1274話 捨てるもの フィルム式カメラ

 職業として写真を撮る写真家とかライターでなくても、中高年ならフィルム時代のカメラをまだ持っているだろう。これも、もうゴミだ。

 私の場合、職業的に写真を撮る必要があるので、まったくの素人よりは撮影機材がそろっている。フィルム式カメラは、一眼レフが3台に交換レンズが6本、そしてでかいストロボが2台ある。ストロボは小さいものを使いたかったのだが、24ミリレンズに対応できるストロボは、カメラよりも大きなものを使わないといけない。24ミリレンズをあきらめて、小さなストロボを持ち歩くかどうか考えたが、24ミリレンズを優先した。コンパクトカメラがやはり3台ある。古いカメラでも中古屋に売ることはできるが、私のカメラは使い方が激しく、性能に問題はないが外側がボロボロだ。ライカならば、それでも値段がつくだろうが、オリンパスOM2ではだめだ。

 雑誌の取材など、カネをもらって取材する場合は、バッグにはいつもカメラが2台入っていた。私の取材は、あるテーマに限定したものではないので、24時間カメラを手離さない。いつでもどこにいても撮影できる用意をしていた。自費の取材なら、カメラは1台にしたが交換レンズは数本用意した。タイの芸能を取材していた時は、田舎の寺の境内で深夜に行われるコンサートも撮影した。できるだけ明るい望遠レンズが必要で、ISO400のフィルムを増感して手持ちで撮った。

 あるとき、「もう、重いカメラは持ち歩きたくない!」と思い、コンパクトカメラでどれだけ代用できるか試したことがある。生まれて初めてコンパクトカメラを使ってみてわかったのは、ファインダーで見た通りには撮影できないという事実だ。写真の勉強をしたことがない私は、そういう事実を知らなかった。例えば、画面いっぱいにラーメンを取ろうとすると、出来上がった写真は一部が欠けているのだ。丼の周りをスカスカに空けておかないと、「画面いっぱいラーマン」という写真にはならないのだ。それから、コンパクトカメラは電池がすぐなくなることもわかった。

 一眼レフとコンパクトカメラの両方で撮影した写真を旅行人編集部に送ると、「熱意の差が著しい」とクラマエ編集長に指摘された。その通りなのだ。コンパクトカメラは片手でチョコッと撮っている。一眼レフの時はシャッタースピードや絞りや画角を考えてピントを合わせ、何枚か撮影している。風景なら、雲の形を見たり、光の方向を考えたりしているのだが、コンパクトカメラでは、見事に何も考えていない。ただ、パチリ。それだけだ。そして、「写真も低きに流れる」というもので、デジタル時代に入った今では、「写真なんか、適当でいいよ」とより思うようになった。パソコンで加工などしない(できないのだが・・・)から、一発勝負が潔い。ネットの写真には、整形手術の失敗のような、醜悪写真が多い。街全体が赤かったり青かったりする写真は醜い。

 もともと、プロの写真家のような芸術写真を撮りたいと思ったことはないが、自分が撮った写真の説明ができるライターでありたいとは思う。ブログ用には、「なぜその写真を撮ったのか、これは何か」という理由を説明できる写真を撮りたいと思う。そうでなければ、そもそも写真など撮らない。

 もうフィルム式カメラを使うことはないだろうが、簡単には捨てられない。次回はデジタルカメラの話を。

 

 

1273話 捨てるもの タイ音楽のカセットテープ その2

 カセットテープで出ていた音源は、一部はCD化されたが、地方の音楽や昔の音源はCD化されずに消えた。そして、CDそのものが時代遅れになった今、おそらく私の手元にあるカセットテープは貴重なものになっているかもしれない。いや、「貴重」というのはどうかな。「希少」であることは確かだが、雑多な音源を貴重だと思う人はタイにも多くいないと思う。

 あの当時、カセットテープは雑誌のようなもので、聞けば終わりだ。カセットテープは消耗品であって、きちんと保存するようなシロモノではなかった。自動車のダッシュボードで強烈な直射日光を浴びて蒸し焼きにされているテープも見たし、飯を食っている指で触ったテープも、雨とほこりにまみれたテープも見ている。タイにもコレクターはいるが、タイ人は「ていねいに、きちんと保存しておく」ということはあまり考えない。映画に関しても同様で、一部の映画はビデオ化され、のちにVCDになったが、初回制作分を売り切ったら、廃盤となった。タイ名作映画DVD大全集というようなものは多分ないし、バラでもDVDを買うことは難しい。そもそも、今はDVDショップがほとんどがないのだ。

 そういえば、1990年前後のころだが、昔のタイ映画を見たいと思った私はレンタルビデオ屋巡りをした。交渉してレンタル用ビデオを買っていたのだ。タイのビデオはPAL方式なので、日本では見ることができない。だから、PAL対応だが、日本のテレビでも見ることができるビデオデッキも買った。タイで買えば安いのだが、日本のテレビには対応しないので面倒なのだ。VCDは日本のDVDデッキで見ることができたが、画質がひどかった。

 タイの音楽ジャンルのなかでは、例外的にきちんと保存されているのがプレーン・ルーククルンだ。1950年代から60年代くらいの「古き良き時代の」アメリカ音楽風といってもわかりにくいだろうが、男なら美しい声で浪々と歌うクルーナー唱法であり、音楽学校の卒業生のような歌い方をする。アメリカで言えば、ビング・クロスビーとかパット・ブーン、アンディー・ウィリアムスのような歌だ。日本で言えば、岡本敦郎藤山一郎などがいて、女性歌手ならペギー葉山織井茂子などだ。そういう感じの音楽がタイにもあり、1960年代ころの都会の若者に好まれ、プレーン・ルーク・クルン(都会っ子の歌)と呼ばれる音楽ジャンルになった。そういう音源が、「メーマイ・プレーン・タイ」(あえて訳せば、母なるタイ音楽の木)のシリーズでCDが100枚くらいは発売されている。ロックとは距離をおいた都会の若きインテリたちが、この手の音楽を好んだ。

 タイでも、音楽はスマホで聞くという時代になり、CDはほとんど消えた。デジタル配信の時代になると、地方の泥臭い音楽は仲間外れにされた。若者が喜ぶポップ音楽以外はなかなか聞けなくなった。

 タイに行っても、もうCDの買い出しはできないのだ。ウチのカセットテープも、いずれ燃えるゴミになる。

 

 そういえば、タイ音楽に限らず、我が家に山とある写真(スライド)もいずれ燃えるゴミになる。デジタル化のノウハウは天下のクラマエ師がブログで説明しているが、私の写真はそんな費用と手間を費やすほどのシロモノではないと思うので、いずれ廃棄することになるだろう。

 というわけで、次回はカメラの話。

 

 

 

1272話 捨てるもの タイ音楽のカセットテープ その1

 もうそろそろ、カセットテープを捨てようかと考え始めた。

 タイ音楽とタイ人について本を書いてみたくなったのは、1990年代初めごろだっただろうか。一般的に、音楽の本は、音楽を送り出す側の事情を調べて書くものだ。ミュージシャンとかプロデューサーや作詞・作曲者やラジオDJなどにインタビューして書き上げた本が多いが、私は音楽を聞いているタイ人に興味があった。だから、音楽ライターが書くような本は、初めから書く気はなかった。屋台で飯を食っている人たちや、タクシーやバスの運転手たちがいままで聞いてきた、タイ人たちの音楽の歴史のあらましを知りたくなったのだ。今現在のヒット曲の話ではなく、タイに西洋音楽が入ってきた時代から現在までの音楽事情も知りたかった。考えてみれば食文化に関しても同じで、私は調理法や料理人や料理店にはほとんど興味がない。料理を食べてきた人の歩みの方に興味がある。

 タイの音楽の歴史や全貌を知りたいのだが、私はそもそも音楽の基礎知識もなければ、タイの音楽事情についてもまったく知らなかった。知識のうえでは、日本にいるおおぜいのライターとほとんど変わりはないのだ。そのころ、1990年代初めのバンコク生活では、ラジオもテレビも持っていなかったが、音楽は毎日耳にしていた。1990年代のタイは、街に音楽があふれている時代だった。

 タイ音楽の本を書くために、まずラジカセを買い、カセットテープを買い集めた。タイの場合、レコードからカセットテープに変わっていくのは、1980年代あたりからだ。日本では1982年からレコードからしだいにCDに変わっていくのだが、タイなどアジア諸国では、レコードの後はカセットテープの時代になる。家庭用でも自動車用でも、ラジカセの普及で、カセットテープが急激に普及した。ラジカセがあれば、電気が来ていない村でも、ラジオが聞ける、テープで音楽が聴ける。トランジスターラジオの普及で、電気が来ていない農山村にも都会の音楽が入り始めた。地域にもよるが、1970年代まではラジオの時代、80年代からはカセットテープの音楽も村に入って来た。

 ラジカセの影響で、街のどこからでも音楽が流れ出していた。路上にはテープ屋がいくらでもあり、「これが、今売れているよ!」という販売強化商品をよく流していた。だから、街を散歩していれば、路地でも屋台でもバスの中でも、音楽をよく耳にして、そのうち聞き覚えのある歌もでてきたが、歌手名や曲名などもちろん知らない。それだけの音楽体験で、タイ音楽とタイ人の物語を書こうと決めたのだから、無謀としか言えない。

 知識がないのだから、とにかく音楽を聞いてみることにした。カセット屋に行って、適当にテープを買った。「適当に」といっても、「でたらめに」ではない。日本のレコードやCDジャケットも同様だが、じっくり見つめると、演歌だろうとか、おしゃれなグループだろうとか、アイドルポップだろうといった予想はつく。だから、いくつか見つくろって買い、部屋に帰ってじっくりと聞き、メモを書いてカセットに挟んだ。少しはタイ文字を読めるようになったから、歌手名も覚えた。タイ人との会話で、いくつかあるジャンルも覚えた。こういう歌い方は、このジャンルだなといったことがしだいにわかるようになってきた。

 こうして、数年かけておよそ1500本のカセットテープを買っていった。ある日は、カセットテープの問屋に行き、50本ほどまとめて買ったら、「どこで商売しているんだい?」と聞かれたことがある。すでに30本ほど買った後だったから、私を小売り業者だと思ったらしい。段ボール箱にヒモをつけたのが買い物かごなのだから、誤解されたのも無理はない。

 1990年代後半ころから、カセットテープはCDに変わり始めた。我が家のカセットテープをMDに移し替えようかと思ったが、面倒だからやめた。どうしても長期保存したい音源はCD化されたものを買えばいいやと思っているうちに、音楽は見るものに変わってしまった。CDが消え、VCDやDVDになっていったのだ。かつて、ラオスでもカセットテープを大量に買ったのだが、数年前に再訪したら、CDさえなかった。コンサートDVDしかない。音楽は見るものなのだ。

 新宿にあるタイ音楽専門店サワディショップのHPを見たら、レコード会社RSがCD生産をやめたとか、タイに行けば必ず寄っていたCD問屋BKPが閉鎖したといったニュースが出ていて、「ああ、そうだった。この前行ったら、BKPの店がなかったよなあ」と思い出した。世界的な傾向なのだが、「見える音源」がなくなっていく。

http://sawadee-shop.com/music/

 

 

 

1271話 捨てるもの 古新聞と本の山脈

 プラハ旅行記を書き終えたので、棚に詰めた本を移動させないといけない。今までは、台湾の本でもイタリアの本でも、用が終われば床に積んでいたのだが、もうそういう余裕がない。だから、まず、本棚の不要資料を処分して、そこにチェコの資料を移し、あいた空間に、次に読む順番を待っている本を入れようと企てた。

 本棚を見回して、要らない資料は、まずはタイの新聞だなと判断した。タイで長期滞在していた1990年代は、英語新聞の「ネーション」と「バンコク・ポスト」を読んでスクラップブックに貼り付けるのが、午前中の仕事だった。2000年代に入ると、それほど長い滞在はしなくなったので、保存しておきたい新聞記事は、そのページをそのまま取っておくことにした。スクラップブックを捨てる決心はまだつかないが、古新聞の束なら、今すぐ捨ててもいいか。

 本棚の一番上に詰めてある古新聞に手を伸ばすが、なかなか届かない。本棚の前に本の山脈があるから、簡単に近づけないのだ。無理な体形で手を伸ばしたら、古新聞をつかんだ手が滑り、本の山脈を直撃し、崩壊した。「そうならなきゃいいな」という悪い予感が的中してしまったのだ。最初から徹底的に整理整頓すればいいのだが、そういう決心がつかないまま、小手先の改革を始めたら、大失敗したというわけだ。

 散乱した本を積み直さないと、足の踏み場がない。本を集めていたら、『おいしい中東』(サラーム海上双葉文庫、2013)を発見した。この本は出てすぐに買ったのだが、帰宅して机の上ではなく、本の山脈に置いたのが敗因で、いままで見つからなかった。トルコの食文化を調べたいと思ったときに探したのだが、見つからなかった。買ったことは覚えていたが、「さて、どこに行った?」と思ったが、どうしても必要な本でもなかったから、買いなおすことはなかった。この文庫の奥付を確認したら2013年の発行だとわかった。ということは、6年間死蔵していたということになる。

 まとめて整理したはずのイタリア関連の本も出てきた。『ジーノの家』(内田洋子)、『天使と悪魔のイタリア』(タカコ・半沢・メロジー)、『ローマのおさんぽ』(Studio Yuccino)などは、イタリアの山に移す。

 『オリガ・モリソヴナの反語法』(米原万里集英社、2002)のハードカバー版が出てきた。数年前に見かけた記憶がある。今回、プラハが出てくるので再読したいと思ったのだが見つからない。行方不明本を探すのが面倒で、文庫版をアマゾンしたのだった。そのほか、未読本、再読したい本など何冊か見つかり、新山を作った。

 足元を少し片づけて、古新聞を取り出した。タイの新聞はひと束10キロほどになり、翌日トイレットペーパー2個に変わった。タイの雑誌も一気に捨てることにした。音楽や映画の特集などがあるから買ったのだが、今回は内容を見ずに捨てた。捨てる決心をしたら、雑誌の紙面を読んではいけない。これで、また10キロ。経済誌「マネージャー」も全部捨てた。タイの国家としての経済には興味がないが、飲食業界とか都市計画とか交通行政や交通業界などの記事を読むために買っていたのだ。さらに、バンコク国立博物館が発行している冊子も捨てた。タイの伝統文化などに関する資料で、厚い紙だから重い。これで、また10キロ。合計30キロ分処分しても、本棚がガラガラになったようには見えない。タイに長期滞在していたころ、毎年50から60キロほどの資料を船便で日本に送っていた。ほとんどは本など紙資料だが、20キロくらいは音楽カセットテープだ。

 今回は捨てられなかったのが、アジア映画関連の資料だ。その昔、国際交流基金のアセアン文化センターが東南アジアの映画祭をやっていて、のちに南アジアの映画も取り上げるようになった。私はどこの国の映画であれ見に行っていたが、私のように国を限定しない映画ファンはそれほど多くはなく、よく出会ったのは松岡環さん他数名だった。そういう映画祭のパンフレット類は多分、どこかの図書館にあるはずだ。私が持っている必要はないだろうが、今はまだ捨てる気になれなかった。

 もうひとブロック、捨てられなかったのは“sawaddi”という雑誌の束だ。The American Women’s Club of Thailandという団体が発行している隔月刊誌だ。バンコクの古本屋でその1冊を見つけ、本部に行ってバックナンバーを買い集めた。

 内容は、日本の国立民族学博物館が発行している冊子レベルで、タイの文化や歴史に関するこまごまとしたことが書いてある。タイの鉄道とドイツ人技術者の話や、市場図鑑など読みでがあった。だから、今回は捨てない。

 

 

1270話 プラハ 風がハープを奏でるように 79回

 最終回 幸福な時

 

 ブログの旅も、今回で終わる。

 チェコを旅したのは2018年の9月から10月のひと月ほどで、プラハの旅物語第1回は11月1日の公開だった。20回くらいで終わろうと思っていたが、予定に反して80回近く書くことになってしまった。この半年ほどプラハに関する文章を書き続けてきたことになる。79回の連載は、単行本1冊くらいの原稿量になる。それだけ書きたいことがあり、書くのが楽しかったから、ついつい長くなってしまったのだ。買い集めた資料は段ボール箱ふたつくらいになった。私にとって旅の楽しさは、まず準備段階があり、実際に旅しているときはもちろんなのだが、旅を終えてからの反芻している行程(工程)もまた、楽しみである。散歩をしているときにはまったく気がつかなかったことを資料で読み、「あ~、そうだったのか!」と気がつく瞬間は快感である。私は、旅を3度楽しむ。

 

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 プラハに夜遅く着き、翌朝の宿の朝飯が、プラハ最初の食事だった。

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 そして、別の宿で食べたこの朝飯がプラハ最後の食事となった。この食事をして、空港に向かった。1階がレストランの安宿だから、インテリアと朝飯は分不相応に豪華だった。

 

 チェコ関連の本はかなり読んだが、カフカクンデラなど文学はほとんど手を出していない。日本人が書いたもので、チェコが登場するとわかっていて手を出さなかったのは、五木寛之大宅壮一の本だ。参考にはならないとわかっていたが、開高健『過去と未来の国々』を再読した。堀田善衛『天上大風』は初めて読んだ。19世紀のチェコ人の日本旅行記『ジャポスコ』(ヨゼフ・コジェンスキー)のことは、いずれゆっくり書く機会があるかもしれない。昔のプラハを見たくて、『世界の旅 東ヨーロッパ』(河出書房、1969)や『文化誌 世界の国 東欧』(講談社、1975)といった重い本も買ったが、参考になる写真はほとんどなかった。昔のプラハがわかる本は、プラハの書店にいくらでもあったのだが、高くて飛び切り重いので、買う気がしなかった。

 左能典代の『プラハの憂鬱』は、その題名にも関わらず、プラハは40ページ分くらいしか出てこない。佐藤優の同名書には、プラハはまったく出てこないが、高校時代の海外旅行記『十五の夏』には、1975年のプラハがほんの少し登場する。そういう本も読んだ。

 米原万里の本はチェコ旅行のずっと前に、すでに全巻読んでいるが、この機会に再読した。「チェコ」を視点に据えると新しく見えてきたものもあった。つい最近、このプラハ物語がいよいよ最終章に入るところで、『加藤周一米原万里と行くチェコの旅』(小森陽一金平茂紀辛淑玉かもがわ出版、2019)が出たことを知って、内容を確認するヒマもなくすぐさま購入。で、読んだ。久しぶりの「カネ返せ本」だった。プラハ時代の米原の話は、小森がすでに『コモリ君ニホン語に出会う』に出てきた話だけで、わざわざ買う価値のない本だった。ただ、この本で加藤周一『言葉と戦車を見すえて』を知り、読んだ。このブログでチェコの話を書く前に読んでいれば参考になったかもしれないが、今となっては参考になったことはそれほどない。1979年のチェコは、短い文章だが玉村豊男の『東欧・旅の雑学ノート』にある。この本も、1985年の海田書房版『ぼくの旅のかたち』ですでに読んでいるが、その本をウチで探すのが面倒で、中公文庫版を「アマゾン」した。1979年のチェコの物価は、日本円にすれば現在とあまり変わらないということもわかる。細かいメモが役に立つ。資料的価値のある本は、本文ですでに紹介した。

 こういう具合に、「週3アマゾン」となったせいで、次々と本が届き片っ端から読んだ。内容もレベルもわからずにネットで注文するから、3割くらいはどーにもならない本でがっかりしたが、しかたがない。そういう残念な経験もしたが、普段はまったく手にしない本に出会い、鉛筆で傍線を引き、書き込みをして、付箋を貼った。そういう時間を過ごし、すでに書いてある文章を加筆訂正してブログにアップした。そういう楽しい日々が、今、終わった。もうチェコの本を読むことはないだろう。

 インターネットでプラハ関連の旅行記事を読んでいたら、「プラハは、ワルシャワからウィーンに行く途中に2日ほど滞在するのが通常の旅程で・・・」と書いてあり、「そうか、ほとんどの日本人にとって、プラハは通常2日の価値か」。忙しい人はそうなのだろうが、暇な私は、ひと月いた。それでもまったく飽きなかった。半年資料を読み続けても、チェコに飽きなかった。そういう魅力的な街に出会えたことを幸せに思う。ビールを飲まず、買い物もせず、美術館にはほとんど行かず、コンサートに行かなくても、プラハの散歩はただただ楽しかった。散歩の魅力に満ちた街だった。

 旅先で出会った私と同年代のオーストラリア人夫婦と食事をしたときに、こんな話になった。

 「私たち、今とっても素晴らしい時間を生きているの。面倒をみないといけない人はもういないし、誰かに面倒をみてもらう必要なまだない。ぜいたくをしなければ、こうしてのんびり旅行ができるくらいのお金はある。だけど、こういう幸せな時間はそう長くは続かないのよね。だから、今、旅をしているのよ、ふたりで」

 私もまた、今、そういう幸せな時間のなかにいる、と応えた。

 プラハにいたひと月、風が、心のハープを奏でていた。琴線が震え続けていた。

 この半年、ずっとプラハの夢を見ていたようだ。

 

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1269話 プラハ 風がハープを奏でるように 78回

 最終章 落穂ひろい 3

 

スメタナ・・・チェコの有名作曲家と言えば、ドボルジャークとスメタナだろう。現場で聞いてみようかという思いつきで、我がウォークマンに楽曲を入れておいた。初めて聞く曲はない。スメタナといえば、交響曲「我が祖国」が有名で、とりわけ第2曲「バルタバ」(モルダウ)がよく知られている。いままで何度も聞いているのだが、プラハで聞いていて、「ああ、そうか!」と気がついた。かつて野坂昭如長谷川きよしが歌った「黒の舟歌」と同じメロディーなのだ。歌詞からして、明らかにヒントを得たに違いないが、ネットでの指摘は見ていない。

モルダウ

https://www.youtube.com/watch?v=xihiNhEqt6Y

 野坂昭如「黒の舟歌

https://www.youtube.com/watch?v=itPrkIT3vB0

さだまさしがこういう歌を作っていたことを今知った。「男は大きな河になれ」

https://www.youtube.com/watch?v=1M6JJbyDywo

 

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だまし絵・・・チェコ特有かどうか知らないが、壁面のだまし絵をよく見かける。壁は平面なのだが、絵によって立体に見せている。場所によっては、舞台の書割のような絵もある。壁に窓の絵が描いてあったのはイタリアにあったと思うが、あれは新しかった。チェコで見たのはもっとシンプルな窓の絵だったが、あまりにも多いので写真を撮るのをわすれてしまった。

 石積みの建物だと思っていたのに、よく見るとコンクリートの壁面と石積みのように加工しているものも見ている。

 

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 2階の壁面が平らだが、凹凸があるように見える。

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 この壁も・・・、

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 この壁も・・・、

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 よく見ると、こういう絵が描いてある。

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 チェスキー・クロムロフ城はだまし絵が多く、この壁面もそうなのだが、あまりに多くあり、これ以外撮影しなかった。

 

リンゴ・・・歩道に伸びた枝にリンゴが実っている。道路にリンゴがいくつも落ちている。小さなリンゴは、宿の朝食で食べ放題だったが、酸味が強く、さほどうまいものではなかった。江戸時代の日本のリンゴもこのように小さなもので、明治になって西洋の大きなリンゴが入ってきた。

 スペインのアンダルシア地方では、街路樹や公園の樹木がオレンジだったことが何度もある。道路の両側に、たわわに実るオレンジが続き、手を伸ばせば届くほど低い位置にオレンジが実っている。「取らない」という常識があるのか、「当たり前すぎて誰も取らない」のか、「あれはまずいので誰も食べない」のか気になった。オレンジが珍しいわけではもちろんないが、街路樹のオレンジは地上の楽園を感じた。

 私にはリンゴはそれほどの魅力はないが、熱帯育ちの人には「宝が路上に放置されている」という光景なのだ。ドイツで暮らすタイ人女性を描いた小説『私は娼婦じゃない』(パカマート・プリチャー、石井美恵子訳、めこん、1997)に、公園のリンゴをとろうかどうか悩むシーンがあったことを思い出した。 

  プラハの中心部をちょっと離れると、空き地のリンゴをよく見かける。手が届くところにリンゴがなっていて、歩道にもリンゴが落ちている。

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  最後に、気になった建物の写真を少し紹介しておこう。

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 手動信号機つき路地。路地に入る人がボタンを押すと、自分側に青信号がつき、反対側入り口に赤信号が付く。

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 動物園の反対側にこういう屋敷があって、びっくりした。18世紀の貴族の館だったトロヤ城。現在は美術館ということらしいのだが、入り口が見つからなかった。

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 この窓は、十字架を意識したのか、たまたま偶然なのか。

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 こういう空中廊下はいいなと思って眺めていたのだが、建物をよく見ると、表面はコンクリートだとわかる。偽石積み建築とでも呼ぶのだろうか。






 

 

 

 

1268話 プラハ 風がハープを奏でるように 77回

 最終章 落穂ひろい 2

 

パン屋・・・スーパーのパン屋で、観察者になった。日本にも多くあるインストアベーカリー、客が勝手にパンを選んでレジに持っていくというタイプのパン屋で、客はどうやってパンを買うかだ。

日本なら、大抵は片手にトレイを持ち、好みのパンをトングでつまみ、レジに持っていくのだが、私が行ったことがある何軒かのチェコのパン屋にはトレイもトングもないのだ。では、カゴに入ったパンをどうやって買うのか。

1、パンを直接指でつまみ、備え付けのビニール袋に入れて、スーパーのカゴに入れる。

2、備え付けのビニール袋に右手を突っ込んで、パンをつまんで袋をひっくり返す。犬のフンをこういう方法でつまむ人がいるが、あのやり方だ。

3、上の1と2は、少量のパンを買う場合だが、大量に買う場合は、備え付けの使い捨て手袋をはめてパンをつまみ、ビニール袋に入れていく。

 

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石畳・・・ヨーロッパではたいていの国に石畳の道がある。車道も石畳だと騒音が激しいので、しだいにアスファルト化されている。プラハではまだ石畳の車道がまだかなり残っている。車道の石畳率が最も高い街はどこなのだろう。

日本でも、例えば江戸の日本橋あたりが石畳が敷いてあれば、雨の日のぬかるみの道は歩くのに便利だろうにと思ったのだが、神社などを除くと日本には石畳の道はほとんどない。江戸時代は馬車が禁止されていたからでもあるのだが、江戸のすぐ近くに、石畳に使えるような石が満足になかったからかもしれない。ヨーロッパの街を散歩していると、石畳の工事風景を見かける。土の上に砂をまき、石をのせて、間に砂を詰める。セメントなどは使っていない。ということは、日本でこういう工事をすれば、たちまち雨が砂を流すだろう。雨が多い国では、石畳は作りにくい。

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 これはプラハではなく、チェスキー・クロムロフのわが宿。この入り口で記念撮影をしている観光客多数あり。

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表示・・・散歩をしていると、こういう表示があり、解読を楽しむ。

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 ビシェフラドの墓地入り口。上段左から、ゴミはゴミ箱へ。監視カメラ設置。盗難に注意。日本人にもわかりやすいものが多いが、2段目右がヨーロッパに多い。「麻薬の使用はここではダメ」じゃなくて、どこでもダメだと思うのだが。

 

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 チェスキー・クロムロフのわが宿の近くを散歩していたら、壊れかけの建物の壁にカタカナらしき文字が見え、「まさか?!」と思って近づくと・・・

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 わかります? 英語と日本語の両方がわからないと理解できないのだが、誰が何のためにやったのか不明。芸術活動なのだろうか?