1310話 スケッチ バルト三国+ポーランド 29回

 野外建物博物館 その1 行くのが大変

 

 エストニアラトビアリトアニアの3国ともに、野外の建物博物館がある。そこに行くのが、今回の私の旅のハイライトと言ってもいい。私は建築に興味があるが、有名建築家の有名建造物とか世界遺産の建物といったものにはほとんど興味がない。国家の威信をかけた記念碑的建造物とか、国家権力や宗教の威光を知らしめるために作った建造物には、うんざりしている。そうした建造物から人間の虚栄心が見えても、人の匂いがしないからだ。私は生活臭がする建物に興味がある。

 野外博物館の展示は、近世から近代、16世紀あたりから19世紀あたりの住宅を移築、あるいは復元したものらしい。3か国の建築博物館すべてに行こうと思い、実際に行ったのだが、ちょっと手間取った。広大な野外博物館なので郊外にあり、考えていたよりも行くのが大変だった。まずは、その話からする。

 エストニア野外博物館へは、エストニア駅前が始発のバス停に乗ればいいからわかりやすいのだが、便数が少ない。1時間に1本か2本程度だから、行きも帰りも待たされる覚悟はしておく必要がある。しかし、バスにさえ乗れば、下車したバス停のすぐ前に博物館があるから、便利だ。

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 エストニア野外博物館入り口。前回紹介した男女共用トイレは、この事務棟の中にある。エストニア語の国名はEESTI。英語のEASTと同じ「東の方」という意味。形容詞や名詞がくっついて、単語が長くなるのはフィンランド語と同じ。VABAOHU(野外)のMUUSEUM。

 

 ラトビアリトアニアの野外博物館は、少なからぬトラブルがあった。最新版『地球の歩き方 バルトの国々』(2019年6月5日発売)によれば、ラトビア民族野外博物館へは「1番のバスか6番のトラムで」となっている。リーガを毎日散歩していたが、6番のトラムを見た記憶がない。地図でも路線が見つからない。生まれも育ちもリーガだという人に聞くと、「6番? 昔は駅前通りを走っていたけど、とっくに廃止されたと思うけどなあ・・・」と言うことだった。念のため、トラムの停留所で路線図を確認すると、現在運行しているトラムは、1,2,3,5,7,9,10,11の8路線だとわかった。やはり、6番のトラムなんてないのだ。ガイドブックの取材スタッフは何年もチェックしなかったようだ。

 トラムをあきらめ、1番のバスが走っている道路までかなり歩き、目的の停留所を見つけたものの、停留所に着く直前に出たバスが、目的の博物館方面に行くバスだったから、路上で小一時間ほど時間をつぶすことになった。のちにわかったのは、トラムなら1番か3番を使い、終点でバスに乗り換えると、博物館まで2キロほどだ。私はバスだけを使い、宿を出てから2時間後くらいで目的地に着いた。かなり早めに宿を出たから、それでも開館前だった。開館時刻直前に観光バスが入口付近に停まり、バスを降りてきた観光客にガイドが、「足元に気を付けてください」と日本語で叫んでいた。30人以上の老人団体だった。

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 ラトビアの野外博物館の大きな建物。小屋組み(こやぐみ。屋根の骨組み)は、日本では皿の形、西洋ではV字だと思っていたが、この小屋組みは日本と同じなので、写真に撮った。こういうことを調べ始めるとキリがないので、調べない。

https://iekoma.com/yane-glossary/ka/%E5%B0%8F%E5%B1%8B%E7%B5%84/

 

 リトアニア民俗生活博物館はもっとややこしい。この博物館は首都ビリニュスではなく、首都からバスで1時間30分から2時間ほど離れたカウナスにある。ビリニュスから日帰りする予定なので、朝早いバスでビリニュスを出て、カウナス駅前からミニバスに乗り換えて着いたところは住宅地だった。バスに乗った時、「博物館に行く」と伝えておいたので、運転手が「ここだ」という。「博物館は?」と運転手に聞くと、はるか遠方を指差した。その方向に博物館らしき姿はまるで見えない。私に「博物館に行くの?」と声をかけてきたのは、私のあとからバスを降りた男で、「ええ」と返事をしたら、「乗っていきなよ。そっちに行くから」と迎えに来た車を指差した。バス停から歩いていくには遠いのだ。

 そうやって、やっと博物館に着いた。心配だから、帰りのバス便のスケジュールを調べた。1時間か2時間に1本しかない。

 さて、帰路だ。博物館からバス停に向かって歩いたのだが、遠い。『地球の歩き方』には「約8分」と書いてあるが、とんでもない。少なくともその倍以上かかる。バス停は広い道路にはなく、住宅地のなかにあるから、わかりにくい。何人かに聞くと「バス停なんて、知らない」とか「ここから4キロくらい先かな」などという。今朝の記憶を呼び起こして、やっとバス停にたどり着いて時刻表を見たら、博物館の受付で見せてもらった時刻表とは違った。ああ。というわけで、1時間ほどバスを待った。『地球の歩き方』の情報だけでは、あの博物館にはなかなかたどり着けない。あるいは、その日に首都に帰れない。

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 リトアニアの野外博物館のログハウス。ここは中に入れなかった。

 

 ついでだから、『地球の歩き方』最新版の誤情報を書いておこう。エストニアのタリンで宿探しをした。満室というところが多く、なかなか探せないなか、地図に『地球の歩き方』で紹介している宿がある道路に出た。Uusという通りに、オールドハウス・ホステルとオールド・タウン・バックパッカーズという宿があるとガイドブックに載っている。どの程度の宿かチェックしてみようしたら、オールドハウス・ホステルという宿はなく、オールド・タウンの方は、なんと廃屋同然だった。最新版のガイドブックで紹介している安宿3軒のうち2軒は存在しないのだ。私が泊まっていた宿の従業員が、偶然にもオールドハウス・ホステルの元スタッフだったというので、事情を聞いた。

 「もうだいぶ前に、オーナーがあのホステルを売ったのよ。それで、いまはリノベーションをして、名前も変わって、別のホステルになったというわけ」

 『地球の歩き方』は再取材をしないまま、2019年6月5日改訂版12版の「最新版」を出版したというわけだ。

 

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 エストニアの野外博物館は、昔の街の一部を再現しているが、客が少ないとゴーストタウンのように見える。

1309話 スケッチ バルト三国+ポーランド 28回

 さあ、トイレの話だ その4

 

 この旅行記を書いているときに、「そういえば、ポーランド関連の本は何冊か本棚にあったはずだ」と思い出した。

 話は少々ずれるが、そのいきさつを書いておきたい。先日、新聞の書籍広告で、『フィンランド語は猫の言葉』(稲垣美晴)が角川文庫版として発売されたことを知った。その昔、私が読んだのは1981年の文化出版局版で、詳しい内容は覚えていないが「言語学のおもしろい本だった」という記憶がある。書店で角川文庫版をチェックすると、単行本を加筆修正したものとわかり、購入を決めた。フィンランドの話なら、エストニアなどバルト三国にも共通する話が出てくるかもしれないと思ったからでもある。そして、「猫といえば、『ワルシャワ猫物語』というのもあったなあ。そうだ、ワルシャワの本が棚にあるな」と思い出したというわけだ。

 昔読んだ本は、段ボール箱に入れて保管し、新しく買った本を本棚に入れるようにしているのだが、ポーランド関連の本は読んでから数十年もずっと本棚に置いてあった。おもしろく読んだという記憶はあるが、内容はあまり覚えていない。ヨーロッパにほとんど興味になかった当時の私には、ワルシャワのことなど隔靴掻痒、現実感はまるでないが、異文化の本ということで買ったのだが、記憶に残らなかった。さっそく本棚からワルシャワ関連の本を取り出す。こういうことがあるから、断捨離などする気になれないのだ。

 『ワルシャワの七年』(工藤幸雄、新潮選書、1977)

 『ワルシャワ貧乏物語』(工藤久代鎌倉書房、1979)

 『共産圏でたのしく暮らす方法』(J・フェドローヴィッチ&工藤幸雄、新潮選書、昭和58年――1983年なのだが、新潮社はなぜか突然元号を採用することにしたらしい。新潮社に何が起こったのか?)

 『ワルシャワ猫物語』(工藤久代文藝春秋、1983)は、猫の本に興味がないので買わなかったが、書名が記憶に残っていた。『ぼくの翻訳人生』(工藤幸雄中公新書、2004)と『ワルシャワ物語』(工藤幸雄、NHKブックス、1980)は、その関連ですぐさまアマゾンで買った。工藤が案内人をつとめたという島尾敏雄の1967年の旅行記『夢のかげを求めて 東欧紀行』(河出書房新社、1975)もついでに買った。旅を終えると、このようにやたらに関連書を買いまくるのだ。そういえばこの時代、まだ巨万の富を得ていない若き作家は、ソビエトなどの招待旅行でしばしば外国旅行をしていた。招待される機会があれば、どこにでも出かけたと開高健は書いている。

 『ワルシャワの七年』に、こういう文章があった。著者がワルシャワに滞在したのは1967年から74年なのだが、74年5月の午後は、「珍しく真夏のような暑さの日です。(真夏にも<暑い>という表現を使わねばならぬ日は、七年間にいくにちもなかった)」。私がワルシャワにいた2019年6月は、毎日30度前後だったから、温暖化がよくわかる。

 それはさておき、トイレの話だ。40年ぶりに、『ワルシャワ貧乏物語』を再読した。ワルシャワでの生活の話は、妻の久代さんが詳しく書いている。ポーランド滞在期間は、『ワルシャワの七年』と同じ1967年から74年だ。

 ワルシャワから東北へ150キロほどの田舎に自動車で行った時の話。運転手の実家に案内され、トイレの場所を聞いたときの描写を引用する。

 (運転手は)「都会の人の行くような便所はないさ」と言って、物かげに木桶を置くのです。仕方なく、まわりに気を配り、音を気にしながら用を足しました。男性は納屋の牛のそばのつみ藁の上に用を足したといいますから、ほんとうになかったのでしょう」

1307話で、かつてのラトビアでは、トイレに関する正しい質問は、「トイレはどこですか?」ではなく、「トイレはありますか?」だという話を紹介したが、ポーランドでも田舎にはトイレと呼ばれるような施設がなかった(今はあるのかどうかは不明)ことがわかる。引用した文章の「つみ藁の上に・・・」というのは、堆肥にするという暗示なのだろうか。

 東アジアでは古くから人間の糞尿を肥料として利用していた。中国の都市では、トイレはなく室内便器として「馬桶」(マートン)という木の桶を使っていた。現在の中国語では、便器を馬桶という。

 基本的にバルト三国ポーランドの農村の家にはトイレはなく、冬と夜間は室内便器を使うが、それ以外は戸外のどこかで用を足すというのが基本ではないかと思うのだが、それがいつまで続いたのかは知らない。

 『ワルシャワ貧乏物語』には、トイレットペーパーに関する記述もある。ポーランドではトイレットペーパーが不足しているという情報は日本を出る前に得ていた著者は、「荷物の間につめられるだけつめて行った上等のチリ紙は、どうやら一年間持ちました」。ポーランド人の家庭ではどうだったのか。「訪問先の大学教授のお宅の手洗いに、新聞紙が切り揃えてあったのにも出会いました」というから、ポーランドでも同じ状況だったのだ。ただし、現在のワルシャワでは、私の少ない体験では、バルト三国と違い、使用済みトイレットペーパーを便器に捨ててもよかった。

 『ワルシャワ物語』(工藤幸雄)にも、トイレの話がちょっと出てくる。1979年7月23日、日本から早朝のワルシャワ空港に到着。午前5時の気温は9度。しかし、荷物がなかなか出てこない。VIPらしき人物の荷物を最優先にするから、一般乗客の荷物が出てくるのが遅くなるばかりだ。寒い。「トイレットに行こうにも、生理的要求を満たすべき設備は、ここにはないのだった」

 つまり、社会主義国では、旅客の利便を考えるなどと言う思想がそもそもないのだ。空港でも、「トイレはどこですか?」ではなく、「トイレはありますか?」が正しい質問だった。で、その答えは、(旅客が利用できるトイレは)「ない」だったというわけだ。

 

 ポーランドのトイレは、撮影したくなるようなものに出会わなかったので、バルト三国で撮影したトイレを紹介する。

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 エストニアはタリンの野外建築博物館の事務所隣のトイレ。トイレはこの1室のみの男女共用。男子小用便器がないので、「いけない! 間違えたか」と入り口の看板を再確認した。

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 タリンの防衛博物館。17世紀から地下に掘られた要塞通路。ソビエト時代まで使われた。長期滞在可能な防空壕のような構造にもなっているので、当然トイレもある。それが、中国ではおなじみの、壁もドアもない「ニーハオ・トイレ」。ソビエトにもこの手のトイレがあり中国が有名だから、「共産国トイレ」と呼んだ方がいいだろうか。このトイレは展示用であって、現役ではない、念のため。

 

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 いずれきちんと紹介する予定の、リーガの自動車博物館のトイレ。便器の上についている四角いものは感知器で、使用後に自動的に流すシステムになっている。そのシステムに文句はないが、この感知器、表面が鏡面仕上げされていて、鏡同様の表面に写るのは、己が排尿シーンなのである。つまり、股間の泌尿器が大写しになるのである。身長180センチの男には自分の太腿が見えるだけかもしれないが、磨けばいいってもんじゃないだろ。

 

 

1308話 スケッチ バルト三国+ポーランド 27回

 さあ、トイレの話だ その3 

 

 トイレ関連の本でもテレビの雑学番組でも、「ベルサイユ宮殿にはトイレはなかった」などという話題が何度も登場するが、「ちょっとは調べてものを言いなさい!」といつも思う。

 そもそも当時のフランスにトイレはないんだから、ベルサイユ宮殿にも当然トイレはないんだよ。上下水道のない時代のフランスで、2階以上の建物にトイレを作るのは無理で、普通は室内便器を使っていたのだ。城などの場合は、壁から突き出た空間を作り、糞尿を落下させた。通常は、おまるを使っていた。だから、持ち運び自由、金持ちならクローゼットのなかに室内便器を置いた。これは、座面に大きな穴をあけた椅子で、その下におまるが置いてあるというものだ。室内便器を置いているクローゼット(納戸、小部屋、衣裳部屋)をトイレの意味に使い、その便器が水洗式になったことで、水洗便所を英語でwater  closet、略してWCというようになった。

 もう少し詳しく書いておくと、壺あるいは「おまる」といった室内便器がある場所がいわばトイレで、マリー・アントワネット用の椅子式室内便器はあった。だから、「便器がある場所がトイレだ」という定義なら、当時もトイレはあったといえるが、そうすると寝室もトイレということになりややこしい。ヨーロッパの石積み中層住宅というのは、基本的に室内にトイレを作れない構造なのだ。水洗設備がない時代に、階上の部屋にトイレは作れないのだ。

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 ベッドの下には、おまる。その右の柄がついた金属のものは、フランス語ではbassinoire,英語ではbed warmerと呼ばれるもので、暖炉の薪の燃えさし(おき、熾)を入れてベッドを温める道具。ラトビアの野外建築博物館にて。

 

 バルト三国のそれぞれの建築博物館に行ったときに、当然トイレが気になったのだが、やはりトイレはない。職員に「この家のトイレは?」と聞くと、「外です」という。日本でも、昔の農家のトイレは家と離れたところにあるのが普通だから、それは何とも思わないが、これらの建築博物館では、その屋外トイレが再現されていないのだ。「あれかな?」と思われる小屋はあったが、柵があって「関係者以外立ち入り禁止」になっている。どこかに、トイレが作ってあるかもしれないと、注意しながら建築博物館を散歩していたら、それらしき小屋を見つけ、何の表示もないが「もしや?」という予感がして、扉を開けると、現役のトイレだった。外見は昔のトイレのようだが、なかはプラスチック製らしき小便器と板張りの腰かけ便器があった。

 この腰かけ便器というのは、板張りのベンチのようなもので、中央に穴が開いていて、便座がついている。アメリカの西部劇映画で見たことがあるし、京都の新島襄邸のトイレもこのスタイルだ。このトイレを見たくて京都に行ったことがある。

https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298564-d3376304-i156615646-Jyo_Nijima_s_Old_House-Kyoto_Kyoto_Prefecture_Kinki.html

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 リーガの鉄道歴史博物館の展示。おそらく、1930年代ころの鉄道員宿舎のミニチュア。トイレに磁器の便器はなく、穴が開いたベンチを使う。明るくない室内で小さいものをガラス越しで望遠撮影するには、手振れを起こさないように三脚が必要なのだが、手持ちで撮ると、この大きさではブレが出るという、言い訳。

 

 野外の建築博物館には、入場者用に「WC」などと書いたトイレの表示がある。日本では時代遅れの表示だが、ヨーロッパではまだ現役の表記だ。復元された住宅のすぐ外にある小屋のトイレは、部外者には何の表示もないので、復元されたその家の近くで働く職員用のトイレではないかと想像した。

 前回紹介した『ラトヴィアの蒼い風』に、この野外トイレの話が出ている。黒沢さんの説明では、ラトビアの観光地の地図には、ハートの印がついていることがあるそうで、これは「屋外トイレ」(正確には、水洗ではない屋外トイレのこと)を示す記号」だそうだ。「ある音楽家の記念博物館を訪れたときは、造りたての木造の屋外トイレがあります」とある。私がラトビアで撮影した小屋を確認すると、ドアにハート型の切り抜き窓があった。この小屋を撮影した時に、扉のハートに気がついていたが、ただの飾りか臭気抜きだろうと思ったから気にかけなかった。帰国後にこの本を再読して、「ああ、そうか、あれはトイレを示すマークだったのか」とわかったというわけだ。

 つまり、私が見た野外トイレは、昔の建物の復元部分ではなく、職員やハートのマークの意味が分かるラトビア人来園者用に作ったトイレだろうと思う。

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 左は物置か何か不明。ドアにカギがかかっている。右手のドアを開けると、左手に男子小用便器、正面にベンチ型の腰かけ便器があったが、現役のトイレなので撮影しなかった。この写真を撮った時は、ドアのハートマークの穴の意味を知らなかった。これがくみ取り式トイレなら、ドア下のコンクリートは、汲み取り口のフタだろうか。ラトビアの野外建築博物館にて。

 人差し指1本で1日1000枚の写真でも撮れるが、撮影した物の意味を理解するには手間と時間がかかる。だから、こういう旅行記でもけっこう手間がかかるのだが、その「手間」が楽しい時間だ。
 

 

 

 

 

1307話 スケッチ バルト三国+ポーランド 26回

 さあ、トイレの話だ その2

 

 ラトビアのトイレに関する資料でもっとも詳しい日本語文献は、『ラトヴィアの蒼い風』(黒沢歩、新評論、2007)だろう。「選挙後のトイレ」という章で、なんと10ページにわたってラトビアのトイレ事情を詳細に書いている。すべてを引用したくなるほどおもしろいのだがそうもいかないので、いくつかのポイントに分けて、紹介していこう。この本は2006年までに執筆したものだから、2000年代前半までの事情だ。

「あちこちでお目にかかる便座のない洋式トイレ」

 イタリアでは共用便所には便座がないのは普通だったが、私はリーガでは便座なしトイレは見かけなかった。男はホテル以外で便座を必要とすることは少ないのだが、私は探求心もあって、一応個室事情を覗いてみたが、「便座ナシ」の例は見なかった。だからと言って、現在のラトビアのトイレはどこでも「便座アリ」だと主張する気はまったくない。

「駅の公衆トイレには東洋式のしゃがみ込むタイプのものがあり・・・」

 ここにもあったか。しゃがみ式便器は。かつてイスラム文化の影響を受けた地域に残っていることが多いと思うのだが、ラトビアのしゃがみ式はどこの影響なのだろうか。日本以外にもしゃがみ式のトイレはあるのだから、「トイレを和式と洋式の二種類で考えるのはおやめなさい」と、このコラムで何度も書いている。いや、トイレの話だけではない。世の中の事柄を「日本と世界を比較」などと言いつつ、その実、欧米のごく一部を取り上げて比較しているに過ぎないという例はいくらでもある。テレビのその手の番組に悪態をつきましょう。

「四畳半くらいのがらんどうの部屋」の「床の片隅に一つの穴があいています」というトイレ。

 エストニアに至るラトビア側最後のバスターミナルのトイレは、大きな木造の小屋で、内にはひとつだけ穴があるだけだが、その穴まで行かないで床で用を足す人が多い、と書いている。こういうシロモノについて、著者は椎名誠の名著『ロシアにおけるニタリノフの便座について』を紹介し、「便所の基本的な形態とその使用法といったものをまったく理解していない」人たちの便所だという部分を引用している。こういう「穴だけトイレ」は、「ソビエト時代のラトビア」、つまりロシア式なのか、それともこの地域に共通する伝統的姿なのか。

「トイレはありますか?」

 著者が日本人の団体客を連れてリトアニアとの国境に来た時、そこの事務所で聞いたのは、「トイレはどこですか?」ではなく、「トイレはありますか?」だった。「トイレはない」という返事もあることを、著者は知っているからだ。案の定、そこにもトイレはなく、警備員の答えは「どこでもご自由に」だった。

フィリピンの島の食堂(と言っても、港のある町の食堂だ)で、私も同じ体験をした。「トイレはどこですか?」と聞いたら、裏庭を指差し、「その辺の好きな場所で」と言われたことがある。

肥料

「トイレが水洗になってしまったら、下水を整備しなけりゃならないばかりか大切な肥料を失うじゃないか」とラトビア人が言ったと書いている。ラトビアにも人糞肥料の考えがあるということか。家畜を多く飼う地域では、家畜の糞尿を肥料にしたのだが、人間の糞尿も使ったのだろうか。

トイレットペーパー

 いよいよ、出てきた。新聞紙の話だ。

 「1990年のリーガのトイレには、ロールペーパー用の金具は取り付けられてあってもそこにローリングの紙があったためしはなく、その代わりによどんだピンクのわら半紙や新聞が無造作に切られて木箱のなかに置かれていました」

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 前回紹介したこの写真。ロール紙を取り付ける金具だが、そこに切った新聞紙を置けるように細工してあるという構造に気がつかなかった人もいるかと思い、再度載せる。

 

 当時の国立アカデミー図書館のトイレにも、新聞紙が置いてあったという。1998年の秋のこと、その図書館のトイレに白い紙が置いてあるのを見つけた。それは新しいトイレットペーパーではなく、国政選挙の使用済み投票用紙だった。この話から、ラトビアのトイレの話に「選挙後のトイレ」という章タイトルがついている。「ちなみに、このごろの大学などにもやっとロール式のトイレットペーパーが普及するようになりました」とある。「このごろ」とは、2006年ごろということだ。ラトビアEUに加盟した2004年以降、外国人の目も意識してか、トイレ事情も改善されてきたらしい。

言論の自由がない国の新聞や雑誌は、文字が印刷してあるトイレットペーパーでしかないが、価値ある紙ではある。日本でも、この変化は新聞紙が、「新聞がみ」から「新聞し」に変わっていった歴史を思い起こさせる。

 

 トイレとは直接関係ないが、紹介する機会がなかったので、タリンの「ソビエト時代展」で再現された家の残りの内部写真をここで紹介する。

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 これは洗濯機だったか?

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 玄関から寝室を見る。

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 リビングルームの再現。テーブルにのっているのは灰皿だろう。黒い部分を押し下げると、吸い殻が落ちる。

 

 

 

1306話 スケッチ バルト三国+ポーランド 25回

 さあ、トイレの話だ その1

 

 話はやはり、ソビエト時代のエストニア展から始まるのだが、かなり長くなりそうなので項を改めた。この話題のそもそもは、この展覧会場に作られたソビエト時代の住まいを見たのがきっかけだ。この再現住居のリアリズムはすばらしく、「おお、やっと出会えたぞ」という物を見つけた。再現とはいえ、これはこの分野では大変貴重な写真だ。

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 再現とはいえ、トイレットペーパー用新聞紙の現場を見つけたぞ。こういうリアリズムの感謝! でも、なぜか、紙を捨てるカゴが置いてなかった。こういうのを、画竜点睛を欠くというのか。

 

 再現住宅のトイレに、小さく切った新聞紙が置いてあるのだ。その用途はもちろん、トイレットペーパーだ。現在、日本でよく見るロール式トイレットペーパーが最新式なのだが、それ以前は質の悪いロール紙で、これはラトビアではまだ現役だ。その前はチリ紙のような四角く切った紙があったかもしれない。それ以前は、新聞や雑誌を切ったものを使っていたことはわかっていたが、田舎の家にホームステイでもしないと、今はもう見ることはできないと思っていた。話には聞いていたが、現物を見る機会はもうないだろうと思っていたのだ。さまざまな資料でトイレの写真はかなり見たが、切った新聞紙を置いている画像は見たことがない。新聞紙を使った時代があるから、「使用後の紙は便器に捨てて流さないでください」とか「使用後の紙は、脇のカゴに」という表示が必要なのだ。

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 「下水の機能を損なわないために、使用後のペーパータオルとトイレットペーパーは便器に捨てないでください」 リーガ市役所地下トイレの表示。そういうところにも英語の張り紙があることにも注目。

 

 世界には、用便後に紙を使う文化と、水を使う文化と、その他のものを使う文化がある。紙を使う文化の国では、使用後の紙を流していい国と、流してはいけない国に分かれる。そして、世界の多くの国では、じつは流してはいけない国なのだ。団体旅行で泊まる中級以上の近代的ホテルでは、どこの国でもたいていは「流せる」。だから、そういう旅をしているとあまり気がつかないだろうが、台湾だって、韓国だって、「流してはいけない」トイレのある国だ。

 バルト三国からポーランドワルシャワに入ったとき、「ああ、流してもいい文化圏に入ったのかな」と思ったが、それは私が泊まった宿は「流せる」方式だったというだけのことで、多分国内には「流してはいけない」トイレがあるだろう。

 現在、用便後に紙を使っている地域では、かつてはどこでも新聞や雑誌を切って使っていた時代があるはずだ。日本では、一部の金持ちの家を除けば、おそらく、1950年代か、あるいは1960年代までは、せっせと新聞紙を切っていたはずで、その後経済状況が良くなると、灰色のチリ紙になり、白いチリ紙になり、団地から水洗便所が普及していくと、白いロール紙が一般的になっていく。

 ロンドンでも事情は同じだという話を、このアジア雑語林336話で書いた。1950年代の小学生が、学校から帰ると、新聞を切ってトイレットペーパーを作る作業をしていたという思い出話が出てくる本の話を書いた。新聞紙に限らず、使える紙は使うというのが当たり前だから、水洗便所ならば、当然「流してはいけない」方式だったはずだ。現在も「流してはいけない」習慣が続いている国は、今も水で溶けない紙を使っている国だということだ。だから、トイレには、便器の脇にカゴが必要なのだ。

 

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 2016年にオープンした近代的なエストニア国立博物館(タルトゥ)のトイレも、「紙を流せない」トイレだった。写真の左側にある車輪はトイレットペーパーのカバー、金属の四角い箱が使用済みトイレットペーパー用ゴミ箱。

 

1305話 スケッチ バルト+三国ポーランド 24回

 ソビエト時代のエストニア展から その4 バナナ

 

 ソビエト時代のエストニア展会場にあるいくつかあるモニターに、50代くらいの男がしゃべっているものがある。モニターの言語ボタンは、エストニア語、ラトビア語、英語、ロシア語とあり、そのすべてを本人がしゃべっている。その男の正体はわからないが、この催しの企画者かプロデューサーもしれない。言語を「英語」に設定して、しばらく話を聞く。結びの言葉はこれだった。

 「子供のころ、どうしても欲しかった物があったが、エストニアではどこに行っても売っていなかった。それが、バナナだ」

 つまり、現在中年になっている男にとって、少年時代を過ごしたソビエト時代というのは、「バナナが食べられない国」だったというわけだ。この話を聞いて、『バルトの人々とバナナ』とか『バナナと社会主義』といったテーマが頭に浮かんだ。名著『バナナと日本人』(鶴見良行)は、バナナ生産国の人々と日本人をテーマにした本だが、バナナが育たない土地で、しかも輸入制限をしていた国々の人々にとって、バナナはあこがれの果物だったという歴史を、1950年代生まれの日本人である私もその経験を共有している。

 韓国ドラマを見ていると、バナナが高価だった時代がうかがえる。「応答せよ! 1988」という韓国ドラマでは、1988年には、アイスクリームが250~350ウォン、タバコが300から600ウォンに値上げしたという話が出てくる。そして、バナナ1本が2000ウォンだ。だから、貧しい家庭では、何かの祝い事の時に、精いっぱい無理をしてバナナ1本買って、家族で分けるか、子供たちだけに食べさせた。ひとり1本などというぜいたくは許されない。

 日本でも事情は同じだが、時代が違う。私の記憶では、「バナナはとても高価な果物だ」という意識があったのは、1950年代か、もしかして1960年代前半ころまではあったかもしれないが、1960年代後半になると、「高いが、買えないわけじゃない」というくらいの値段になっていた。

 エストニアのバナナ事情を調べる時間はなかったが、ラトビアでは英語が達者な人に会うと、「ところで、ちょっと教えてほしいのですが…」と言ってバナナの話を持ち出した。

 20代の人たちは、「バナナは高価」という記憶はない。中高年の人たちは、もちろん子供時代にバナナなど輸入果物は高価だと知っていたし、バナナはどんなものか知ってはいたが、子供のころは見たこともなかったという人が何人もいた。特に農村育ちならなおさらだろう。60代の女性の話はなかなか興味深かった。

 「だいぶ前に死んだ父の話ではね、ソビエト時代以前(1940年以前)にはリーガでもバナナは売っていたが、ソビエト占領時代になると、市場から輸入果物は姿を消したそうです。だから、私の子供のころのリーガでも、バナナは外国人や政府高官などが出入りする高級なレストランとかホテルとか特別な商店などにはあったそうですが、私は実際に見たことはなかったわね。でもね、母がそういうレストランに勤めていたので、1度だけバナナをウチに持って帰ったことがあって、そのとき、初めてバナナを食べました」

 今、バルト三国のスーパーでバナナを買うと、店や品種によって違いがあるが、1キロ1.5ユーロくらいだから、200円か。

 東ドイツ人とバナナの話は、次のブログで。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881111406/episodes/117735405488119779

http://www.pandapanta.com/archives/5964838.html

 

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 別の機会にきちんと紹介する予定のラトビア鉄道歴史博物館には、往時の駅構内がミニチュアで再現してある。駅のカフェをよく見ると・・・

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 カウンターにバナナがあるではないか。私の失敗なのだが、このミニチュアの時代設定を博物館員に確認するのを忘れたせいで、「往時」がいつかわからない。ほかの展示では、ソビエトに占領される前の、おそらくは1930年代あたりではないかと思うのだが、カフェのテーブルや椅子はもっと新しい感じがする。ソビエトによる占領前という時代設定なら、「占領前にはバナナはありました」という話に符合するし、この展示を見ていたラトビア人の話では「バナナは、ある所にはあったようです」ということなら、外国人も多く利用した駅のカフェにバナナはあったかもしれない。

 

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 エストニア国立博物館にあった写真。残念ながら説明はなかった(気がつかなかっただけか?)1970年代か80年代あたりの写真だろう。あこがれのバナナとパイナップルを前に記念写真。たぶん、ごく普通の労働者階級の家族ではないだろう。

 

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 リーガのある日の夜(暗くはないが、9時過ぎ)。レストランに行く気がしなかったのでコンビニに行くと焼いたソーセージがうまそうで、細いバゲットで挟み、コーヒーの夕食にしようとしたら、「これ、安くするわよ」と処分品のサラダを勧められ、ついでに朝飯用のバナナも買った。サラダはクルトンが入り、ゆでたまごが1個入っているので、この夕食で満腹。スーパーなら安い水がいくらでもあるが、コンビニではevianなど高めの水しかなかった。

1304話 スケッチ バルト三国+ポーランド 23回

 ソビエト時代のエストニア展から その3 玄関

 

 この写真を撮ったときにはまだ気がついていなかった。日本人には変ではないからだ。

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 室内履き用に、オレンジ色のビーチサンダルが置いてある。

 

 エストニアのタリンに着いて、宿探しを始めた。スマホを持っていないから、ネット予約も電話予約もできないから、伝統的安宿探し、つまり一軒一軒歩いて探すという方法をとった。足を踏み入れた何軒ものゲストハウスやホステルのカウンター脇などに靴を置く棚があり、「ここで靴を脱いでください」という英語の表示があるのに気がついた。私が泊まることになった宿も同様で、チェックインをすると、「部屋の中で履くスリッパかなにかをお持ちですか?」と聞かれた。私はどこの国に行く時でも、ビーチサンダルをバッグに入れているから、「はい、持ってますよ」と答えた。

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 ゲストハウス入り口。

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  NO SHOES FROM THE POINT ON.PLEASE,AND THANK YOU!  それにしても、大文字と小文字が入り乱れた書き方だなあ。

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 白いカゴにあるスリッパは、以前宿泊した旅行者たちの置き土産。「上履きを持っていない人は自由に使っていいですよ」と、チェックインの時の説明。

 

 家に入るときに履き物を脱ぐのは、日本や韓国のほか、アジアの国には多い。部屋に絨毯を敷き詰めているアジアの国なら、靴を脱いで部屋に入る。敷物を汚さないようにするためというよりも、履き物を脱いで家に入る文化圏は、ベッドではなく床に寝る習慣がある国だ。だから、ベッドを使う中国では、履き物を脱がずに家に入る。

 私の体験では、靴を脱ぐ習慣、正確に言えば、「室内では履き物を履かないか、室内履きに履き替える」ということなのだが、ヨーロッパではエストニアで初めて「履き替える」事実を目にした。アメリカの映画ではよく見るシーンなのだが、靴を履いたままベッドで寝そべる、昼寝をするなんていう光景がある。あるテレビ番組で、日本人と結婚して東京に住むアメリカ人の老人は、日本のマンションでも決して靴を脱がないことを、アメリカ人であり続ける誇りのように守っているというシーンがあった。幕末から明治に日本にやって来たアメリカ人が、寺に神社にも土足のまま入ろうとして、日本人を困らせたというエピソードを読んだことがある。それが日本のスリッパ誕生のきっかけであるといったうんちくも聞いた。

 家の入口で履き替えるというのが宿のルールなのか、エストニアの習慣なのか気になって、宿の若いスタッフに聞いてみた。

 「ウチはもちろん、友達の家でも、親戚の家でも、靴は脱いだり、履き替えます。いままで、靴を履いたまま家に入ったなんてことは一度もありません」

 「エストニアの習慣なんだ」

 「私が確かめたわけじゃありませんが、スカンジナビアも同じ習慣だって聞いたことがありますよ」

 帰国後、インターネットで調べてみると、スカンジナビアやカナダでも、同じ習慣があるらしい。ラトビアリトアニアでは靴を脱ぐかどうかの確認はできなかった。雪が降る国では、濡れた靴のまま家に入ってこられると困るということらしい。床が濡れるし汚れる。絨毯の床ならなおさら、土足は避けたいのだろう。

https://mysuomi.exblog.jp/18966942/

https://woman.mynavi.jp/article/140519-27/

https://shoes-box.net/AI0000108

 オーストラリアの暑い地域では、家で裸足のまま過ごしたり、ビーチサンダルを履いているというのは、テレビの画像で何度も見ている。次の記事を読むと、自宅では靴を脱いでいる人は、日本人が想像するよりも多いようだ。もちろん、同じ国でも人それぞれの考え方によって違いはあるが。

http://sow.blog.jp/archives/1067490183.html

 かつて、「スリッパ」の正体を知りたくて調べたことがある。スリッパはslippersという英語から日本語化したのだが、slip(すべりやすい)から派生し、ひと組だから複数形になっているのだが、slippersはスリッパではない。アメリカの通販サイトで画像検索してするとよくわかるのだが、slippersは「簡単に履いたり脱いだりできる室内履き」のことで、寒い地方なら毛のついたブーツ型のものもある。

 そういうことをまだ知らなかったときに撮影したのが、ソビエト時代のエストニア展で再現された住まいだ。家の入口に日本のような段差はないが、知識のある人が見れば、靴を脱ぐ習慣があるとわかるように作ってある。リアルなのだ。

 

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  これはサンダルと呼べばいいのか、それともスリッパか。こういう履物はイタリアでも見た。必ずしも室内限定の履物ではないだろうが、一応撮影しておいた。タリンのキーク・イン・デ・キョク(防衛と軍備の博物館)の展示品。