1281話 つれづれなるままに本の話 6

 大阪

 

 

 どうも、だんだん、新書がインチキ臭くなってきた。すでに触れた阿古真理の本だけでなく、売るためのタイトル偽装(内容と違うタイトル)や、意識的な誤記、あるいはミスリードといったものだ。

 では日常なのだが、ある物事の由来や語源を説明するときに、なるべく真実に近そうなものを採用するのではなく、一番おもしろそうな説を採用するのだ。そういう番組構成に多少なりとも恥ずかしさを感じる製作者は「諸説あります」という字幕を入れておく。そうすれば、「その説が唯一正しいというわけじゃありませんよ」という言い訳になる。

 私は京都に対して罵詈雑言誹謗中傷することは期待していないから、『京都ぎらい』(井上章一朝日新書、2015)を読んでも失望はないが、アマゾンの評価では京都批判が全面展開されていないから、タイトルと内容が違うという批判がある。この書名は、本を売りたい編集者がつけたのだろうが、やはり「あおり書名」であることはたしかだ。しかし、昨今の新書は週刊誌やスポーツ新聞のタイトルみたいなものだから、「書店で内容を確かめないあなたが悪い」と言われそうだ。

 まあ、私には京都のことはどーでもいい。このアジア雑語林で大阪を取り上げたいきさつもあり、同じ著者の『大阪的』(幻冬舎新書、2018)にもつき合った。全体的には、我がブログで書いたことと同じだ。その主張を要約すると、こうなる。

 通天閣がある新世界に大阪を代表させるのは間違っているが、大阪人自身も「おもろい大阪」を自演自笑しているというものだ。「大阪は新世界的混沌」というのが、大阪に対するマスコミのゆるぎない姿勢なのだが、それは真実ではないと知っている大阪人も、ついついサービス精神で演じてしまう。例えば、「カミングアウトバラエティ 秘密のケンミンSHOW」というテレビ番組は、「新世界的混沌の大阪」という情報を大量に放出しているのだが、この番組は大阪の読売テレビの制作だから、自演自笑だ。そういうことをアジア雑語林で書いた。『大阪的』もそういう趣旨だ。

 だから、この本に意外な発見はなかったが、違和感は2か所あった。

 ひとつは、牛豚などの内臓は捨てるものだから、大阪弁の「放うるもん」から「ホルモン」と呼ばれるようになったという説についてだ。この説は、『焼肉の文化史』(佐々木道雄、明石書店、2012)などで否定されている。井上は多分それを知っていながら、「放うるもん」説が大阪で受け入れられたという説を展開している。学者がホルモンは「放うるもん」ではないとはっきり否定しないから、マスコミはおもしろい説を使いたがるのだ。

 だいたい、内臓であれ、食べ物を捨てるか?

 食糧難の昔のころはともかく、今はどうやら内臓は処分されているらしいという事実が、屠畜場で働いた経験のある作家が書いた『牛を屠る』(佐川光晴双葉文庫、2014)に出てくる。内臓は生産過剰で処分しているそうだ。今その本が見つからないので記憶で書くが、「処分」というのはおそらく捨てるということではなく、ペットフードや動物園の肉食獣用の餌とか、肥料とか、成分を何かに利用するということだろう。つまり、人間の食用としては余っているらしい。日本人が肉を多く食べるようになった現在でも、内臓に対する偏見と嫌悪感はまだまだなくならない。

 『大阪的』に関して、もう1点。これは疑問だ。大阪は新鮮で豊富な海産物に恵まれていると書いている。以前、どの本だったか全く忘れたが、深く外洋から入り込んでいる大阪湾は、漁場としては大したことはないという記述があった。今回、インターネットでその説を確認しようとしたが、出てくる資料はどれも、「大阪湾は魚類が豊富」という説ばかりだ。それならそれでいいのだが、もしその通りなら、大阪湾でとれた豊富な魚を次々に京都に運べばいいのだ。鯖街道のように、日本海から、わざわざ山道を昇り降りして、京都に魚を運ぶ必要はなかったはずだ。大坂からなら、陸路でも水路でも、日本海からの山越えルートよりも楽なはずなのだが・・・。わからん。

 

 そろそろ日本を出ます。旅行中読むかもしれない本を20冊ほど積んである。このなかから5冊から10冊ほど選ぶ。おもしろいが、捨ててもいいという本を選ぶのは難しい。常連の『枕草子』がその中に入っているが、今年は『徒然草』か『方丈記』にでもしようかと考えている。韻文は長持ちするから1冊は入れておきたい。これから、旅行携帯本の予選を始まる。

 大学の仕事がなくなったので、久しぶりにこの時期に出かけられる。盛夏のころにまた会いましょう。それまでこのブログはお休みです。バックナンバーでも読んでいてください。毎日1話読んでも、3年分以上はありますよ。

 この文章を書いているたった今、『インド先住民のアート村へ』(蔵前仁一、旅行人)が届くが、この写真集を持っていくわけにはいかない。旅心を湧き立てる刺激にしましょう。人それぞれに好みはあるだろうが、私は天下のクラマエ師のいままでのところの最高傑作は(タイトルは好きではないが)、『わけいっても、わけいっても、インド』だと思っている。その写真版ができあがったばかりのこの本だ。ただの旅行者に目的などなくてもいいが、旅行記にも写真集にも明確なテーマが欲しい。だから、インドの農村に絵を見に行く旅行記がおもしろいのだ。

 私の旅の目的は、散歩と雑学。植草甚一のマネじゃなく、E.S.モースのマネでもない。若いころは移動しているだけで楽しかったが、今は移動しているだけは旅を楽しめない。だから、いろいろ調べてみたくなる。足の散歩と知の散歩の両方が楽しい。

 Vamos amigos!!

 

 

 

 

1280話 つれづれなるままに本の話 5

 日本を旅したチェコ人 その2

 

 

 オーストリア・ハンガリー帝国の旅行者が書いた『ジャポンスコ』の話を続ける。

著者ヨゼフ・コジェンスキーは、日本旅行の便宜をはかってもらおうと、帝国ホテルのなかにあるオーストリアハンガリー大使館を訪問した。日本について知りたいことが数多くある著者を助けたのは、日本に詳しい書記官ハインリッヒ・シーボルト(1852~1908)だった。あの、シーボルトの次男が、コジュンスキーの情報源だったのだ。

 父のフィリップ・シーボルト(1796~1866)は、1823年来日し、かのシーボルト事件で1830年に日本を追放された。再来日を許された1859年、長男アレクサンダー(1846~1911)を伴って日本にやって来た。父はすぐに帰国したが、アレクサンダーは日本に残り、イギリス公使館の通訳となり、英語にも磨きをかけた。その当時、幕府側で英語ができたのは森山栄之助(1820~1871)ほか数名で、森山は日本に密入国したアメリカ人ラナルド・マクドナルドの教え子だ。

 水戸藩最後の藩主徳川昭武は、1866年、将軍慶喜の名代としてパリ万博とヨーロッパ各国訪問団の団長となって日本を出る。この訪問団の会計係りは渋沢栄一で、通訳など世話役にアレクサンダーが加わっていた。そうと知って、すぐさま『青年・渋沢栄一の欧州体験』(泉三郎、祥伝社新書、2011)を読んだ。

 この訪問団がヨーロッパ滞在中に徳川幕府は消滅し、団員はすぐに帰国したが、アレクサンダーはヨーロッパに残った。父フィリップが死んだのは1866年だが、生前ヨーロッパで再会することはできなかった。

 明治になった1869年、アレクサンダーは弟ハインリッヒを伴って再び日本に向かった。1870年以降、アレクサンダーは明治政府の役人になった。弟ハインリッヒはオーストリア・ハンガリー帝国大使館職員になり、同時に考古学や書画骨董の研究者にもなる。同じ時代の東京で、同じ分野の研究をしていたのが、E.S.モース(1838~1925)である。

 コジュンスキーの旅行記に、こういう記述がある。

 「クーデンホフ・カレルギー伯爵は東京にある大使館の官房長である。美しい日本女性と結婚したいとの彼の思いは、本国の高官を困惑させた」

 大使館の上司が、日本の女性と結婚したがっているというのだが、もちろん、「ああ、あの話か」とすぐにわかる日本人は少なくないはずだ。旅行記には「官房長」となっているが、その人物は1892年以降、駐日大使だった。クーデンホフとカレルギーというふたつの姓を合体させた姓を名乗っているので、この人物の正式な名前は、ハインリッヒ・クーデンホフー=カレルギーである。恋した日本人女性とは青山みつで、結婚してミツコ・クーデンホフ=カレルギーとなる。

 外交官永富守之助は、ドイツ滞在時にハインリッヒとみつの息子リヒャルト・ニコラウス・エイジロウ・クーデンホフ=カレルギー、日本語名青山栄次郎(1894~1972)と出会い、親交を深める。永富は鹿島組の社長の娘と結婚し、鹿島守之助となり、1938年鹿島組社長となる。『クーデンホフ光子伝』(木村毅)が1971年に鹿島出版会から出版されたのはそういういきさつがあったからで、鹿島守之助とNHK会長前田義徳の深い関係から、1973年と87年に、吉永小百合を主役に光子関連の番組を放送している。私が記憶していたのは、1970年代初めにこうした広報活動があったからだろう。

 アジア雑語林でプラハの話を書いているときに、光子関連の番組「吉田羊、プラハ・ウィーンへ・・・ヨーロッパに嫁いだなでしこ物語」(2019.2.3 読売テレビ)が放送された。この番組は見たが、だからといって関連書に手を伸ばすことはなかった。 

 

1279話 つれづれなるままに本の話 4

 日本を旅したチェコ人 その1

 

 

 1976年に駐プラハ日本大使となった鈴木文彦の楽しみは散歩だった。大使館近くの古本屋に立ち寄ると、店主がにっこりして、2階から分厚い2冊の本を持ってきて、差し出した。日本語にすれば「世界一周旅行 1893~94年」という意味になるチェコ語のタイトルがついている。長大な旅行記の中に、明治26年の日本を旅したチェコ人の足跡が記してある。著者が日本に立ち寄った時の写真も多く載っている。大使はチェコ語のその本を買い、翻訳しようと考えた。

 1983年に外務省を退官した元大使は、翻訳の最終仕上げをして、出版した。『明治のジャポンスコ ボヘミア教育総監の日本観察記』(ヨゼフ・コジュンスキー著、鈴木文彦訳、サイマル出版会、1985)だ。私が手に入れたのはその朝日文庫版『ジャポンスコ』(2001)である。書名は、チェコ語で「日本」を意味する昔の表現だ。

 著者コジュンスキー(1847~1938)が生まれたのはオーストリア・ハンガリー帝国の東ボヘミアという場所で、それは現在のチェコだ。著者の職業は「教育総監」となっているから国家公務員なのだろうが、旅行ばかりしている。「様々な分野の研究をする遊び人」というのが、もしかして正しい紹介かもしれない。コジュンスキーは1893年にドイツを出て、アメリカ、アジア、そしてヨーロッパという旅をして長大な旅行記を書いた。日本にはひと月ほどいて、その部分の旅行記を翻訳したのがこの文庫だ。ひと月の滞在記だが、300ページの文章になっている。その当時、外国語でさまざまな日本事情を伝えることができる人は多くはなかったと思うが、この滞在記は情報量が多い。単なる行動記録や風景や心象の描写ではなく、しっかりと日本を学んでいる。

 私もほぼひと月チェコにいて、旅行記を書いているときにこの本に出会い、勉強不足を思い知らされた。私のさまざまな質問に答えてくれるチェコ人に出会えなかったのが残念だ。

 この日本旅行記に、気になる記述がいくつかある。まずは、パスポートの話だ。外国人は、函館や長崎、東京など、8都市の滞在は、パスポートは要らないが、それ以外の土地に行くには日本のパスポートを取得する規則になっているという。訳注はない。翻訳者は元大使だから、査証と旅券の違いがわからないわけはない。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』にも、日本のパスポートの期限が切れるから、再取得しないといけないという記述がある。翻訳者の説明は、これもない。どちらの本も、訳注をつけておいた方がよかった。イギリス人が日本のパスポートを取るという記述が誤記ではないことを、私はすでに知っているから、とまどいはなかった。

 『グランド・ツアー』(本城靖久中公新書、1983.文庫もあり)は18世紀から19世紀のヨーロッパ旅行事情を知る最適のテキストだ。すでにこの本を読んでいたので、パスポートの謎は知っていた。以下、少々長いが、この本から引用する。18世紀のイギリスの話だ。

 「イギリス政府のパスポートを入手すると、これでイギリスを離れることはできる。しかし、どこかの国に行くには、その国の大使館が発行するパスポートを入手しなければいけない。これは現在ヴィザという名前で呼ばれているものだが、当時はこれもパスポートと呼んでいた。なにしろヴィザという単語がイギリスではじめて用いられたのは、一八三一年のことなのである」

 前川がちょっと解説すると、パスポートはpassport、つまり、「港を通過する」という意味だと思っていたが、門porteが語源らしい。つまり、「門を通過する」ための証文ということだ。日本の通行手形のようなものだろう。visaの語源はラテン語のcharta visaで、chartaはスペイン語のcartaと同じで、手紙、書類、証書などの意味。visaは「見る」の過去分詞。直訳すれば「見た証書」になる。その単語のvisaだけが単独で使われるようになったのが19世紀というわけだ。

 『ジャポンスコ』の話は次回に続く。

 

 

1278話 つれづれなるままに本の話 3

 長崎出島

 

 

 江戸時代の外国語学習について調べてみたくなった。オランダ語蘭学関連の資料はいくらでもある。大阪の適塾オランダ語を猛勉強した福沢諭吉は、横浜で外国人にオランダ語で話しかけても通じず、「あああ、オランダ語を学ぶなんて、無駄な時間を過ごした。英語を学んでおけばよかった」と悔やんでいる。『福翁自伝』に出てくる有名なエピソードだ。この本は、日本人の異文化接触の記録としても、出色だと思う。

 江戸時代は通訳を通詞と呼んでいた。少し調べて「ほ、ほー」と思ったのは、長崎奉行の管理下にある通詞のなかに、タイ語通詞がいたことだ。アユタヤ帰りの日本人が通詞になったというのだが、貿易は中国語でやっていたと思っていたから、驚いた。そして、通詞というのは家業であって、伝統芸能や伝統工芸のように一子相伝だったということだ。タイ語は、「タイ語通詞の家」だけで子に教授されるというものだった。幕末になると、適塾のように、オランダ語を不特定多数に教えるシステムができてきた。

 黒船が来たときの通訳は英語を使ったはずで、幕末の英語学習史を知りたくなった。やはり、英語関連の資料は多い。いろいろと資料に当たっているときに、1848年に日本に密入国したアメリカ人ラナルド・マクドナルドのことを知った。ネイティブ・アメリカンの血が入っている彼は、自分のルーツは日本にあると思い込み、どうしても日本に行ってみたかった。その当時、密入国するしか日本に渡る手段はなかった。

 密入国して、「漂流者」を装って自首したが、牢獄で日本人に英語を教えることになった。英語を母語とする者として、日本最初の英語教師である。彼のことを知りたくて、吉村昭『海の祭礼』を読んだ。幕末の外国人ということで、シーボルトのことも知りたくなったので、やはり吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』を読んだ。ドイツ人だがオランダ人に成りすまして日本にやって来た医師フィリップ・フォン・シーボルト(1796~1866)とその娘楠本イネの物語だ。700ページを超える厚い本の2巻本だが、小説を読まない私でも興味深く読んだ。シーボルトの娘と孫娘の話を中心にしているが、ふたりの息子、長男のアレクサンダー、次男のハインリヒのこともちょっとでてきた。

 ドイツ人のシーボルトは、オランダ人と偽ってまでしてなぜわざわざ日本に行ったのかと考えていたら、ドイツ人の海外旅行史を調べたくなった。民族学や地理学はドイツで生まれた。多くの植民地を持っているイギリスやフランスではなく、ドイツで「異国・異文化」を学ぶ学問が誕生した理由はどこにあるのだろう。ワンダーフォーゲルユースホステル運動なども、ドイツで生まれている。そういう疑問を抱いているときに、ドイツに留学経験のある東北大学准教授山田仁史さん(宗教学、文化人類学)に会った。知識の幅が広い尊敬する研究者だ。私の知りたいことを伝えると、山田さんは即座に、「ぴったりの、おもしろい本がありますよ」と文献を紹介してくれた。『黄昏のトクガワ・ジャパン シーボルト父子の見た日本』(ヨーゼフ・クライナー、1998)だ。すぐさま読むと、私の好奇心にまさにドンピシャリの内容だった。ドイツの大学には「旅学」という研究分野があって、「旅はとにかく物を買い集めることである」と教えていた。博物館の思想である。だから、シーボルトは膨大な資料を日本で買い集めたのだ。大森貝塚の発見者としても有名なアメリカ人動物学者E.S.モースも、日本で膨大な雑貨を買い集めて博物館の収蔵品になった。モースの著作は、私の愛読書である。

 今、アマゾンでヨーゼフ・クライナーの著書を調べていたら、『ケンペルのみた日本』があった。長崎出島に滞在したこともあるドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)の話だ。おもしろそうだ。読みたいが、読む順番を待っている本が山になっているから、今はアマゾンをしない。

 シーボルト関連書を読んでいて思い出したのは、やはり長崎のトーマス・グラバー(1838~1911)とその家族のことだ。トーマスが、五代友厚に紹介された日本人女性と結婚して生まれた息子の倉場富三郎(1871~1945)の、悲劇的な生涯も興味深い。

 

 

1277話 つれづれなるままに本の話 2

 パンの話

 

 

 30冊ほどの本が、机の上にのったままになっている。整理するにしても、行先に空きがなく、空席待ちの状態だ。昔なら机の上に置いたままにしているのは辞書類だったが、今は『世界のパン図鑑』(総監修:大和田聡子、平凡社、2013)が、いわば「座右の書」になっている。カラーのパン図鑑のページを開き、「ああ、うまそうだなあ」などとため息をつくのである。この本を読んでいたから、チェコに行く前から、ゆでて作ったクネドリーキというチェコの代表的なパンを知っていた。ベーグルはゆでてから焼くのだが、クネドリーキは練った小麦粉を20分ほどゆでるだけでできるパンで、そういう作り方をするパンは世界的にも珍しいはずだ。

 私はパンが大好きだ。ひと月でもふた月でもコメなしの生活は平気だし、実際に半年以上コメを食べなかった旅もあるのだが、パンのない食生活は1日でもつらい。インドのチャパティやパラタといった平焼きパンも好物だ。

 私が好きなパンは、固く、重く、茶色いものが多い。白くて、ふわふわで、甘い、例えば「ヤマザキ ダブルソフト」のようなパンは苦手なのだ。大阪人好みの超厚焼きトーストも好みではない。バゲットのように皮が固いパンが好きだし、ライ麦や小麦の全粒粉のパンも好きだが、私が住んでいる地域では、その手のうまいパンはなかなか手に入らない。都心に行かないといけない。

 私好みのパンは、東京で言えば、中央区、港区、そして渋谷区などにはあるが、都心から遠ざかると、だんだん入手困難になる。ウチの近所でもバゲットと称するパンは売っている。皮はちょっと固めだが、中はふかふかで空洞はない。スーパーマーケットで売っているビニール袋入りのバゲットはもちろん失格だが、独立した店舗を構えたパン屋でも、「これがホントにバゲットかい?」と言いたくなるパンを売っている。

 誤解の無いように書いておくが、私は「日本のパン屋はひどい」と言いたいわけではない。私の好みには合わないというだけのことである。私のように色のついたパンが好きな者は、日本では少数派で、多分、東アジアや東南アジアでも少数派だろう。つまり、日常、コメを食べている人たちには、ふかふかもちもちのパンの方が好みに合うのだ。

 日本の食べ物は、柳田国男を引用するまでもなく、よりやわらかく、より甘く、より白く(あるいは色鮮やかに)という歴史である。戦後の食生活だけを振り返っても、固い食べ物はほとんど姿を消した。身欠きニシンも棒タラも、スルメもいり豆も固かった。飯もいまのようにふかふかべっとりはしていなかった。

 だから、パンも同じように、ふかふかの大甘になっていったのだ。食パンに、砂糖、牛乳、タマゴを入れて、シフォンケーキのようなほわほわの食パンにする。砂糖を入れるのは甘みを出すということのほか、水分を保ってほかほかさを持続させるためだ。つきたての餅でも翌日には固くなるが、砂糖を入れると大福のように柔らかさが持続するというのと同じ理屈だ。ナンを食べない南インドの料理店でも、ナンを出さないと日本人客は満足しないのだ。ふかふかのナンが、日本人の好みに合う。そして、ナンも当然砂糖を入れてふかふかに焼く。

 ほかほかパンが話題になって行列ができると、SNSで話題になり、マスコミが騒いでさらに行列ができて、売れる。客の好みに合わせたパンを作っているのだから、それでいいのであるが、残念ながら私の好みには合わない。食パンは安いものに限る。安い食パンはパサパサだから、私の好みに近くなる。食パンは、高くなればなるほど、ふかふかふわふわになってしまう。

 都心に出かけて、高いカネを払えば、私好みのパンは買える。そういうパン屋で、値段をいっさい気にしないで好きなパンを買うといくらかかるか考えてみると、それほどの金額ではない。たぶん、ひと月4000円もあれば充分だ。3000円でも間に合うかもしれない。朝食に、バナナのほかサラダを大量に食べるようになった今、6枚切り食パンを3分の2食べるくらい食べればいい。1枚食べると、「食べすぎたか」という気がする。

 パンが好きだから、こんな本も目に入った。『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(阿古真理、NHK出版新書、2016)をアマゾンで見かけたが、読む気はない。誰が世界一に決めたんだいという疑問があって、だから多分読む必要のない本だろうと判断したのである。

 

 

1276話 つれづれなるままに本の話 1

エスニック料理店

 

 

 久しぶりに本の話をしてみようか。書評とか紹介というようなものではなく、本を巡るもろもろの話だ。

 『パクチーとアジア飯』(阿古真理、中央公論新社、2018)は、そのプロローグで、日本の食文化の変化や世界の政治・経済の動きをふまえて、この本は「本邦初の日本におけるアジア料理の歴史の本である」と、堂々と宣言している。それを翻訳すれば「大言壮語」であり、「大風呂敷」であるが、その風呂敷でうまく包めなかった。そもそも、日本における中国料理の歴史だって、通史としては多分まだ出版されていない。この本では、日本における中国料理史はほんの少し、かすっている程度には手をつけているが、「朝鮮料理と日本の歴史」というテーマは完全に無視している。ほかの料理は言わずもがなだ。歴史のつまみ食いはしても、通史にはまったくなっていないのだ。

 敗因の理由は、いくつもある。参考文献を数多く上げているが、主たる参考資料が「Hanako」と「Dancyu」だから、それ以前の歴史をほとんど把握していない。想像で書くが、たぶん年表を作っていないのではないか。原稿を書く前に、詳細な食文化年表を作っていれば、もう少しましな構成になったと思う。

 私が、戦後の日本人の海外旅行史を調べたいと思ったとき、まず年表を作った。2000年ごろの話だ。幸か不幸か、ちょうどワープロ専用機が使える時代になっていたので、年表の加筆訂正が簡単にできる。手書きではあまりに煩雑だ。

 日本人はどういう要因で海外旅行に行けるようになったのか、「外国に行きたい」と思わせた要因は何かという歴史を調べてみたかった。年表の項目は、政治・経済、旅行業者、航空会社、出版、映画、テレビ、食文化など多岐にわたり、さまざまな資料から項目を年表に入れていった。こういう作業を半年ほどしたら、年表だけで単行本1冊分くらいの原稿量になった。年表はフロッピーディスクに記録し、旅行史の原稿を書いているときは、プリントアウトした束を見ながら旅行事情の変遷を追った。こうして書いたのが、『異国憧憬』(JTB、2003)だ。

 ワープロ専用機を使った不幸とは、年表の印字は感熱紙を使ったので数年後には白紙に戻り、ワープロ専用機は廃棄したので、フロッピーディスクは燃えるゴミになった。しかし、大学の授業で旅行史を取り上げたので、ジャンルによってはより詳細な年表にしてパソコンに入れた。

 食文化と海外旅行の関係もわかる年表にしたから、日本の外国料理店の歴史がおぼろげながらわかってくる。ある年の日本にあるタイ料理店の数もしらべて、それはこのアジア雑語林にも載せた。エスニック・フードを調べるなら、エスニック・ファッションやエスニック・ミュージックそしてワールド・ミュージックの誕生も押さえておかないと、欧米で流行したエスニック料理の意味も分からない。とすると、ヒントのひとつはアメリカのカウンターカルチャーあたりにありそうだと見当がついてくる。そういう項目も年表に加えた。

 『パクチーとアジア飯』の「主要参考文献」にでてくる本は、冊数は多いが新しいものがほとんどだ。私の「日本人の海外旅行年表 食文化編」に使った重要資料は使っていないらしいのだ。例えば、こういう資料だ。

 翻訳ではあるが、日本でほぼ初めて東南アジアやインド料理が紹介されたタイムライフの『世界の料理』のシリーズ。『インド料理』と『太平洋・東南アジア料理』は1974年の出版。『アフリカ料理』と『中東料理』は1978年の発売。1980年代に入って姿を見せた金字塔が「週刊朝日百科 世界のたべもの」全140冊。1980~84年の発行だ。この百科が完成した1984年の時点で、私の記憶では、東京にあったタイ料理店は5軒あったかどうかだ。

 1970年以前に、日本にはどういう外国料理店があったのかを知るには、食べ物屋ガイドをチェックするのがいい。例えば、『続・東京味どころ』(1959)、『東京味覚地図 新宿編』と『同 銀座・赤坂・六本木編』は1965年の出版。東京オリンピックの外国ブームが感じられる。1969年には保育社カラーブックスから『日本で味わえる世界の味』が出た。

 1970年代に出版されたアジア料理店関連資料は少ないが、80年代に入ってから出版された資料で少しはわかる。『東京エスニック料理読本』(1984)や『地球の歩き方203 旅のグルメ タイ』(1991)といった資料を、なぜか『パクチーとアジア飯』では使っていない。日本におけるアジア料理の歴史的変遷という太い柱を作ることをしないで、21世に入ってから出た本のつまみ食いをしたために、芯のない本になってしまった。ちなみに、上に挙げた資料や、東京のアジア料理店の話は、このアジア雑語林ですでに何度か書いている。

 「本邦初の日本におけるアジア料理の歴史の本」を書くのは素晴らしいことで、その通りの本が出版されたらすぐさま読む。しかし、基礎ができていない今は、今後書く本のために、関係者への聞き書きを集めておくとか、まずは「中国と朝鮮の食文化と日本」をじっくり調べてみるのもいい。やらなければいけないことは、いくらでもある。日本における中国料理の影響と言えば、誰でもラーメンと餃子を取り上げるが、家庭に入った中国料理という観点なら、焼き飯を取り上げるべきだろう。日本の台所の中華鍋史とか、ニンニクとトウガラシやモヤシや豆板醤の消費量変遷など、集めておきたい基礎資料はいくらでもある。広げた大風呂敷できちんと包むには、そういう基礎作業が必要なのだ。

 

 

 

 

1275話 デジタルカメラ

 今は、3代目のコンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)を使っている。デジタル一眼レフカメラは高くて重いから、買う気はそもそもなかった。生涯、もうカメラは買わないものだと思っていた。だから、最初のデジカメは買ったのではなく、もらったものだ。2004年、期せずして大同生命国際文化基金の地域研究特別賞をもらい、当時、発売されたばかりのNikon coolpix5200を副賞としていただいた。当時の高価なコンデジで、5万円前後の価格で売り出されたらしいが、使う気はなかった。5年ほど前だったか、このカメラを持って旅に出たのだが、液晶画面が切手よりはやや大きいという程度だから見にくい。そこで買い替えたのだ。このブログ用だ。

 コンデジは人気がないから、中古が安く手に入る。ありがたい。ここ数年、Nikon COOLPIX P310(24~200ミリ)を使っている。その前に使っていたのも同じカメラだが、落として液晶画面が割れてしまったから買い替えた。やはり、E1.8レンズはいい。他社のカメラを知らないから「これがベストだ!」などと言えないが、このカメラで特に問題はない。電池の消耗は激しいので(他機種との比較ではない。単なる感想だ)、充電済みバッテリーを常に2個用意している。ポケットに入る大きさで、室内でもストロボなしで撮影できるのがうれしい。夜も三脚がいらない。手持ちで、早いシャッタースピードで撮れる。 

 昔は50本から100本のフィルムを持って日本を出た。現像代金も含めて1本2000円と考えると、フィルム代だけで100本なら20万円だ! 東南アジア取材なら、航空運賃よりもフィルム代の方が高かったのだ。しかも、重い、かさばる、温度湿度X線を気にかけないといけない。それが今は数百円のSDカードで済む。当然、現像代は要らない。天下のクラマエ師がデジカメを買おうかどうか考えていたころ、「1回の取材に必要なフィルム代で、デジカメが買えるんだよなあ」と言っていたのを思い出す。

 私は写真の勉強をしたことはないし、カメラのこともよく知らない。写真を撮りたくてカメラを買ったのではなく、取材費が少ないのでライターが写真も撮らないといけない事情で、しかたなくカメラを買ったにすぎない。だから、最近まで、旅にカメラを持って行かなかった。自分の目で見ればそれでいいと思っていたからだ。

 旅先で、旅行者のカメラを見ていると、スマホが圧倒的に多く、次が一眼レフで、コンパクトカメラ使用者は極端に少ない。それが今のカメラの売れ行き傾向なのだ。私が理解できないのは、一眼レフ使用者たちだ。高額カメラを持っているだけで満足しているマニアは別にして、プロが高額のカメラとレンズを使うのはわかる。高性能超望遠レンズを使う人や、ポスター以上の大きさに引き延ばすとか、北極や砂漠や山岳地など極地で撮影できる信頼感がほしいとか、超高速でシャッターを切りたいというのなら、高価な一眼レフを使う理由はわかる。しかし、たかが素人の旅行写真だ。軽くて、小さくて、安価で、撮りたいときにすぐさま撮れるカメラがいいに決まっている。私のコンデジでも、シャッタースピード優先、絞り優先などマニュアル撮影ができる。魚眼レンズは使えない(スマホ用の魚眼レンズは100円ショップで買える)し、フィルターも使えないが、そんなものは必要ない。私は200ミリくらいの望遠で充分だと思っているが、望むならば超望遠撮影ができるコンデジもある。キヤノンのパワーショットSX530HSなら、24~2400ミリのコンデジだ。フェイスブックなどに使うくらいなら、それで問題のない画質だろうと思う。コンデジだと「画質が悪い」と批判する人がいるが、いったい何に使う写真なのだろうか。「地球の歩き方」に使うような小さな写真なら、コンデジで充分だと思う。このアジア雑語林に載せた写真の画質に問題ありと思ったことはない。

 スマホコンデジでいいのに、重くて高い一眼レフを買う理由がわからない。ファインダーが欲しいという理由は私もわかるが、ファインダーのせいで多くを犠牲にする気はない。ミラーレス一眼ならやや小さく軽くなるが、けっこう高い。交換レンズも欲しくなる。素人レベルで言えば、スマホコンデジでいいのに、一眼レフを使いたがる理由が私には理解できないのだ。「おしゃれ」に見られたいからか?

 ちなみに、私がスマホで写真を撮らないのは、スマホを持っていないからというだけのことだ。