞いて、現地で生の音を聞いてみたくなる人がいる。旅先の街で流れていた音楽が耳に残り、レコードやカセットテープを買う若者がいる。あるいは大量に買い込んでレコードを店で売ったり、買い付け専門の輸入業者になる人もいる。コンサートを見るために外国に行く人もいる。音楽好きの旅行者がライターやディレクターなどとして、音楽業界に入っていた若者もいる。音楽と旅は密接に結びついている。音楽が未知の世界に案内してくれることもある。だから、授業で音楽も扱ったのだ。授業という偶然で、いままで耳にしたことがないジャンルの音楽に出会えれば、それが新しい世界への渡し船になることもある。
 CDは箱に詰めてあちこちの床に積んである。本はとっくに棚には入らず、床に積んである。講師を始めてから買ったCDは数百枚、本は数百冊。十数年間に買ったものだから、1年にしてみれば大した量ではないが、チリも積もれば山となり(チリではないが宝というほどではない)、その処理に困っている。
 今も机の上に買い集めた旅行記の類が山と積んである。半世紀以上前に出版された本は、すでに棚に収まっているから、今机に積んであるのは行き場所を失っている比較的新しい本だ。ざっと見まわすと、こんな本がある。
 1925年の95日間空の旅の記録『朝日新聞訪欧米大飛行』上下(前間孝則講談社、2004)がある。韓国人の中国旅行記中国東北部の「昭和」を歩く』(鄭銀淑東洋経済新報社、2011)がある。『開高健オーパを歩く』(菊池治男、河出書房新社、2011)もある。『青年・渋沢栄一の欧米体験』(泉三郎、祥伝社新書、2011)や『地図のない場所で眠りたい』(高野秀行角幡唯介講談社文庫、2016)もある。ほかに、『新伊和辞典』(白水社、1964)、『須賀敦子全集第3巻』(河出書房新社、2007),『記者ふたり 世界の街角から』(深代惇郎、柴田俊治、朝日新聞社、1985)、『羽田の空 100年物語』(近藤晃、交通新聞社、2017)、『水野あきら/あちこちスケッチ集1 三輪車』(水野あきら、2010)、『天の涯に生くるとも』(金素雲講談社、1989)、『バーナード・リーチの日本絵日記』(バーナード・リーチ講談社、2002)、『日本文化の形成』(宮本常一講談社、2005)などなど多数。いずれも、広い意味で異文化体験を考える資料である。数十冊が机にのっているから、地震注意である。
 私が本を買うのは、買うのが趣味だからではなく、集めるためでもない。私には買い物癖も収集癖もない。読んでみたい本を買うだけだ。インターネット古書店をよく利用するが、「おもしろい」とか「豊富な資料が詰まっている」とすでにわかっていて注文した本はあまりない。図書館にはない類の本だから、買うしかないのだ。わざわざ国会図書館に行ってコピーするなら、買ったほうが安い。例えば、やはり机にのっている『外国航路石炭夫日記』(広野八郎、石風社、2009)は、1930年前後の4年間、外国航路で石炭夫だった男の日記だ。この本をアマゾンで見つけて、ちょっとためらいもあったが、手に入りにくい本だから注文した。本が届いたら、「やはり」であった。だから、ためらったのだ。以前にこのブログの265話(2009年8月)で紹介した『華氏140度の船底から』上下(広野八郎、太平出版社、1978)と基本的に同じ本で、用語解説をつけるなど多少手を加えてある。
 この本について言及したのは、262話から始まる「マドロスの基礎研究ノート」全4回のなかでだが、このときに船員の外国体験の資料をいくつか紹介した。最近手に入れたのは、『蔵出し船長日誌』(赤尾陽彦、文芸社、2015 )。文芸社の本に倉本聰が序文を書いているのは、著者と国民学校時代からの付き合いがあるかららしい。
 広い意味の旅行記、あるいは異文化体験記と言ってもいいのだが、その手の本を買い集めるのは、有名な作家やジャーナリストのもの以外、すぐに消えていくからだ。旅行史研究ではあまり触れない個人旅行を調べるなら、さまざまな資料を集めるしかない。旅行記研究というのは、文学研究の範疇で扱われることが多く、いつまでたっても漱石や鴎外、林芙美子を取り上げておしまいというのが多い。だから私は『旅行記でめぐる世界』(前川健一、文春新書、2003)では、有名作家の旅行記は極力さけたのであるが、それは旅行記研究の分野では異端である。澁澤龍彦三島由紀夫や、司馬遼太郎檀一雄村上春樹が、外国ではゲーテランボーヘミングウェイが出てこないと、読者の関心を呼び起こさないのは明らかだ。しかし、私は柳の下のどじょうの群れに入りたいとは思わなかった。今まで数多く書かれた有名作家の紀行文研究の焼き直しをする気はなかった。だから、せっせと無名人、あるいは文豪ではない人たちの旅行記を買い集めて読んできたのである。そして、著名人がほとんどでてこない『旅行記でめぐる世界』は、やはりほとんど売れなかった。

1185話 大学講師物語 その14

 私の旅行史研究 (2)


 観光学(Tourism Studies)とは、観光でいかに金儲けするかを研究する学問だと思っている。観光関連業者の収益増加と、国家や地方自治体の観光による増収の方法論を研究するのが保守本流の観光学だと私は思っている。旅行研究とはだいぶ違うのだ。観光学の研究対象は観光そのものであり観光客(主に団体観光客)だから、旅行や個人旅行者は研究対象には入らない。入れたとしても、主流にはならない。例えば、「旅と食」というテーマなら、ある土地の名物を探し出し、作り上げ、いかに売るかという研究だ。食べ物をいかに名産・名物にするかという研究で、旅行者の食事事情は研究対象にはしない。日本を出た旅行者がどういう食べ物を拒絶し、あるいは熱愛するかといった食の異文化対応の研究は、観光関連業者の利益と直接結びつかないから、その方面の研究報告をほとんど読んだことがない。
 私の関心は、観光旅行ではなく、団体観光客でもない。観光でどうやって、あるいはどれだけ稼げるかということは私の関心の外にある。「観光が悪い」と言っているのではなく、私の興味の外にあるということだ。
 立教の観光学部には、観光研究の観光学科と異文化を学ぶ交流文化学科がある。私の授業はどの学部の学生でも受講可能にしているが、「観光旅行」そのものはほとんど扱わなかった。別の言い方をすれば、観光業界とは遠い位置にいたということだ。旅行史研究で個人旅行者があまり対象にならないのは、観光関連業者と縁が薄いからかもしれない。ということは観光学とも遠いということだ。
 旅行史を若者の旅で考えようと思った。貴族の子供ではない、あまりカネを持っていない若者の旅から研究を始めたのは、観光業者が関与しない旅を調べたかったからだ。前史として、巡礼やグランドツアーを一応は押さえておくが、出発点はドイツと一部フランスでもいた(今もまだ少数いるが)、遍歴職人である。中世から始まるのだが、見習い修行を終えた職人の卵は、諸国をめぐり、仕事を探し、腕を磨く。移動手段は徒歩。3年間、そういう修行をして、親方(マイスター)になるという修行方法だ。学生も学者も諸国を巡って学んだ。基本的に、ドイツあたりには「旅は人を鍛える」という思想があったようだ。本来ならゲーテなどを徹底的に学ばないといけないのだろうが、私には根気と教養があまりにも不足していた。
 ドイツにはまったく興味がないから、行ったことがない。ドイツの本も読んだことがなかった。しかし、遍歴職人のことを調べるために、中世のヨーロッパやドイツ関連の本を買い集めた。そして、遍歴職人に続く若者の旅、ワンダーフォーゲルユースホステル活動の歴史を知り、ドイツ現代史の本を買った。時代的には、19世紀から20世紀初めに若者の旅の動きが活発になり、イギリスではボーイスカウト活動もあった。
 アメリカの場合は、ソローの『森の生活』から勉強を始めることにした。旅するアメリカの若者の精神的支柱でもあったからだ。初めからその確信があったわけではない。自然賛美とか市民的不服従など、1960年代のカウンターカルチャーの思想的背景がソローだったとわかって来て、勉強がおもしろくなった。
 1950 年代のビート世代、60年代のヒッピー、そして、80年代あたりからのバックパッカーの歴史を調べてみたくなったので、部屋はたちまち資料の山になってしまった。
 ここではヘンリー・デイビッド・ソロー(1817〜1862)のことをちょっと触れておく。ソローが書いた『森の生活』は、さまざまな旅行記に登場する。この本はアメリカで1834年に出版され、日本では戦前の1934年の新潮文庫が初訳らしい。戦後は1948年の養徳社版以後多くの出版社から発行されているロングセラーだ。日本人の旅行記を読んでいると、火野葦平は『アメリカ探検記』(1959)でゆかりの土地に行っていることがわかる。小田実は『何でも見てやろう』(1961)で「ソローゆかりの地訪問は苦手だ」と冒頭部分で書いている。そして、アラスカで餓死した若き旅行者を書いたノンフィクション『荒野へ』(ジョン・クラカワー、1997)でも、1990年代にアメリカを放浪していた若者が持っていた本にソローに関する書き込みがあった。日記の文章を読むと。その若者が熱心にソローを読んでいたことがわかる。
 授業がない秋から冬は、そういう調べ物をしていたのである。資料がどんどん集まっていった。

1184話 大学講師物語  その13

 私の旅行史研究 (1)


 このブログ、アジア雑語林の1~275話までの分は、アジア文庫のHPに公開したものだが、それが突然理由もわからず文字化けしてしまった。その件について詳しくは、下記の「お知らせ」を読んでいただきたい。
 アジア文庫分の移設作業をやっていても、275話分の文章は極力読まないようにした。大掃除をしているうちに、出てきた資料や写真や古新聞などを読んでいて作業が遅れるということがあるから、そうならないように記事は読まないことにした。もし気になる個所があって、調べなおすというようなことになったら、この作業が何日かかるかわからない。
 誤字脱字もあるだろうが、それはあまり気にしなかった。アジア文庫分は店主の大野さんが編集長を務めてくれたので、誤字脱字の心配はあまりしていない。今のブログには編集者がいない。旅行人のHPを借りてはいるが、天下のクラマエ編集長の目と手を経て公開しているわけではない。私が書いたら、それで完成という危ない橋を渡っている。うっかり者で数字に弱い私は、編集者のありがたさを痛感している。
274話分の記事は極力読まないようにしたが、もちろん目には入るし、気になるキーワードもある。それで気がついたのは、立教で講師をやるようになってから、以前にも増して旅行史関連の本を数多く買うようになったことだ。
 もともと旅行の歴史には興味はあったが、世間の旅行史研究とはその方向や範囲がまったく重ならなかった。保守本流の旅行史研究というのは、次のようなものだと思う。『人はなぜ旅をするのか』(編集委員 開高健田村隆一長沢和俊日本交通公社、1982〜83)という10巻の本がある。各巻のタイトルと対象とする時代を書き出してみる。
第1巻  馬蹄とどろく“王の道”(紀元前)
第2巻  熱砂と波濤の“絹の道”(1〜9世紀)
第3巻  遥かなる黄金のジパング(10〜14世紀)
第4巻  海の冒険者・陸の思索者(15〜17世紀)
第5巻  太平洋と暗黒大陸へ(18世紀)
第6巻  庶民の旅と学者の旅(1801〜60)
第7巻  19世紀の探検レース(1861〜93)
第8巻  残された空白への挑戦(1894〜1920)
第9巻  陸海空“旅行”の時代(1921〜35)
第10巻  戦争と平和。そして未来(1936〜現代)
 西洋人の常識にならって、アフリカを「暗黒大陸」と書く意識を疑うが、それはともかく、王や政府や軍や企業などに支えられた探検団や旅行団に、私はほとんど興味がない。だから第10巻を買ったのだが、興味を引く部分はわずかしかなかった。
 アジア雑語林の275話分の時代、旅行関連書を多く買っている。私は「若者の旅行史」と、「日本の戦後海外旅行初期」にポイントを合わせて資料を買い集めて読んだ。金持ちの大名旅行やスポンサー付きの冒険・探検旅行というものには、そもそも関心がない。私の興味は、外国旅行が大衆化される初期の事情と、外国をひとりで旅するようになった若者たちの姿だ。そういう資料は昔から読んではいたが、拙著『異国憧憬』(JTB、2003)を書くために調べていた時代に力を入れて読み、そして、講師をやるようになった2005年以降さらに積極的に買い集めた。この手の資料は立教の図書館にもほとんどないので、自分でコツコツ買い集めるしかない。買い集めた資料のことはいつか別の機会に書くことにしよう。
 専門的な話になるが、旅行史の多くはイギリス人のおぼっちゃま旅行であるグランドツアー(おもに18世紀)を前菜に、トーマス・クックの団体から始まる大衆化がメインディッシュ、そしてタイタニック号に象徴される豪華客船の旅がデザートで終わってしまうのだ。戦後の旅行は、「ジャンボ機導入で、航空運賃が一気に安くなり、誰でも海外旅行ができるようになった」と書いて、「おしまい」なのだ。現代を取り上げない。個人旅行をほとんど取り上げない。個人旅行は、観光関連業者にとって利益にならないと思われていたからではないかと思う。
 このあたりのことは、次回に詳しく書く。

〔お知らせ〕
 アジア雑語林の1話から275話までが文字化けしてしまいましたが、諸氏諸兄諸嬢のご尽力ご援助により、現在は元に戻って従来通り読めるようになりました。ご支援、ありがとうございます。
 しかし、また突然文字化けするかもしれないので、その場合の個人的な対処法は、それぞれの機器で「文字化けを直す方法」をとっていただくのがもっとも簡単だと思います。その方法は、アジア雑語林の1174話のコメント欄をご覧ください。そういう作業をしてもうまくいかないという方のために、ちょっとした移設作業をしました。過去の記事を読みたい人は、ブログ右上の「記事一覧」から入って、275話までが入っている2003年とか2004年に入ってください。そこでは文字化けしていない文章を読むことができます。気が向いたら、十数年前のコラムも読んでみてください。

1183話 大学講師物語  その12

 講師控室 (2)


 2007年の秋、台湾の財団が主催する食文化シンポジウムに出席した時のことだ。場所はマレーシアのペナン。テーマは「東南アジアの中国食文化」で、私はタイにおける中国食文化の話をした。
 発表者のなかに日本語が堪能な人がいた。香港の大学教授シドニー・チェンさんは、大阪大学で博士号(文化人類学)を取っている。ある夜、チェンさんとたっぷり雑談をした。そのなかで、こんな話になった。
 「今でも、最低、年に1回は日本に行ってますよ。香港の大学が夏休みになったら日本に行って、集中授業をやっているんです」
 「東京の大学ですか?」
 「東京の大学ですが、校舎は埼玉です。新座って知ってます?」
 「立教ですか?」
 「ええっ! 新座校舎を知っているんですか? 立教の観光学部です」
 「なあんだ、同僚というわけですか」
 講師というのは、自分が授業をするその時だけ大学に行くので、横のつながりがない。例え講師控室で顔を合わせても、互いの素性を知らない。
翌2008年の講師控室で、パソコンに向かうチェン教授に再会し、教授たちも交えて食事会をした。
 講師控室でパソコンに向かって調べ物をしている人の中で、すでに顔を知っている人がひとりいた。香山リカ教授。現代心理学部の教授で、顔は知っているが、もちろん話をしたことはない。教授だから個室があるのだが、講師控室でよく出会ったのは自室のパソコンが不調だからかと思ったが、翌年も講師控室によく姿を見せていた。
 講師控室のコピー機の後ろに、透明プラスチックケースの棚が並んでいる。大学や学部から講師への配布資料などが入っている。例えば、なにかの申請が必要な人は、そのケースに入っている書類に記入して提出するといった使い方をする。緊急かつ重要書類は郵便かメールを使うのだが、たんなる連絡用だとこの引き出しを使う。いわば、個人用郵便受けだ。
 外国人語学講師も多いので、引き出しはABC順に並んでいる。ある年のこと、Mのところに、「前川健一」のラベルが2枚貼られていた。引き出しがふたつあるということは、その名前の講師がふたりといるということだ。「おお、ここに現れたか」と思った。それは、こういうことだ。
 以前、調べ物をしていて、ネット画面に「前川健一 学会に出席」という文があることを発見して驚いた。学会に出席したことなどないのだ。同姓同名の学者がいるらしい。調べてみると、私と同姓同名の研究者の専攻は宗教学らしい。その研究者が、よりによって立教の講師になり、しかもよりによって私と同じ埼玉県の新座校舎で授業することになったという偶然だ。講師控室か校内で出会っているかもしれないが姿を知らないので、どういう人物かは知らない。彼は1年か2年で別の大学に移ったらしい。
 新座校舎8号館1階にある講師控室は、じつに快適な空間だった。だから、授業が始まるだいぶ前にここに来て、遅い昼ご飯を食べたり、パソコンで調べ物をしたり、じっと考え事をしていた。パソコンは授業で話す内容の最終確認をすることが多かった。取り上げる人物や事柄の正しい漢字表記をチェックしておかないと、黒板に書くときに誤字を書いてしまう。人物の生年と没年の確認もした。辞書類も豊富だから、英語をはじめ、スペイン語やフランス語の単語の確認もした。自宅で調べ物をしていて、インターネットでおもしろい論文を見つけたときは、大学に来てプリントアウトすることもあった。役得である。そういうことをしている時間が楽しかった。
 講師控室で快適に過ごすことができたのは、スタッフの努力に負うことが多い。いつもおいしいお茶を用意してくれていた。私のように、教室のAV機器やパソコンの操作に疎い者をいつも支えてくれた。優しく親切で、講師が快適に過ごせるように、いつも細やかな気遣いをしてくれた。すばらしいスタッフたちだ。
 私は事務能力が欠如しているポンコツだから、教務など他の課のスタッフにも迷惑をかけた。提出しなければいけない書類の期限を忘れていたり、デジタル入力するときのパスワードを忘れてしまったり、まあ、いろいろやってしまった。悪いのはすべて私だ。そういう欠陥講師を、スタッフたちが助けてくれた。
 すべてのスタッフに謝罪と、ただただ感謝。ありがとうございました。