1215話 プラハ 風がハープを奏でるように 第24回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その6

 

 チェコ音楽博物館から宿に帰った日の夕方、受付けカウンター付近ではジャズが流れていた。「デイブ・ブルーベックか。ラジオ?」と棚のラジオを指さしたら、パソコンに向かっていた若い男が、「いや、これ」とパソコンを指さした。何人かいるスタッフの中で、彼はもっとも親切で人懐っこい。何度か親切にしてもらっている、その彼が音楽好きならちょうどいい。ひまそうだったので、この機会にいろいろ教えてもらうことにした。

 そのひとつがチェコ音楽のことで、いずれ帰国直前にチェコ音楽のCDを買って帰ろうと思っているので、音楽博物館で書いたメモのマルタの項を指さして、「この人はどんな人?」と聞いた。その時は、私はまだマルタのことはほとんど知らなかった。

 「ああ、マルタ・クビショバーね。不屈の人だよ」と、簡単な経歴を説明してくれた。

 「彼女を街で姿を見かけることがあるけど、素敵なレディですよ。僕はジャズとアフリカ音楽ばかり聴いていて、チェコの音楽には詳しくないけど、それでも彼女のことは、よく知っている。ほかにひとりだけ推薦するなら、”JIRI SCHELINGER”かな。聞いてみてよ」

 そう言って、私のノートに推薦盤を書いてくれた。

 それからだいぶたったある日の夜、私はテーブルひとつだけの中国料理店にいた。レンガの建物の中の店だが、ドアの立てつけがえらく悪く、ゴムのベルトで引っ張らないとドアが閉まらないし、床がゆがんでいるからバラックの店にいるような気分だった。宿の近くにある店で、狭いから持ち帰り専用に近い営業形態だった。

 私が皿の飯に炒め物を乗せたような料理を食べていたら、「すいません。ここ、いいですか?」と、若者が声をかけて来た。高校を卒業したばかりといってもいいくらいに、若い。たったひとつしかないテーブルを使っているのだから、相席に文句などない。とりとめのないことをちょっとしゃべると、彼は割合英語がしゃべれることがわかり、話が弾んだ。プラハからちょっと離れた街の高校を卒業してプラハに出てきたといった。

 彼が食事を終えたところで、「そうだ、ちょうどいいな」とひらめいて、チェコの若者が考える人気歌手やバンドを教えてもらうことにした。ノートを広げて、解答を書いてもらった。

 第1問は、キミが好きかどうかに関係なく、とにかく、チェコで人気ナンバー1の歌手は?

 「何といっても、KAREL GOTTだろうな」

 第2問はキミが好きな歌手やバンドは?

 「うーん・・・、BLUE EFFEKT と、あとはFLAMENGOの”KURE V HODINKACH”と、まだいくらでもあるけど・・・・」といって、私のノートにバンドの名を書いてくれた。そうやって音楽の話をしていたら、「実は、ボク、ミュージシャンなんだ。来週ロンドンでレコーディングするんだ」

 「バンド?」

 「そう、こういうバンド」と、私の日記にバンドと曲の名を書いた。

 “LA MIND BULUE CLOUDS BLUE WAY”

 それからまたとりとめのない話をした。若いミュージシャンにありがちな、肩ひじ張って精一杯尖ったふりをするというふうではなく、優しい少年だった。

 「あっ、そろそろ行かないと。これから友だちのライブがあるんだ」

 ふたりで店を出た。食事代は私が払った。ふたり合わせて1000円だから、安いものだ。

 「じゃあ、いずれYou Tubeで会うことになるのかな?」と冗談で言ってみると、

 「そのうち・・・、来週にでもアップします。見てください。ごちそうさまでした」

 そういって、セイフェルトバ通りで別れた。

 20代のころなら、このまま彼についていって、いっしょにライブを見て、そのまま誰かの部屋に泊めてもらい、その翌日は出会ったばかりの別の人の部屋に泊めてもらい・・・という旅をしていたのだが、もうそういう気分にならない自分がちょっと寂しいのだが、この歳で徘徊はまずいだろうとも思う。若い時は、他人に親切にしてもらえるし、好意にすがっていた。それでいいと思う。だが、歳をとると親切にしてあげる側にまわり、その後また親切にされる側になる。

 その「友人のライブ」というのも、私が好きにはならないような音楽のような気がして、聞いてみたいとは思わなかった。その夜は、ちょっと寒かった。宿で熱いコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。

 

 

 

1214話 プラハ 風がハープを奏でるように 第23回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その5

 

 2000年に、NHK「世紀を刻んだ歌」(2000)を見ているが、記憶はあまりない。確認したいことがあるので、録画したはずのDVDを家中探したが、見つからない。これまたはっきりした記憶ではないが、今年だったか、再放送したような気がするが、そのときはチェコに行こうとは思っていなかったから、また見る気がしなかった。

 ネット上に動画がないかと探したが、なかなか見つからない。検索語を変えてしばらく探すと、中国語の字幕が付いたものを見つけた。日本語字幕の上に中国語の字幕が付くから、日本語字幕が読めなくなるからじゃまだが、中国人に見せようと中国語字幕を付けた意図はよく分かる。チェコでは、表現の自由が弾圧された歴史は1989年に終わった。中国では以前にも増して厳しくなり、個人崇拝の強要を迫っている。その国の民に、自由を勝ち取ったチョコの姿を見せたいのだろう。

 この点に関して、ちょっと気になることがある。ある日の夜、プラハベトナム料理店で食事をしていると、5人のアジア人が入って来た。話し声で、中国人だとわかった。しばらくして、また5人の客が来た。ジャスチャーで注文している。持ち帰りにするらしい。後から来た5人も中国人で、このグループは店内で合流した。二人が黄色い法被のようなものを着ていて、背中に文字が見えた。

 法輪功。ご存知ない方は以下の情報を。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%BC%AA%E5%8A%9F

 法輪功の反中国運動は、台湾でもバンコクでも見かけた。バンコクでは、王宮前広場で、たったひとりで、反中国のプラカードを掲げている若い女性を見た。法輪功に限らず、言論の自由を求める動きのテキストとして、チェコスロバキアの例が希望なのだろう。

 NHKのこの番組は、日本人の視聴者を意識してへイ・ジュードを中心にしているが、歌と社会運動という点では、「マルタお祈り」の方が重要だろう。マルタ版ヘイ・ジュードは、それがビートルズの歌だとわかった人には反政府的メッセージは効果的で、だから西欧や日本では話題になったのだろうが、チェコスロバキアの全国民の心に訴えるという点では「マルタの祈り」の方が影響力が強かったと思う。しかし、日本人になじみがない歌では、日本のテレビ番組では訴える力が弱いとNHKは考えたのだろう。ビートルズを持ってこないと、日本人はチェコには興味をもたないと考えたのだろう。それは正解だとは思うが、こうして調べていくと、別の面が見えてくるのが興味深い。

 中国語字幕が追加された「世紀を刻んた歌 ヘイ・ジュード」。80分番組なので、時間があるときにどうぞ。画面が小さいので拡大してご覧ください。

https://archive.org/details/hey_jude_Trafalgar

 

 

1213話 プラハ 風がハープを奏でるように 第22回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その4

 

 マルタ・クビショバーもベラ・チャスラフスカも、初めから筋金入りの活動家だったわけではない。チェコ事件の以前も以後も、共産党政府ににらまれた有名人などいくらでもいたが、多くは共産党に恭順の姿勢を示すか、あるいは政府の勧めに応じて亡命した。しかし、ふたりは、最初の「No」(チェコ語で「Ne」というべきだろうが)を最後まで言い続けた。

 マルタは芸能界に入ったときはアイドル歌手だった。歌で自由を訴えたいという思想はあまりなかったと思う。それなのに政治運動に入っていった理由はふたつあると思う。ひとつは、医者の娘だということで大学進学を禁じられ、やむなく工員をやらされたことに対する怒りだろう。もうひとつの理由は、最初の夫ヤン・ネメツの影響だ。映画監督の彼は、反体制思想の持ち主で、同じ思想の持ち主の活動家で、のちに大統領になる劇作家バーツラフ・ハベルは、彼のいとこだ。だから若い時から、ハベルと親交があり、マルタの最初のLPレコードに入っている”MAMA”のミュージック・ビデオにエクストラ出演しているという情報があったが、見つけらなかった。

https://www.youtube.com/watch?v=L7GU2LmUXV4

 この歌は、アメリカ人歌手シェールが1966年に発表した“Mama When My Dollies Have Babies”のカバー。チェコ語の詞が翻訳かオリジナルかは不明。シェールのオリジナルはこれ。日本でも同じだったが、この時代はアメリカ音楽のカバーが多い。だから、欧米大衆音楽禁止というわけではなかったことが、当時のテレビ映像などを見てもよくわかる。やはり、中国とは違うのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=7lANLm8UuGI

 その後もハベルとの交友は続き、ハベルが逮捕されたときは、ハベルに代わって自由化運動のリーダー代行を務めた。

 チェコスロバキア最後の大統領(在位1989~92)であり、チェコの最初の大統領(在位1993~2003)になったハベルは、2011年死亡。75歳。2012年、彼の功績をたたえ、プラハのルジィーニエ空港がバーツラフ・ハベル・プラハ空港と改称された。

 ちなみに、バーツラフ(Vaclav)という名はチェコでよくある男の名前で、有名なのはこのハベル元大統領や、バーツラフ広場の元となる民族の英雄バーツラフ1世(907~935)だろう。チョコ以外でもこの名は広く使われ、ポルトガルでは現代の正書法でVenceslauとなり、日本でもよく知られる外交官にして作家のベンセスラス・デ・モライス(1854~1929)がいる。

 チェコの自由化運動「プラハの春」を推し進めた当時の共産党第1書記のアレキサンデル・ドゥプチェクは、68年のチェコ事件でソビエトに連れ去られ、帰国後は失脚し、国有林で工員をさせられていた。89年のビロード革命復権したが、1992年に交通事故で死亡した。ベラ・チャスラフスカの話は、別の章で書く。

 

 

 

1212話 プラハ 風がハープを奏でるように 第21回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その3

 

 公安がマルタに求めたのは、「私は悪いことをしました。申し訳ありません」という始末書にサインするか、外国に出ていくかの、どちらかだった。外国で騒ぐだけなら、国内には影響はないという考えだった。マルタは、その両方を拒否した。

 普通の国民には外国旅行の自由はなかったが、反政府的人物は国外亡命を推奨していたらしい。マルタの最初の夫は映画監督のヤン・ネメツだが、離婚してアメリカに亡命した。同じく、ワルシャワ条約軍が侵入した1968年のチェコ事件を機に、アメリカに亡命した映画監督がいる。ミロス・フォアマンチェコ語風に読むと、ミロシュ・フォアマン(1932~2018)である。

 フォアマンといえば、精神病院を舞台にした大傑作「カッコーの巣の上で」(1975)の監督だ。今回調べてみるまで彼がチェコ系だということは知らなかったが、「チョコ事件以後亡命」と知って、映画の舞台となる精神病院とはチェコスロバキアあるいはソビエトだったのではないかという気がする。刑務所の強制労働が嫌だということで、精神病を偽って入院してきたのがジャック・ニコルソン演じるマクマーフィーだ。あの映画を見たのは80年代に入ってからだったが、その当時に抱いた感想、例えば強権の看護師長は、東ドイツソビエトのイメージの演出ではないかと感じた記憶がある。監督について何も知らないときに、あの病院に東ドイツソビエトを感じていたのだ。仮病なのに、病院に収容されているうちにおかしくなるというストーリーを思い出すと、病院が当時のチェコスロバキアと重なるのだが、現実はちょっと違うらしい。

 プラハの春関連の資料を探しているとこんな動画が見つかった、NHKが放送したBSスペシャル「冷戦 第14回」。ここで、ミロス・フォアマンが1968年以前の検閲について語っている。

 「検閲そのものは、そんなにひどいものではありませんでした。しかし、検閲制度がもたらしたものは最悪でした。芸術家たちは、自分で自分を検閲するようになってしまったんです」

 以下の動画の28分くらいのところ。

https://www.youtube.com/watch?v=TnrabVWJLCc

 この話で、チェコがちょっとわかる気がした。これが中国なら、表現者を監禁や軟禁にして、場合によっては「行方不明」にするだろうが、チョコはそこまではしていない。1989年の自由化を求めるデモに警官隊は対峙したが、韓国のように軍が市民を撃ち殺すようなこと(1980年、光州事件など)はしなかった。タイでも、警察や軍がたびたび市民を路上で虐殺している。1968年のプラハの春までは、「チェコスロバキアソビエトの優等生」と言われるような警察国家だったらしいが、それでも当時の中国や韓国と比べれば、規制は比較的ゆるかったのだろう。厳しくなるのは、それ以後のソビエトの支配を強く受ける「正常化」時代だろう(ソビエトのポチになることを、チェコの政治用語で「正常化」という)。誤解のないように書いておくが、私は共産党政権時代に人権侵害はなかったと言っているのではない。『遅れたレポート』(L .ムニャチコ、来栖継訳、岩波書店、1990))という本があるように、圧政はあった。

 1989年のチェコ。のちに「ビロード革命」と呼ばれた自由化運動は、数百人のけが人とひとり死者がいたらしい。警官に殴られた者はいくらでもいたが、市民に袋叩きにあっている警官の映像も見た。それでも発砲事件にはならなかったようだ。

 1989年11月24日、共産党中央委員会はフサーク大統領やヤケシュ第一書記の辞任を発表し、事実上共産党政権が崩壊した。夕方、市民たちは、自由を得た喜びを確認するために、バーツラフ広場に集まった。広場に面したビルのバルコニーに、政権に抑圧されながらも反体制の姿勢を貫いた人が登場した。

 チェコスロバキアを自由な国にする「プラハの春」の中心人物、「人間の顔をした社会主義」運動のリーダーだった元共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェク。自由化運動でたびたび逮捕されていた劇作家バーツラフ・ハベル。彼は、翌12月に、チェコスロバキア共和国最後の大統領になり、93年にチェコ共和国の初代大統領になった。自由化を求める放送をしたテレビキャスター、カミラ・モウチコワ。体操の金メダリスト、ベラ・チャスラフスカ。そして、歌手マルタ・クビショバー。そのマルタが広場に詰めかけた人々に歌いだすシーンがこれだ。市民の心は、「プラハの春」をズタズタにされたチェコ事件の悔しさと、自由化に動き出したこの「ビロード革命」の喜びが交じり合っている。

https://www.youtube.com/watch?v=80PzXcH1Tz0

 『桜色の魂』(長田渚左、集英社、2014)によれば、ビロード革命のこのとき、偶然にもプラハ日本テレビのスタッフがいて、チャスラフスカにインタビューしている。レポーターは別番組で取材に来ていた徳光和夫だったという。

 

 

 

 

 

1211話 プラハ 風がハープを奏でるように 第20回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その2

 

 そのLPレコードは、白黒写真を青地で囲ってある。女性歌手の姿に1960年代を感じる。日本で言えば、カルメン・マキや浅川マキの雰囲気だ。ほかのレコードは、保守本流の流行歌ヒット盤やディスコのバンド風だから、このレコードは異彩を放っている。

レコードをかける。1曲目は、よく知っている曲だ。「ヘイ・ジュード」。ああ、そうか。これか。いわくつきのレコードだ。カメラを取り出し、ジャケットを撮影する。ノートを取り出し、歌手名をメモし、感想を書きつける。

  ジャケットに書いてある“MARTA  KUBISOVA”という歌手の名に記憶はないが、「チェコのヘイ・ジュード」という取り合わせには記憶がある。1968年の「プラハの春」に関係する歌だ。

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 NHKが放送した音楽ドキュメント「世紀を刻んた歌」で、この歌手と歌と当時の政治事情を紹介したというかすかな記憶があった。番組の内容は覚えていないが、ビートルズの「ヘイ・ジュード」が反体制的な歌として歌われた時代があったという薄い記憶はある。のちに調べると、その番組が放送されたのは2000年らしいとわかった。

 Marta Kubišová。記号をつけて表記すれば、こうなる。sの上についている記号はsがshの音になるという意味だ。aの上についている記号は長母音化の記号だ。だから、彼女の名は、マルタ・クビショバーとなる。帰国後、インターネットで1942年生まれといったことはすぐにわかるが、詳しいことはわからなかったのだが、ベラ・チャスラフスカについて調べていたら、マルタに1章を割いている本に出合った。『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』(後藤正治文藝春秋、2004)の第9章「歌声は消えず」だ。

 マルタの父が医者だということで、共産党政権下ではブルジョワの娘は大学進学が認められず、高校卒業後ガラス工場の工員になる。地方都市からプラハに出てきたのは24歳。女性3人組のアイドルとして運よくデビューし、大人気芸能人となる。

こういう歌手だった。

https://www.youtube.com/watch?v=kIpOe7AHURI&index=2&list=PLBAB933592E1C91AA

https://www.youtube.com/watch?v=peu6X6O73OQ

 1968年、ソロ歌手となった彼女は、「マルタの祈り」という歌を吹き込む。宗教戦争で故国を追われた教育者コメンスキー(1592~1670)が、異国で故郷モラビア(現在のチェコ東部)を想う望郷の歌だ。録音した直後、「人間の顔をした社会主義」を目指していたチェコスロバキアソビエトを中心としたワルシャワ条約軍の戦車が侵入し、自由化を制圧する。自由な社会にしようという「プラハの春」がぶち壊された、1968年8月の軍事制圧である。これをチェコ事件という。

 プラハに侵攻してきたワルシャワ条約軍(実質的にソビエト軍)の映像がこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=9WFVhe1Eqb4

 録音しただけでまだレコードにもなっていない「マルタの祈り」のテープは、ラジオやテレビの放送局に運ばれ、ワルシャワ軍の目をかすめ「地下放送」で流された。ワルシャワ軍が引き上げたあとには、この歌の映像も作られ、シングル盤が発売された。同時に、ヘイ・ジュードのカバー曲(歌詞はまったく違う)も加えたLPレコード”SONGY A BALADY”(英語にすれば、Song and Ballad)が発売された。私がチェコ音楽博物館で手にしたレコードだ。

 チェコ公安警察は、この「マルタの祈り」は反ソビエトの歌だとして自己批判書にサインするように強要したが、マルタが拒否した結果、このLPは発売禁止及び廃棄処分になり、マルタは一切の音楽活動が禁止された。マルタは自宅で袋張りの内職をする生活となったが、「マルタの祈り」は愛国歌として、チェコスロバキア人の心に深く浸透していった。

 「マルタの祈り」日本語訳詞つき動画。1968年の動画。

https://www.youtube.com/watch?v=bO1x-GqFvnQ

 そして、マルタと「マルタの祈り」は、民主化を求める人々の支えとなった。

https://www.youtube.com/watch?v=4dPFZuLT9VQ

 1960年代から70年代のドキュメント映像がある。20分を過ぎたあたりから、プラハの春時代のマルタと、その過去を振り返る映像(たぶん90年代)がこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=FgX8BFSx35I

 10分でわかるチェコスロバキア戦後史がこれ。わかりやすい英語のナレーションがついている。

https://www.youtube.com/watch?v=9qG5fxLmfAk

 

 

1210話 プラハ 風がハープを奏でるように 第19回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その1

 

 プラハの博物館はつまらん、入場料を払う価値のある博物館はあまりない。はっきりとそう認識したのは、ムハ美術館だった。その画家の名はMuchaと書く。チェコ語ではchはhの発音になるから「ムハ」である。フランス語では「ミュシャ」と発音し、日本ではこちらのほうを好むようだ。フランスで活躍した画家だが、日本人は結局、チェコ語よりもフランス語のほうが「素敵!」と感じるからだろう。チェコのガイドブックでは、今は「ムハ」の方が普通だろう。

 プラハにあるチェコの画家の美術館なら、それはもう世界最高の水準なのだろうと思い、大枚240コルナを支払って入場した。240コルナという金額は、その辺の食堂では使いきれないほどの金額だ。わかりやすく言えば、日本でうな重を食べるほどの感覚だと思えばいい。

 ところが、そこは美術館というより画廊という程度のもので、見ごたえがない。唯一おもしろかったのがムハの生涯を紹介したビデオ画像(20分、英語ナレーション付き)だけだった。これとて、この美術館のオリジナルかどうかわからない。大阪の堺市立文化館「堺 アルフォンス・ミュシャ館」には行ったことがないが、ホームページで見る限り、プラハのこの美術館は、規模の点では堺に大敗している。これは、チェコの悲劇と言えるかもしれない。プラハの美術館の入場料は日本円にして約1200円だが、堺市の美術館は500円だ。ドイ・コレクションが所有していたムハの絵が堺市に寄贈されてできたのがこの美術館だ。ドイ・コレクションは、「カメラのドイ」の創業者である土居君雄氏が集めたもの。土居氏はBMWのコレクターとしても知られ、収集品はやはり堺市に寄贈された。

 マドリッドにもムハ美術館があって、私が行ったのは閉館時刻直前だったので内部は見ていないが、ここもたぶんプラハよりも優れた展示をしているだろう。

 プラハ国立博物館は改装中だったので、別館の展示しか見ていないから評価はできない。それ以外の、いくつかの博物館に行ってわかったのは、入場料が高いほどおもしろくないということだ。入場料が高くて展示が詰まらないとガッカリ度が高くなるという理屈で、初めから期待をしていなくて、入場料が安いと感動が大きいということだ。

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 ムハの壁画があることで有名な市民会館。内部は定時に団体客にのみ高額で解放ということだったので、もちろん見ていない。

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 プラハ城にある聖ビート大聖堂にあるムハのステンドグラス。これを見るだけなら、入場無料。

 ほんの少し期待したら、思いのほかおもしろくてたっぷり半日遊んでしまったのがチェコ音楽博物館だ。チェコ語でCheske Muzeum hudbyという。コンピューターというのは誠に便利なもので、hudbyが「音楽」だとすぐに教えてくれた。なぜそんなことを調べたかというと、「音楽」はmusicに似たmusik(ドイツ語) とかmuzyka(ポーランド語)のような語だろうと思っていたら、全く違う単語だったので驚いたのだ。セルビア語だって、ローマ字表記すればmuzikaだから。

 120コルナを払って入場する。内部は吹き抜けの大きなホールになっていて、ここでコンサートを開くのだろう。展示会場はこのホールを囲むように外側に続いている。出入口付近の回廊で、中古レコードセールをやっていた。個人が集めたレコードを持ち込んで売っているのだろう。ざっとレコードジャケットを見渡すと、ビートルズの時代のものが多いようで、レコードを売っている人たちの世代と重なる。

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 音楽博物館もまた、美しい建物だ。

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 誰が愛用したものか、メモするのを忘れた。由緒ある楽器なんでしょう。

 館内の主要展示品は古今の西洋楽器で、ボタンを押せばその楽器の音が聞けるのがありがたい。こういう工夫はローマの民族博物館でもあったし、今では大阪の国立民族学博物館にもある。楽器を美術品だと考えれば、ただ展示しているだけでいいのだろうが、やはり楽器は音を聞きたい。

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 これはディスコバンドだな。

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 これは売れ線ポップだろうなどと予想しながら、聞いていく。

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 チェコスロバキアの歌手にはHanaという名が多いのかなどということも気になりつつ、なつかしいレコードプレーヤーにレコードをのせる。

 数多い展示室のなかで、まったく楽器のない部屋があった。部屋にレコードプレーヤーとスピーカー、レコードがちょっとある。ジャケットがボロボロになったLPが10枚ほど。シングル盤が5枚ほど。クラシックはない。全部ポピュラー音楽だ。「どうぞ、ご自由にお聞きください」ということらしい。チェコのポピュラー音楽を聞きたいと思っていたからちょうどいい。今でもよくやる「ジャケット買い」の要領で、ジャケットをにらんで、どういう音楽が詰まっているのか想像しながら、プレーヤーにレコード盤を置いた。幸か不幸か入場者が極めて少ないので、視聴室を占領できる。レコードをかけるのは30年以上やっていない。レコードに針をのせる。シャキシャキというレコード音がなつかしい

 ここで、そのレコードに出会った。

 

 

1209話 プラハ 風がハープを奏でるように 第18回

 チェコ語 後編

 

 チェコ語はそのままローマ字読みしてはいけないので、ちょっとした訓練が必要だ。

地下鉄は車窓からの眺めを楽しめないから、ある日の車内ではチェコ語の教科書を手にしながら、駅名の発音を考えてみた。地下鉄なら、駅名のアナウンスがあるから、路線図を見ながら読解をした後、発音の答え合わせができる。ちなみにこの遊びを台北の地下鉄でやると、国語と呼ばれる中国語のほか、台湾語客家語の発音もわかる。

 プラハの地下鉄遊びをC線でやってみた。

HAJE・・・・・Aには長くする記号がついている。JはYの音。したがって、ハーイェ。

OPATOV・・・語尾のVはFになるので、オパトフ。

CHODOV・・・CHは英語のようなC+Hではなく、CHで1字。発音はHと同じ。語尾のVはF。したがって、ホドフ。ちなみに、スペイン語でも近年までchで1字だったが、現在ではcとhの2字になった。

ROZTYLY・・・この場合(無声子音の前の)ZはSになり、YはIの音になるから、ロスティリ。

KACEROV・・・Cは記号なしならツ(ツア、ツィ、ツ、ツェ、ツォ)になる。記号が入ると、(チャ、チ、チュ、チェ、チョ)のように変わる。この駅名は記号があるから、カチェロフ。

BUDEJOVICKA・・・DEは記号なしならデ、この駅名は記号付きなのでジェになる。JOはYOの音。Aに長音化記号がついているから、ブジョヨビツカー。

PANKRAC・・・パンクラッツ。

PRAZSKEHO POVSTANI・・・プラツスケーホ・ポフスタニー。

VYSEHRAD・・・ビシェヘラド

I.P.PAVLOVA・・・「パブロフの犬」で知られるロシアの生理学者Ivan Petrovich Pavlov(1849~1936)の名にちなんだ駅名。チェコ語の発音は、車内アナウンスでは「イー・パー・パバロバ」というような音に聞こえた。

MUZEUM・・・ムゼウム。国立博物館下の駅。

 プラハに行ったことがない人や、行く気のない人には駅名の発音などどうでもいいことなのだろうが、プラハを毎日散歩していると、駅名を読めないと会話が困る。ある施設の話をしていて、「それ、どこにあるの?」と聞かれて駅名が言えないと、地図を出して説明しないといけないから面倒だ。

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 ブジョヨビツカー駅。

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駅のベンチは木製が多い。

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Uの上にだけ○印が付き、「長く伸ばして発音」という意味になる。したがって、この駅の名はムーステックとなる。

 

 チェコ語の読み方が少しわかり、単語をいくつか覚えていったころ、こんな経験をしている。スーパーマーケットの食料品売り場で買い物をしていると、10人近い日本人がしゃべりながら私の方に来て、棚の向こう側に消えた。そこはプラハの中心地ではなく、団体観光客がやってくる場所ではない。そういう場所にあるスーパーで見かけた日本人の素性はまったくわからない。

 私とすれ違う時にちょっと観察すると、50代の女性が多く、説明しながら歩いているのは30代の男だった。

 「水を買うんでしたら、ボダというブランドが一番有名で、ほらこれも、これもボダでしょ」という声が聞こえた。ビンのラベルに書いてあるボダとは、VODAのことだが、それはブランド名ではなく水のことだ。だから、水のボトルにVODAという文字が多く入っているのは当たり前なのだ。「ボダ」はwaterと発音が近いのですぐに覚えた単語だ。ちなみに、のちに調べてみれば、チェコ語だけでなく、スロバキア語やフィンランド語、セルビアクロアチア語でもVODAに近い語だ。ポーランド語では、wodaだ。ロシア語はローマ字表記すれば、vody。

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看板のなかほど、右から2本目のビンのラベルに"VODA"という文字。

 街を散歩していれば、いくらでもチェコ語の看板に出会う。そのなかでずっと気になっているのが、頭にUがつくレストランが多いことだ。例えば、U Fleku、U Dvou Kocek、U Cirinyなどいくらでもある。初めは定冠詞のようなものかと思っていたのだが、どうも違うようで、チェコ人に聞くと、「そのUは、『~のそばに』とか、『~のとなり』にという意味だよ」というのだが、それだけではわからない。何人かのチェコ人と話していてふと頭に浮かんだのは、「~のそばに」という語義を離れて、日本の飲食店につく語、例えば~軒や~屋、~家や~亭などと同じものだと考えればわかりやすいということだ。あるいは、フランス語のchez(シェ)と同じか。

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Bataの看板を撮ったのだが、右端にU Kariaというレストランの看板が撮れていた。Bataについては、いずれ機会があれば書く。

 こうやってわからないことを調べていくと、少しは覚える。旅の出る前に覚えようと思っても、私のぼんくら頭では覚えられない。しかし、旅しながらだと少しは覚える。もう少し勉強しようかと思うと、語形変化などややこしい文法にぶち当たって、すぐ挫折する。チェコ語がどれほどややこしいのか説明したい衝動に襲われるが、ここで説明するために勉強するのはけっして楽しいことではないので、書かない。こういう語形変化の多い言語に出会うと、「英語ってやさしいな」とつくづく思うのである。文法上、英語よりもはるかにやさしいのはタイ語だ。文法に悩まされ、語形変化を丸暗記するのに疲れた人は、タイ語を始めましょう。文字と発音には苦労するがね。