1223話 プラハ 風がハープを奏でるように 32回

 建物を見に行く その3 パネラーク

 

 日本とチェコの団地、あるいは低中層の集合住宅との違いは、チェコでは1階の入り口にドアがあることだ。古い建物でも、木製のドアがついているから、誰でも個人住宅の玄関ドアにたどりつけるわけではない。ただし、北海道の団地画像を見ると、チェコのように1階入り口に戸があるから、日本でも寒い国の仕様としてこういう団地があるようだ。

 ベランダは注意深く見た。ベランダで洗濯物を干すかどうか気になるからだ。プラハのベランダでも、洗濯物が風にたなびいている。ベランダにも透明な戸がついているのは、スペインなどでも見ているが、チェコのように冬が寒い国では効果的だと思う。韓国のマンションは、ベランダの手すり側にもガラス戸があり、冬は部屋として使える。日本でも雪国でやればいいと思うが、建築関連の法律でできないのだろう。日本は融通の利かない国だからな。

 

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 分譲か賃貸かはわからないが、ベランダにアクリル板をはめている例は下の写真でも見かける。「欧米では洗濯物を見える位置には干さない」などという人がいるが、南欧以外でも見かける。

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 駐車場も興味深い。プラハの中心部からトラムで30分以上郊外に出た新興住宅地、ここ数十年の開発地の高層マンションでは、建物と並んで屋外駐車場があるが、「我が家」の近所の低層住宅では、それぞれの家に駐車場にも物置きにもなる小屋が設置されている。おそらく、住宅ができたときには、誰でも自動車が買える時代ではなかったので、建築家は駐車場のことを考えていなかったが、解放の時代に入って、自動車所有者が増えてきて、適当な場所に屋内駐車場兼物置きを設置したのだろう。

 

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 アパートを建てたが、物置きや駐車場を後付けで設置した例。

 以上のようなことは、住宅散歩をしながら想像したことなのだが、帰国してから資料を探すと、『近代チェコ住宅社会史』(森下嘉之、北海道大学出版部、2013)が見つかったが、高い本で、しかも図書館でも見つからない。本屋にあったのでさっと拾い読みしたのだが、じっくり読まないとわからない。

 チェコの建築関連資料はネットにいくらでもあるが、住宅となるとあまりないだろうなと思っていたのだが、ありがたいことにいくつもあり、質も高い。

 もっとも詳しいのは、「チェコ共和国における社会主義時代のプレハブ住宅開発地の住居史集成的再評価化に関する研究」(田中由乃

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/225581/3/dkogk04293.pdf

 比較的短いものでは、同じ研究者による「チェコにおける社会主義のパネル住宅地の地域価値の形成」がある。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jusokenronbun/42/0/42_1419/_pdf/-char/ja

 このふたつの論文があるから、素人の私が何か付け加えることなどないのだが、こういう論文を読むほどの好奇心はないという人のために、簡単な説明と資料紹介をしておこう。

 チェコの集合住宅をパネラーク(panelak)という。日本語に訳すなら、団地、アパート、マンションなどになるから、集合住宅のことなのだが、重要なポイントはpanelだ。工場で作ったコンクリート・パネルを使ったprefabrication、日本語ではプレハブあるいはプレファブ工法で建てた住宅を言うのだが、日本語の「プレハブ住宅」とは違う。低中層住宅もコンクリート・パネルを使う。前回紹介した住宅公団の職員が、団地の研究のためにソビエトに行ったときに、このパネル工法に注目しているが、日本の団地は型枠に生コンを流し込んで建てた。

 次のブログでは、あるパネラークの姿と内部を紹介してくれていて、興味深い。

https://yaahoj2005.exblog.jp/2419981/

  次もパネラークの内部写真がある。

https://www.mlab.ne.jp/columns/report05_20140813/

  共産党政権の住宅復元したのがこれ。トイレの話はいずれするが、チェコも紙は流してはいけない国だったことがわかる。

https://prahalife.exblog.jp/7258725/

 歴史的建造物や、世界的に有名な建築家の作品を鑑賞するよりも、こういう住宅の細部を見ているほうが私は好きだ。

 

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 私が滞在したのは1650年代あたりから開発が始まった地域だが、その外側にこの数十年ほどの間に開発が始まった「新郊外」が遠くに見える。

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 そういう新郊外に行ってみると、ただの高層アパート街が広がり、空疎な雰囲気だ。

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 これも共産党時代のものだろうか。

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 これは明らかに新しい住宅で、グーグルマップの空中写真を見ると、ニュータウンの感じがする広大な新興住宅地だ。トラム9番の終点付近。

1222話 プラハ 風がハープを奏でるように 31回

 建物を見に行く その2 団地

 

 「誰がこんな場所の宿を予約したんだよ!」と悪態をつきたくなったが、私が予約したのだから誰にも文句が言えない。

 プラハに着いたら、とりあえず2週間ほど滞在して、そのあとちょっと地方巡礼に出ようかと考えていたのだが、日本で予約する段階で、その宿の6日目だけが満室だった。1日だけ別の宿を探し、また同じ宿に戻って来ようかとも考えたが、不便なのだ。たとえ近所の安宿に空室が見つかっても、10時までに宿をチェックアウトして、しかし次の宿のチェックインは2時以降だから、荷物の管理など面倒が多い。だから、6日目以降は別の宿で過ごすことにした。プラハの違う場所に滞在するのもおもしろかろうと思い、料金が安い宿を探して日本で予約した。

 2番目の宿が郊外にあるということはなんとなくわかっていたが、実際にプラハを知らずに予約したので、どの程度の「郊外」かわからない。地図で確認すると、地下鉄駅からだいぶ歩くようで、しかも複雑な場所にあるようだから、引っ越し前日に下見に行った。荷物を持ったままウロウロと歩き回って宿探しをしたくなかったのだ。下見に1日使うのだから近所の宿に泊まっても同じだったが、旅行者があまりいない郊外生活はおもしろそうじゃないか。だが、どの程度の郊外かわからずに予約した宿だ。

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 プラハ中心地の「新市街」の住宅。築100年以上の住宅だ。

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 プラハ中心部から地下鉄に乗って郊外へ。

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 低層の集合住宅が続く街並みを歩く。

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 次回に書くように、団地だが、1階入口にもドアがある。防犯と防寒用か。

 それで、冒頭の悪態だ。地下鉄駅から徒歩15分。団地を抜けて戸建て住宅地に入り、自動車が入れない裏道を通り、やっと目的の宿に着いた。一軒家の宿だが、管理者は同居していないから、いわゆる民宿ではない。宿の支払いは予約時にクレジットカードでやるから、管理員はカギを渡すだけだ。掃除やシーツなどの洗濯はパートのおばちゃんがやる。

 郊外生活の話はいずれ機会があればするが、今は建築の話をする。しばしの宿は一戸建てだが、宿用に大幅にリフォームされているので、チェコ人の住まいを知る参考にはならない。建物は、日本の建て売り住宅よりもやや大きいという程度だが、敷地は広く、裏庭で洗濯物を干すようになっている。日本風に言えば、80坪くらいの二階建て住宅だ。

 近所のアパートは5階建ての低層のものと、それ以上の中層のものがあり、時代的には低層のものが古いだろう。時代的には、1950年代以降色々ありそうだ。郊外で建物探検をやったあと、後日その写真をジョージアから来た留学生に見せると、「ああ、共産主義住宅か!」と吐き捨てるように言った。嫌な時代の象徴的な建造物ということなのだろう。

 彼の言葉を聞いて、共産主義団地の話を思い出した。その学習はすでにしていたことを思い出したのだ。『団地の空間政治学』(原武史NHK出版、2012)から、ポイントを書き出す。

・郊外の集合住宅群はソビエトから始まる。小規模のものは、ベルリンやウィーンにもあったが、大々的な集合住宅群、つまり団地は、フルシチョフ時代のソビエト、1954年から始まる。集合住宅の効率的な建設方法などを工夫した。

・第2次大戦で都市が焼けた国に団地ができた。アメリカなどは、郊外に戸建て住宅群を作ったが、団地は作らなかった。

・日本では、関東大震災後の住宅問題解決のひとつとして、同潤会アパートを作り、それをもとに住宅営団を作り、戦後に日本住宅公団となる。1956年の日ソ共同宣言で国交が回復すると、公団の職員が団地建設の視察にソビエトに出かけている。

 天下のクラマエ師こと旅行人CEO蔵前仁一氏からは、前川は旅先で有名建築家の作品を鑑賞せずに団地に行く変な人と幾度か書かれたが、政治学や居住学、文化人類学研究としても、私には団地はなかなかにおもしろいテーマなのである。

 『団地の空間政治学』には、アメリカは団地を造らなかったとあるが、それは正確ではない。日本のニュータウンのような団地はないが、アパート群はある。The Projectsという語には「団地」の意味もある、The housing Projectsの略だからだ。

 アメリカにおける団地の興亡は次の資料でよくわかる。

https://www.youtube.com/watch?v=7eGTU_uXLKk

 あるいは、これも。

https://en.wikipedia.org/wiki/Public_housing_in_the_United_States

 このThe Projectsに気がついたのは、次の歌がきっかけだった。”Ain’t no chimneys in the projects”は、「団地にサンタが来ないのは、煙突がないから」というアメリカの歌だ。

https://www.youtube.com/watch?v=N3jvDeHLkgo

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 中層住宅は、日本の風景と変わらない。

 

 

1221話 プラハ 風がハープを奏でるように 30回

 建物を見に行く その1 国立産院

 

 プラハに着いてまだ間もない日の遅い午後、洗濯を終えたあと宿の近所を散歩することにした。宿は新市街にあるのだが、プラハの「新市街」というのは、中世の旧市街に対する近世の新市街だから、100年から200年くらいの建物が並んでいる。プラハは幸運にも空襲されることがなかったから、昔の建物がかなり残っている。第二次大戦後、不幸にもソビエトの支配を受けたことで経済的に停滞した結果、古い建物が壊されガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ街にはならなかった。経済の停滞が古い建物を残すという点では、チェコポルトガルも同様である。こういう例を、私は日本の旧宿場町になぞらえる。明治に入って鉄道の時代になると、江戸時代に栄えた宿場町が取り残された。長野県の奈良井宿妻籠宿のように、古い街並みを残そうとした結果ではなく、残ってしまった江戸の街並みが観光の時代を迎えて脚光を浴びるようになるというのが、外国ではプラハでありリスボンだ。

 宿の前の大通りは1階が商店で、その上がアパートになっているような建物が並んでいるのだが、表通りからちょっと裏手に入ると木立の中に塀が見えた。近づくと、塀の中に黒いレンガの大きな建物が見えた。2階か3階の、古い大きな特異なデザインの建物だ。塀で囲まれているから、普通の集合住宅ではないだろう。学校か軍の建物か、それとも刑務所か。東京駅のような、よくある赤いレンガの建物ではなく、黒いレンガが謎めいている。夕暮れ時は、コウモリが飛び交うスリラー映画にぴったりの風景だった。

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 好奇心がだんだん強くなり、この建物の正体を知りたくなった。看板があれば、それを撮影して、のちほど誰かに解説してもらおう。そう思って入口に立つと、チェコ語と英語の看板があった。産院だったのだ。

 

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 国立産院 1875年

 世界でもっとも長い期間にわたって診療を続けている産院のひとつ。設計・施工は、チェコの科学・文化・教育の支援者でもあるヨセフ・ハラーフカ 

 

 国際機関ではないのに、なぜチェコ語と英語の両言語がいっしょになった金属プレートがついているのか、わからない。過去か現在に、イギリスかアメリカの援助があったとすれば、そのいきさつを書いたプレートがあるだろう。

 プラハの本屋で買ったプラハ建築ガイドでこの建物と建築家を調べたが、見つからない。建築的には無視していい程度のシロモノだとわかった。帰国して、ネット情報を頼りに糸をたどってみたが、正確なことはわからない。

 ヨセフ・ハラーフカ(Josef  Hlavka 1831~1908)はプラハチェコ工科大学とウィーンの美術アカデミーで建築を学び、チェコ人が作ったウィーンの建設会社の後を引き継ぎ経営者となったらしい。この会社は、1861~69年にかけて、ウィーンの国立歌劇場建設を請け負ったという。

 ウィーンの歌劇場のあと、プラハで産院の設計・施行をした。同じ時代、ウクライナのチェルノフツィ国立大学(1875年開校)の設計もしている。この写真で見ると、たしかにプラハの産院に似ている。

https://castles.com.ua/residence.html

 画像検索では、プラハのカレル大学医学部の校舎も産院に似たレンガ造りだ。これら、ハラーフカが設計した建物は、ネット資料により、新ゴシック様式とか折衷様式などと説明されているが、私の力では解読できない。ドイツ人旅行者に産院の写真を見せたら、「こういう建物なら、ドイツにいくらでもあるよ」と言われたが、ドイツに行ったことがない私には何も言えない。

 ネット情報では、ハラーフカの肩書は、建築家、慈善家、科学芸術財団の創立者となっているが、詳しい事情が今ひとつわからない。しかし、チェコのVIPだったことはわかる。地下鉄フロレンツ(Florenc)駅の北、ブルタバ川の中之島シュトオアニツェ島を挟んでかかる橋の名が、ハラーフカ橋(Hlavkuv  most)である。この橋は何度かわたっているのだが、橋の名と意味を今知った。

 プラハの建築探訪は、この産院から始まった。

1220話 プラハ 風がハープを奏でるように 第29回

 ベラ・チャスラフスカ その3

 

 メキシコ・オリンピックで大活躍したベラは英雄となり、同じくオリンピック陸上選手のヨゼフ・オドロジルと結婚した。ソビエトに支配されたチェコスロバキア政府は、解放政策を支持し他国の妨害を許さないという趣旨の「二千語宣言」に署名した者を、反ソビエト思想の代表的人物とみなし、英雄となったベラを表舞台に立てないようにした。すべての職に就くことを禁じる兵糧攻めだ。外国、特に日本で人気の高いベラを陰に日向に応援する人たちがいて、様々な手を尽くして国際的な場に連れ出し、金銭的な援助もした。しかし、国内的には、世間から抹殺された状態に放置された。

 そして、1989年の民主化ビロード革命で再び注目を浴びて、1990年にハベル大統領の補佐官に就任した。同時に、オリンピック委員会会長、チェコスロバキア・日本友好協会名誉会長など、一気に表舞台に立つ。

 1993年、悲劇が起こる。別荘近くのディスコで、息子のマルティンと、すでに離婚している元夫オドロジルが出くわした。泥酔している元夫は、店内で騒ぎを起こし、止めに入った息子が父を殴り、倒れ、頭を打って死亡したという事件だ。

 このスキャンダルで、世間は一気にベラ非難に傾いた。多くの国民は共産党政権時代、「正常化」の圧力に屈して、政権に恭順の意を表した。簡単に言えば、本意であるかどうかにかかわらず、転向することで、普通の生活を取り戻したのだ。しかし、ベラは屈しなかった。過去を後ろめたく感じていた人たちは、ベラの姿がまぶしくて、ジャンヌダルクのスキャンダルに留飲を下げたのだろう。前夫の実家が権力筋であったということもあり、表現の自由を得たマスコミはありもしない話をでっちあげ、ベラを蹴落とした。後藤正治はそう解説する。

 非難を浴びた結果、今度はベラが自分自身を閉じ込めた。うつ病となり、外部との接触を断ち、入院生活を送ることになった。ノンフィクションライターの後藤正治がベラの本を書きたいと思い、何度も接触を試みたが果たせず、ベラとは通訳を介しての質問状のやり取りしかできなかった。『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』(文藝春秋)はそういう不自由で不幸な事情で取材し、2004年に出版した。

 医者から、「もう回復することはないだろう」と言われていたベラは、14年間の沈黙の後、奇跡的に社会に復帰した。長田渚左は、回復したベラと会い、何度か長時間のインタビューをしている。その取材が結実したのが、『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(集英社)で、2014年に出版した。この本の最後はモハメド・アリの話で締めくくっている。ベラもアリも、ともに1942年生まれで、ともに18歳でローマ・オリンピックに初出場し、金メダルを獲得し、その後波乱にとんだ人生を歩んだ。この本は2014年に出たので、そのあとの事情をここで書き添えておく。

 モハメド・アリは、2016年6月3日、敗血症ショックで死亡。74歳。

 ベラ・チャスラフスカは、2016年8月30日、膵臓ガンで死亡。同じく74歳。亡くなる前年の様子を長田渚左は次のように書いている。

https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/other/2015/10/12/51/index.php

 1942年生まれの人を、あとふたり、私のこのブログですでに触れている。浅川マキは2010年に亡くなっている。同じく1942年生まれのマルタ・クビショバーは今も元気に歌っている。2017年の歌声がユーチューブで見つけた。

「マルタの祈り」2017年。

https://www.youtube.com/watch?v=rxa4qxgp7Fc

 

 

1219話 プラハ 風がハープを奏でるように 第28回

 ベラ・チャスラフスカ その2

 

 プラハ共産主義博物館以後、チェコを旅していて、若きベラ・チャスラフスカの写真に何度か出会った。2018年は、チェコスロキアが独立した1918年からちょうど100年ということで、各地で「1918~2018」と題した催事が開かれていた。チェコの現代史を示す写真のなかに、ベラの笑顔が何枚もあった。

 彼女の名前はチェコ語でVěra Čáslavskáだから、近い発音をカタカナ表記すれば「ビエラ・チャースラフスカー」のようになる。eの上に記号がつくとieの音になるのでvieraという発音になるのだが、慣用を重んじベラ・チャスラフスカとし、長いのでここではベラと書く。

 彼女が体操界で頭角を現すのは、1957年のチェコスロバキア選手権に出場した時だ。15歳だったが、ジュニア部門ではなく一般女子の部で6位に入ったときだろう。以下、年表風に活躍を書き出してみよう。

 1960年 国際大会(プラハ)で優勝。オリンピック(ローマ)では団体総合2位。

 1961年 ヨーロッパ選手権東ドイツ)で個人総合3位

 1962年 世界選手権(プラハ)で個人総合2位。種目別では跳馬で優勝、徒手(床)で3位

 1963年 プレオリンピック大会(東京)で総合3位。跳馬段違い平行棒で優勝、徒手(床)で2位。

 1964年 東京オリンピック平均台跳馬で優勝。個人総合でも優勝し、合計3個の金メダルを獲得し、いままで首位を占めていたソビエトに勝利した。団体総合はチェコスロバキアが銀メダル。 

 東京オリンピックの次が1968年のメキシコ・シティだが、チェコスロバキア人にとっては、このコラムで何度も説明してきたプラハの春と、それがソビエトを中心としたワルシャワ条約軍によってつぶされたチェコ事件があった、あの1968年である。

 1968年1月5日、スロバキア共産党第一書記のドゥプチェクがチェコスロバキア共産党の第一書記に就任した。これにより、「人間の顔をした社会主義」を進めるために、検閲を廃止し、自由化に動き始める。

 6月27日 二千語宣言発表。ザトペックやベラらが署名。

 8月20日 ワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻。プラハは戦車でうまる。

 10月12~27日 メキシコ・シティーでオリンピック開催。

 メキシコのオリンピックとプラハの春が同じ1968年だということは知っていたが、オリンピックの後にワルシャワ軍の侵攻があったのだと思っていた。首都を戦車に占領された状況では、とてもオリンピックに参加などできないだろうと思っていたからだ。

  現実は違った。出場が危ぶまれていたチェコスロバキア選手団は、いろいろと障害があったもののメキシコに来た。そして、ベラはソビエト選手に勝った。個人総合、跳馬段違い平行棒、床で金メダル。団体総合は銀メダルだった。床はソビエトのラリッサ・ペトリクと同点1位だった。その授賞式では、チェコスロバキア国旗とソビエト国旗は1本の棒で同位に掲揚され、国歌演奏はチェコスロバキアが先だった。後半のソビエト国歌演奏になると、ベラは視線を右下に外し、ソビエトチェコ侵攻に静かに抗議した。その映像がある。

https://www.youtube.com/watch?v=SyYMcLwKreo

 ウィキペディアでは床ではなく「平均台競技で・・・」と長い解説をしているが、上の映像が残っているのでおそらく勘違いだろう。やはり、ウィキペディアの信頼度は低い。

 1968年のメキシコ・オリンピックと言えば、アフリカ系アメリカ人選手が、表彰式で黒い手袋をした手を空に突き出すという姿で民族差別に抗議した。その結果、オリンピックに政治を持ち込んだという理由で金メダルを剥奪された。その事件は、ベラの床運動の9日前だったので、メダルを剥奪されるような抗議はしないように、「ギリギリの線を考えて、顔を背けました」(『桜色の魂』(長田渚左)と、ベラは後日語っている。

 1970年6月 ソビエトと対抗してきた共産党の改革派幹部は除名され、プラハの春は終わる。ソビエトの意のままに政治をする「正常化」の時代に入る。

 今書いた情報は、調べたことを書いただけで、同時代体験があったわけではない。「チェコの体操選手ベラ・チャスラフスカ」という名前だけは知っていたが、今回このコラムを書くまで、詳しい出来事は知らなかった。私にとってのベラ・チャスラフスカは、ソビエトに対峙した凛々しい体操選手だった。

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1968年10月。メキシコ・オリンピックの金メダルと抗議。ジミ・ヘンドリックスの「エレクトリック・レディランド」発売。チェスキー・クロムロフの地域博物館の「1968年展示」

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 プラハでも各地区で「1918~2018展」や、「1968年から50年展」の写真展が開催されていた。

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1964年、東京オリンピックから帰国したベラとその写真説明。

そして、1968年。

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プラハ市立博物館前でも、写真展

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 ソビエト軍の侵攻に抗議して焼身自殺した若者、ヤン・パラフとヤン・ザイーツの追悼碑がバーツラフ広場にある。

 









 

1218話 プラハ 風がハープを奏でるように 27回

 ベラ・チャスラフスカ その1

 

 2019年のアジア雑語林がまた始まりました。

 ムハの絵で知られる市民会館のすぐそばに、共産主義博物館というものがある。ジョージアから来た留学生にこの博物館に行ったと話したら、とたんに顔をしかめた。「共産主義のどこがいいんだ」と言いたい顔つきだが、もちろん共産主義礼賛の博物館ではない。「あのひどい時代はこうだった」という記録と、人々はその共産党政権といかに戦ったという記録が9割に、「それでも懐かしい昔の生活の再現」が1割というのがその博物館の構成だろうか。幸せにも共産党政権下で暮らしたことがない私には、それなりに興味深かったし、ビデオ室で現代史の映像をじっくり見ることができたのが収穫だった。

 

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 ムハの絵があることでも知られる市民会館。そのすぐそばに共産主義博物館がある。

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 「あの時代、こういうつまらない絵ばかりでした」という展示だろう。こういう絵画を、ハノイの美術館でも見た。

 共産党政権下の映像の中に、陸上選手のトレーニング風景があった。まったく知らない選手だが、字幕を見てわかった。

 Emil Zátopek(1922~2000)。チェコ語ではザートペックだが、日本ではザトペックとして知られる陸上選手だ。オリンピックでザトペックが走っている昔の映像は見たことがあるが、どういう顔つきの人だったかまったく記憶にない。この博物館にザトペックの動画があったのは、有名な陸上選手だったからというだけではない。

ザトペックは、1948年のロンドン・オリンピックで、陸上10000メートルの金メダリスト。次の1952年のヘルシンキ・オリンピックで、5000,10000メートル、マラソンの3種目で金メダル獲得という驚異の成績を収め(この記録はいまだ破られていない)、英雄となったということは今回調べて知った。チェコに行く前に知っていたのは、ザトペックという名前と、「人間機関車」というニックネームだけだった。彼の国籍も成績も知らなかった。

 「人間機関車」というニックネームは、あえぎながら苦しそうに走ることからつけられたようで、日本人の命名かと思ったが、英語の資料には“Czech Locomotive”(チェコ蒸気機関車)という表現がある。欧米の、どこかの誰かが言い出して、日本でも巷間に広まったのだろう。ザトペックといえば、野球に興味も知識もない私でも、「村山実のザトペック投法」は、その意味は分からないものの、聞いた記憶はある。調べてみれば、こういうことだ。村山実関西大学2年生だった1956年に大活躍して、苦しそうな投球スタイルから「ザトペック投法」と呼ばれたという。ヘルシンキ・オリンピックが1952年だが、56年になっても、ザトペックが日本人の深い記憶に残っていたのだ。昔は、今と違って記憶に持続力があった。それでも、ヘルシンキ・オリンピックの年に生まれた私には、同時代感覚は当然ない。記録映像などで「ザトペック」という陸上選手が走る遠景は見ているが、顔を見た記憶はなかった。プラハの博物館で、在りし日のザトペックに出会い、彼がチェコスロバキアの選手だったと初めて知ったのである。

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 ザトペックはチェコの英雄ではあるが、そういう理由でこの博物館に映像が公開されていたわけではない。1968年のプラハの春の時代、つまり「人間の顔をした社会主義」を進めようという時代に、共産党のその姿勢を支持する市民が「二千語宣言」に署名した。発表したのは、1968年6月だ。数万人の署名があったが、有名人ではこのザトペックや、ザトペックと入れ替わるように1958年から国際大会に姿を見せた体操選手ベラ・チャスラフスカがいた。

 チェコに侵攻してきたソビエトは、この「二千語宣言」を反革命的行為だと断定し、ソビエトのあやつり人形となったチェコスロバキア政府は、二千語宣言署名者に圧力をかけていくことになる。

 

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 プラハの春と、それをソビエトがつぶしたプラハ事件と、いっぱいのメダルを持ち帰ったベラ・チャスラフスカの1968年の事件。

1217話 プラハ 風がハープを奏でるように 第26回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その8

 

 チェコの過去のヒット曲はどういうタイプの音楽なのか、歌手の服装などいろいろ知りたかった。希望のままに終わるかと思われたが、偶然にも、宿の台所でテレビを見ていたら、コンサートのシーンが出てきた。日本風に言えば、「我らの青春! 懐かしの大歌謡祭」であり、スタジオ収録の番組だ。

 腰を据えて、じっくりと見る。日記帳を広げてメモを取る。どうやら、番組スポンサーはレコード会社のようで、CDやDVDの広告が画面にずっと出ている。だから、いま歌っている歌手の名も画面に出続けるから、メモをとるのは便利なのだが、「メモをして、どうする?」という疑問もある。そういえば、イタリアにもこの手の番組があったことを思い出す。団塊の世代向けの音楽番組ということだろう。

 スタジオの客席を見れば、50代もいるが多くは60代以上で、彼女ら彼らの青春時代といえば、1960~70年代だろう。その時代の音楽だと言うことが、観客と同世代の私にはよくわかる。イタリア語交じりの歌があった。曲調はカンツォーネだ。いかにも60年代だ。アメリカの歌の焼き直しもある。チョコスロバキアにも、当時の音楽の潮流が流れ込んでいたことがよくわかる。

 チェコらしいといえるのは、トランペットやチューバなどの小編成ブラスバンドか、そのブラスバンドアコーディオンが加わる編成、アコーディオンバンドネオンの伴奏で歌うコーラスグループ。全体的には、日本で言えば、松崎しげる布施明、サーカスといった感じの歌だ。ちなみにポルカチェコの音楽なのだが、残念ながら私の好みではない。

https://www.youtube.com/watch?v=5JGgy-FXjf8

 以下、そのテレビ画像の、民族服を着た人たちの写真を紹介する。

 

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 見始めたのが9時過ぎだから、10時には終わるだろう。コーヒーを飲みながらメモを取り、「つまらない音楽だなあ」と思いつつ見ていたが、11時になっても番組は終わらない。11時20分になって、私の堪忍袋が切れて、ベッドに向かった。この手の音楽を私の記憶で表現すれば、かつてあった「世界歌謡祭」や、いまもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」の歌のようだ。

 チェコ音楽をキーワードにネット遊びをしていたら、Best Czech Songsの画像が出てきた。プラハのような都会の若者が好んだ音楽で、当時の中高年は眉をひそめた歌も多かっただろうが、当時のポップミュージックの傾向はわかる。まずは、1960年代編を。1960年代のチェコは、自由化への道を歩み始めた時期だ。

https://www.youtube.com/watch?v=qo2T_Cc6GQo

 ついでに、その70年代版も。

https://www.youtube.com/watch?v=QqmirdDRhU4

 1980年版が、これ。ある国のポップミュージックの数十年の歴史を追っていくのは実に興味深い。チェコの場合、カレル・ゴットが長年にわたって音楽界のトップを走ってきたことがよくわかる。1939年生まれ、62年にレコードデビュー。チェコ国内だけでなくドイツ語圏で絶大な人気を誇る大歌手だと、この文章を書いている今、ネット情報で知った。

https://www.youtube.com/watch?v=lbIfEmDcGVQ

 翌日の夜も、テレビでこのナツメロ番組をやっていた。野外の小さなコンサート収録。観客たちのトイレが心配になるほどの長時間番組だった。毎晩やっているのか?

 チェコのポピュラー音楽を聞きたければユーチューブで聞くことはできるが、説明付きで詳しく聞きたいという人は、”Musical trip to Czech”というコンピレーション・アルバムがある。もちろん、見つけてすぐに買った。いろいろなタイプの音楽を集めてあるから、おもしろくって、ためになる。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B3-%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%AA%98%E3%81%84-%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9/dp/B00006L98M/ref=sr_1_7?s=music&ie=UTF8&qid=1543857991&sr=1-7&keywords=czech

北中正和さんがこういうアルバムを作っていたとは知らなかった。このCDのなかで気に入った歌手がいれば、ユーチューブで確認して、輸入CDを探せばいい。

 

 

 2018年は、モロッコ、スペイン、大阪、チェコに行ったが、大みそかの今となってはなんだか遠い昔のように感じている。

 チェコ音楽の話は今回で終わり、同時に今年の更新も最後になりました。次回からの分もすでに書いてありますが、更新は正月休みを終えてからにしましょう。私がチェコにいる間に出版されたので買いそびれていた『歩くはやさで旅したい』(おおうちそのよ、旅行人、2018)を年末に入手したので、正月はこの本を読みながら、2019年の旅を考えましょう。

 今年も健康で旅ができたことに感謝しつつ、皆さまも、楽しい旅を。