1230話 プラハ 風がハープを奏でるように 39回

 建物を見に行く その10 アール・ヌーボー 前編

 

 買った本が書棚に入らなくなって久しい。そこで建築関連書をまとめて処分しようかと考えていたのだが、チェコで建築見物を始めてしまった。かつてよく足を踏み入れた神保町の建築専門書店南陽堂に半年ぶりに行ってみたら、奇遇というべきか、ワゴンセールをしているなかに『建築巡礼31 プラハアール・ヌーボー』(田中充子、丸善、1993)があった。ネットでは確認している本だが、現物はこの時初めて見た。写真が豊富だから、プラハの建築散歩のガイドに使えるのだが、旅を終えてからこの本を手に入れた。そんなわけで、建築の本は処分するどころか、また増えてしまった。

 と、ここまで書いたところで、床に積んでる本の山が一部崩れ、その修復作業をしていたら、長らく消息を絶っていた『図説 近代建築の系譜』(初田了ほか、彰国社、1997)を発見した。当然だが、この本でもアール・ヌーボー建築にも言及しているが、どのページを見ても、チェコの建築には言及していない。ちょっと前まで、チェコは建築を研究する場所ではなかったのだ。

 田中了子さんが建築研究のためにチェコに初めて留学したのは1991年だった。チェコは音楽や文学の研究では有名でも、建築に興味をもつ人はいなかったという。アール・ヌーボー建築を含めて、日本にチェコの建築物を初めて紹介したのが田中さんだったという。その最初の本が、上に書いた丸善の本だったというわけだ。

 ここで、「そもそもアール・ヌーボーとは」といった話を始めたら、チェコの旅話はいつまでたっても終わらない。プラハの建築資料は書籍やネットにいくらでもあるから解説はそちらに任せて、私は散歩のスケッチ代わりに撮った写真を2回に渡って紹介するだけにする。

 

 プラハアール・ヌーボー建築と言えば、その代表はやはりムハの絵で知られる市民会館だろう。館内見学は、個人が勝手に見て歩くことはできず、1日数回実施されるガイドツアー(ちょっと高い)に参加するしかない。1階のカフェとレストランも有名。

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 市民会館以外の建物は、次回。

1229話 プラハ 風がハープを奏でるように 38回

 建物を見に行く その9 キュビズム 後編

 

 キュビズム建築散歩は、散歩をする一応の名目のようなもので、深く研究するわけではない。ちょっとおもしろそうだったので、てくてくと歩いた。それだけのことなのだが、建築のおもしろい街は、散歩のおもしろい街でもある。

 

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The Svanda Theatre 1918~1920

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 Tychonova通りの住宅。1912~1913

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インターコンチネンタルホテル脇の教員住宅。1917~1919

 

 プラハキュビズム建築とされるものを訪ね歩いても、私にはキュビズム建築とは一体何かということがわからない。建築の参考書を読めば、「非ユークリッド幾何学の思想を建築で表現したもの」などと言っても、普通の幾何学とは違うものなのだろうが、私にはわからないし、深く勉強しようとも思わない。

 レジオン銀行は「在郷兵士銀行」だから、兵士のレリーフが壁面に飾られ(「兵士の帰還」というレリーフ)、なんだか社会主義国のようだが(このビルが建てられた時代は、チェコはまだ社会主義国ではない)、建物の中にはいると、おお、アール・デコだよと、デザインのド素人がカメラを取り出す。

 のちに参考書を読むと、チェコキュビズム建築というのは、結局のところチェコアール・デコなのだという解説(「芸術新潮」1999.11)を読んで、納得。このチェコアール・デコは「1925年以降、国際的なアール・デコに飲み込まれた」ことで、キュビズム建築も終わる。

 

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 地図を見ながら、The Czechoslovak Legions Bank(1922~1923)を探した。通りの向こうに見つけたが、このときはまだ何の期待もしていなかった。

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 大通りを渡ると、ゴタゴタしたレリーフがあり、悪い予感がした。

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 部外者も入れそうなので、ちょっと覗くことにする。

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 この木のドア、いいじゃないか。

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 右のドアも見る。このとき。「アール・デコ?」という印象だった。

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 木は美しいが、この柱の石は私好みではない。

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 脇の壁のドアにあるのは、部外者立ち入り禁止のマークだろう。私は直進する。

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 おお、これはなんだ。なかは近代的な銀行だ。もう少しシンプルな方が好みだが、いいぞ。しばし、立ち止まり眺める。細部も撮影したくなる。

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 ひとつ上の写真のように、脇からの覗き見的な撮影はおめこぼしをしてくれたが、今度は正面から堂々と銀行にカメラを向け撮影、同時に「ご遠慮ください」という声が耳に入る。ここのガラス張りの天井も細部も撮影したかった。中に入れてくれれば、1時間以上は遊べるのになあ・・・と思いつつこのビルを出る。

 ちなみに、この銀行はCSOB(Československá obchodní banka),チェコスロバキア貿易銀行である。

 

 

1228話 プラハ 風がハープを奏でるように 37回

 建物を見に行く その8 キュビズム 中編

 

 黒い聖母の家でもらったキュビズム建築ガイド“A Stroll Around Prague’s Cubist Architecture”は、建築物のカラー写真と建築家の名前と生没年、そして地図がついているから、これをガイドにプラハを歩いた。全部で16の建築物が紹介されていて、遠方にあるひとつを除いて15すべてに行った。塗装を変えておもしろくなくなったものや、改装工事中だったものを除いて、いくつか紹介する。それぞれの詳しい解説を知りたい方は、参考書がいくらでも出ているので自分で勉強してください。

 まずは、黒い聖母の家のすぐ近くにあるアドリア宮殿から。1922~1925年の建築。下階は商店、上階はオフィス

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ユングマンYungmannova広場の街灯。1912年。

 

 

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 ブルタバ川沿いの住宅。1912~1913年。

 

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 リプシナ通りの住宅。1913年。

 

 このあとの4枚は、ネクラノバ通りのアパート。1913~1914年。印刷物の登場回数では黒い聖母の家以上に有名だろう。

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 次回もキュビズム建築を写真で紹介する。

1227話 プラハ 風がハープを奏でるように 36回

 建物を見に行く その7 キュビズム 前編

 

 プラハは、街全体が「建築博物館」になっている理由は、古い時代からの建造物がそのまま残っているからだ。例えば、こういう建物がある。

・ロマネスク様式・・・・10世紀後半~13世紀

ゴシック様式・・・・・12世紀中期~15世紀末

ルネサンス様式・・・15~17世紀初め

バロック様式・・・・・16世紀末~18世紀中期

アールヌーボー様式・・19世紀末~20世紀初め

キュビズム様式・・・・1911~25年

・現代様式・・・・・・・20世紀後半

 上に挙げた各様式の時代区分は国によって差があるのだが、建築のキュビズム様式はチェコだけの例だ。私は建築物にゴタゴタ飾りがついているのが好きではないので、プラハではもっぱらキュビズム様式と現代建築の建物を見た。時代的には20~21世紀の建築である。

 キュビズムとは、20世紀初めにピカソやブラックが主導した美術運動だ。それまでの、「ひとつの視点で描く」絵画ではなく、多角的視点で描こうとしたもので、1枚の絵に人の顔が正面も側面の視点も併せて描く。次のような説明は、私にもわかる。

http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-67.html

 キュビズムは日本では「立体派」と呼ばれたようで、平面に立体的視点を取り入れるというのはわかるが、現実の立体である建築物が「キュビズム」と言われても、正直私にはよくわからない。直線的な凹凸のある壁面、水晶のようなデザインというのはわかる。アール・デコの近縁だなという想像もはたらく。次のブログはわかりやすく解説してくれてはいるが、完全に理解できたわけではない。

http://bibou726-49.jugem.jp/?eid=143

 だから私の建築散歩は「プラハにしかないキュビズム建築鑑賞」ではなく、「なんとなく面白そうな建物を見て歩く」というものだった。

 キュビズム建築としてもっとも有名なのは、黒い聖母の家だ。元は商業ビルとして設計されたものだが、現在は1階が喫茶店キュビズム関連商品の売店、2階が喫茶店、3階と4階はキュビズム家具などを展示するギャラリーになっている。見どころは階段だ。

 私は2階の喫茶店が気に入り、近所を散歩していたら、ここで休憩をした。トイレに行き、コーヒーを飲み、日記を書いた。場所柄、喫茶店の料金は高いが、それでも日本の喫茶店と同じくらいの金額だ。

 そのほか、数日かけて遊んだキュビズム建築散歩を今回と次回で紹介する。キュビズム以外の建築物は、あとで少しずつ紹介します。今回は、黒い聖母の家。

 

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  これが黒い聖母の家。1階が喫茶店売店。2階が喫茶店。3,4階が美術館。

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 2階右の角にあるこの像から、「黒い聖母の家」と呼ばれている。

 

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 この建物の最大の見どころは、階段だと思う。

 

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 こういうカドカド直線デザインが、キュビズムなのか。私はアンクル・トリスを思い出した。

 

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 表示デザインも、ちょっといい。

 

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 2階の喫茶店で休憩。珍しくレモンティーなんぞを注文してみた。料金はやはりちょっと高く、日本の喫茶店並みの値段。画面右に見えているのが、1階売店でもらったプラハキュビズム散歩マップ。

1226話 プラハ 風がハープを奏でるように 35回

 建物を見に行く その6 生活者の気分

 

 プラハで最初に泊まった宿は8人部屋のドミトリーだったが、そのあと利用することになった郊外にある一戸建ての宿は個室だった。トイレやシャワーは共用だが、清潔に管理されていて不満はまったくない。廊下に小さな台所がついていて、カップや皿などもあるから、自炊する気ならある程度できる。洗濯するにはちょっと不便だが、洗面台で洗って、裏庭で干した。

 団地のなかを15分歩いて地下鉄駅に行く道は退屈ではあるが、携帯オーディオで音楽を聞きながらなら、それはそれで楽しい時間だった。

 部屋で朝食を済ませたら、通勤者のごとく駅まで歩き、プラハの中心部に出かける。そして、夕暮れ前に駅に着き、買い物をして帰宅する。買い物は夕食と翌朝の食材だ。調べてみれば、駅には大きなスーパーが2軒あり、宿のすぐ近くにもある。夕方、スーパーマーケットで買い物をして、愛用の買い物袋を手に帰路を歩いていると、旅行者ではなく、なんだか「通勤している生活者」という感じがしてくるのだ。別人になった気分は、悪くない。郊外生活は想像していたほどひどくはなかった。

 

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 地下鉄C線ブジョヨビツカー(BUDEJOVICKA)駅周辺。オフィスビルの向こうに団地が見える。ここが、私の最寄り駅。

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 駅前ショッピングセンターには、スーパーマーケットやフードコートもある。

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 スーパーのなかのパン売り場。日本と違って、菓子パンや調理パンはあまりない。

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 買い物を終えると、夕暮れ。勤労者の帰宅の雰囲気で、「我が家」に帰る。

 食べ物や飲み物の話は、あとでまとめて書く予定だが、ここでは予告編代わりに少し書いておくことにする。

 巨大スーパーでまず探したのは、インスタントコーヒーだ。第1の条件は小さいこと。大きなビンを持って旅行したくない。日本の100円ショップで売っているような、小さなビンに入ったインスタントコーヒーを探した。コーヒー・砂糖・粉ミルクが袋に入っている3in1というのは、持ち運びにはいいが、私は砂糖もミルクを入れないので、袋入りコーヒーは要らない。

 「おっ、いいのが見つかった」と、小さなビン入りコーヒーに手を伸ばした。ラベルの感じは、私が好きな「ネスカフェ・クラシック」にやや近い。”BON  AROMA“。ラベルを見ると、ポーランド製だとわかる。このコーヒーが気に入った。プラハでは3度買った。飲み残したら宿に寄贈し、次の宿でまた買った。

 日記を見るとレシートが貼ってあり、”BON  AROMA KAVA 100G  39.90”と打ち込んである。KAVAはコーヒーのことだ。100グラムビンで39.90コルナということは、約200円だ。帰国後、ネットでこのコーヒーを調べると、ローソンストアで100円とか、ドンキで180円とか、東京足立区のスーパーのチラシでは298円だったといった情報が見つかった。がぶ飲みするときは、薄めコーヒーが好きなので,味も香りもあまり追及しない。コーヒー通がバカにするような安コーヒーが好きなのだが、日本のコンビニ・コーヒーは色付きのお湯という感じで、私にはあまりに薄く、うまさはまったく感じない。小さめのカップに、ネスカフェ・クラシックをティースプーン山盛り1杯(モーニングカップなら、2杯半)入れた濃さが好きだ。

 朝食と夕食用にパンを各種買う。うまそうなパンはスーパーのパン売り場でいくつも売っているが、大きいのは買うのを断念する。日本では毎朝バナナを食べる習慣があるので、プラハでもバナナを買った。4本22Kは110円。レシートを読んで、チェコ語でバナナは”BANANY”だと知った。

 日本のスーパーにある「お惣菜」のようなものは少なく、せいぜいトリもも肉のローストくらいだから、私はサラダを買った。朝食用ではなく、夕食用だ。量り売りのサラダは外見と名前で想像して注文した。外見と名前の両方でわかったのは、”BROKOLICOVY”。ブロッコリーのサラダだ。ポテトサラダだろうと想像して買ったのが”SALAT  BRAMBOROVY 16.35K”。約80円だ。salatがサラダということは、想像がついた。そのあとの語の意味は食べてわかった。やはりジャガイモだ。帰国してから、辞書で調べて確認した。ただし、ジャガイモを意味するチェコ語は、使い方で変化していくから、brambovy、brambory、brambor、brambora、bramborach、brambproveなどと姿を変えていくから、勉強する気が失せるのだ。

 日本でもよく見かけるパスタやジャガイモをマヨネーズで和えたサラダは、200グラムで15~20K、つまり75~100円くらいだ。味は日本のマヨネーズを使ったサラダとほとんど変わらない。量はこれで充分だか、もっと野菜を食べたいのでトマト1個も加える。パン、サラダ、トマト、コーヒーの夕食で、合計30Kほど、約150円だ。節約するための夕食ではなく、自分の部屋で、ゆっくりテレビを見ながら、何杯かのコーヒーとともに野菜中心の食事をしたかっただけだ。駅近くのショッピングセンターのフードコートで食事をすれば、80~130Kくらいで充分すぎるほどの食事になる。400円から650円くらいだから、節約のために自炊していたわけではない。

 その飲み食いの話はいずれ、まとめて。

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広さは6畳くらいか。ひとりで過ごすには充分だ。

 

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 朝食後、地図を見たりして、その日の散歩の計画を立てる。

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 ある日の夕食。ポテトサラダがうまい。トマトも。

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 翌日も夕食もサラダ。今度はパスタサラダ。前日とは違うパンだとおわかりか。昼は肉を食べることが多いので、夕食はこれでいい。

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 干しブドウのパンとバナナ。テレビのニュースを見ながら、1時間ほどの朝食を楽しむ。

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 そして、また散歩の1日が始まる。この日は15キロほどの散歩になった。

 

1225話 プラハ 風がハープを奏でるように 34回

 建物を見に行く その5 郊外住宅図鑑 後編

 

 郊外住宅を見ていて思い出したのは、日本にも同じ時代があったということだ。昭和戦前期、私鉄沿線の住宅地だ。今の新興住宅地とは違い、大会社のサラリーマンだったり官僚が住む小金持ちの住宅だ。日本建築史を読めば関連資料はいくらでも出てくる西洋住宅で、「応接間」があるのが新しい。例えば、次の論文でもよくわかる。

京都市における近代化遺産の存続・消失動向について ―郊外の近代洋風住宅を中心に」

http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/10762/AR_16_matsuoka.pdf

 まずは、市立博物館で展示していた建築資料。

 

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1920年代の郊外住宅建築風景。


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 屋根裏部屋付き住宅の構造。

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 団地建設の風景。詳しい展示資料をメモしておくのを忘れたが、たぶん1950年代か。

 以下の写真は、プラハの旧市街から地下鉄で15分ほど、トラムなら30分ほどのところにある地域で、現在ではもはや「新興住宅地」とは呼べないが、第二次大戦後に開発された地域らしい。

 

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 日本の不動産広告用語で言えば、「閑静な住宅地」を散歩する。この地区を歩く体力はあるが、建築資料を読み取る知識がないのが悔しい。

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 住宅の構造は、鉄筋コンクリートの柱と梁にコンクリートかレンガのブロックを積むのだとわかる。現在の住宅は、駐車場を備えている。

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 上のような構造にレンガを積んで壁を作る。この工法はタイの住宅でも同じだが、壁の厚さがまったく違う。工事現場には、移動式トイレもちゃんとあるなと確認。

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 こういうデザインが流行る時代と、実際の建築年代が一致するわけではないが、1930年代ころのスタイルではないか?

 

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 この家で気になったのは、ちょっとそった屋根だ。丸窓も含めて、なんだか「日本」を感じる。

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 こういう住宅街は眺めているのはいいが、住みたいとは思わない。

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 一戸建ての住宅地域を抜けてトラムが走る大通りに出ると、オフィスやアパートが姿を見せるが、ただの、無味乾燥の、コンクリートの四角いビルではない。こういう建物に出会えるから、散歩が退屈しない。




 

 

1224話 プラハ 風がハープを奏でるように 33回

 建物を見に行く その4 郊外住宅図鑑 前編

 

 宿の近所は戸建て住宅で、日本の郊外の新興住宅街とは違い、ゆったりした敷地に堂々とした家が建っている。夕食前の散歩でそんなことがわかったので、翌日は本格的に住宅散歩をすることにした。地図を見れば、宿から西にまっすぐ進めばブルタバ川に出る。Antala Staska通りは途中でZeleniy pruhと名を変えて緑地に至り、右折左折を繰り返して、Modranska通りに出る。この広い通りはブルタバ川に沿って走り、そのまま北上すればカレル橋などがある観光地区に出る。たっぷり1日遊べる散歩コースになりそうだ。

  以下、「ウチのご近所」の住宅。我が家はこれらよりもずっと小さい。

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 宿からちょっと歩くと、敷地がだんだん広くなり、家も大きくなる。東京で言えば、田園調布や成城学園や松濤だ。窓の向こうは隣家の窓というような日本の住宅密集地とはまったく違う。ここはプラハでは「高級住宅地」としては序の口くらいなのだろうが、日本ならば充分に「瀟洒な高級住宅地」である。

 私の頭の中は、「社会主義国の貧しい生活」というイメージがあり、それはちょっと前の中国のイメージと重なるのだが、この地区の豊かな住生活の歴史的背景がよくわからない。それほど新しい家ではないから、1989年の解放後の成金の家だとは思えない。

 家の正面に立って、迷惑にならないように控えめに、眺める。そうか、わかったぞ。大きな家の入口、門扉のそばに郵便受けがふたつある。親子二世帯同居ではなく、ニ家族同居だろう。初めからそういう形態で作ったのは、イギリスでよく見かけるセミデタッチ・ドハウス(Semi-Detached House)だ。戸建ての家だが、玄関ドアがふたつあり、2軒で使う「ニ軒長屋」で、そういうリフォームをした家もある。あるいは、入口ドアはひとつで、その共用ドアを入ると、何戸分かの家の玄関ドアがあるというリフォームをしてあるのだろうと想像した。

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 上は、南部の小さな街、チェスキー・クロムロフの郊外住宅。二戸一軒のセミデタッチド住宅。

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 こちらは、プラハセミデタッチド住宅。ご近所にはこの程度の家はごく普通にあり、「元社会主義の貧しい国」というイメージは吹っ飛ぶ。

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 有名デザイナーとか芸能人とかの邸宅かと思って近づくと・・・

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 門に郵便受けが4つあった。アパートか。

  チェコに限らず、西洋の都心のアパートは、建物に入る大きなドアを開け、中に入って個々の家のドアを開けるようになっているから、1階と2階で2家族別々に暮らす二軒長屋になりうる。経済的な問題で所有者が「間貸し」に出したのか、それとも中国でもあったように共産党政権に接収されて、一戸建て住宅にいくつかの家族が同居するという例なのか、詳しい事情がわからない。

 この住宅地の家は、ここ10年ほどの間にできた高級住宅もあるが、ほとんどは割と古い。手が入っているから、保存状態はいいが、新しい家ではないとわかる。いつごろの建物なのかどうしても知りたくなって、ちょうど家から出てきた若夫婦に話しかけた。

 「ちょっとお尋ねします。このあたりの家は、いつごろ建ったものですか?」

 「どの家も、50年から60年前ですね」

 うまい英語を話すから、このまま情報収集をしたいと思ったのだが、乳母車を押す妻が車に近づいたので、会話を遠慮した。

 1950年代から60年代に建ったのか。共産党時代でも、こういう家を建てたのだ。党や軍の幹部、上級公務員用の住宅なのだろうか。

 のちに、ここよりもはるかに豪華な住宅地を何か所かで見ている。プラハの北にある動物園に行く途中に見たのは、おそらく解放後に建った新しい高級住宅地だ。チェコ最高の超高級住宅地は、チェコを去る日のバスから見た。地下鉄A線のHradcanska駅からちょっと東に行ったあたり、レトナー公園の北は、戦前までは大富豪が住む邸宅が集まっていて、戦後は大使館街になったという話が、在プラハ元日本大使夫人が書いた『私はチェコびいき』(大鷹節子、朝日新聞社、2002)にあった。この著者夫婦が住んだ日本大使公邸もそこにあった。今も地図を見ると、Na Zatorce通りあたりは各国大使館が集まっている。

 ロシア大使館もここにあり、かつてはソビエト大使館だった。どうやらこのあたりは「ソビエト地域」とも言える地域だ。解放前は地下鉄A線はHradcanskaの次のLeninova駅までだった。レーニンの名を冠したこの駅は、解放後Dejvicskaとなった。

 ちなみに、チェコの戸建て住宅の暖房資料がこれ。

https://yaahoj2005.exblog.jp/1599244/

 住宅写真を多数撮影したので、次回も一戸建て住宅図鑑にする。