1378話 最近読んだ本の話 その11

 日本の近代住宅

 

 本を買っても、本棚にはその本を入れる余裕がとっくにないので、いっそ建築関連の本をまとめて整理してしまおうかと思っていたのに、新聞の書籍広告で『近代建築そもそも講義』(藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所、新潮新書、2019)を見たら、すぐさま買いたくなった。藤森氏は東大を退職後、怒涛のように出版しているのだが、建築の本は高いから、なかなか買えない。買えないが、興味はある。神保町に行くと、ついつい建築の専門書店南洋堂書店に足を踏み入れる。ここは好きな本屋のひとつだ。

 書棚の大きな本を手に取る。『NA建築家シリーズ04 藤森照信』(日経アーキテクチャー編、日経BP、2011)のページをめくったら、小田和正との対談が載っていた。非常に興味はあるが、10分で読み終える対談に2000円(定価は3300円)を払う気はない。レジ前で立ち読みする図々しさはない。

 藤森と小田は、ともに東北大学で建築を学んだいわば同級生で、大学卒業後、藤森は東大大学院に進み、小田は早稲田の大学院に進み、引き続き建築を学んだ。

 『近代建築そもそも講義』は新書だから、すぐに買った。

 内容にざっと目を通すと、すでに知っていることが多そうだが、読んだことのほとんどを覚えていない昨今、既読かどうかは大した問題ではない。

 日本の住宅は、明治を迎えてさまざまな問題を解決しようとした。防火と上下水道は、もちろん江戸時代からの課題でもある。上下水道の整備はコレラなど疫病対策の意味も強い。そして、「もっと光を!」という欲求があった。このブログでバルト三国の建築に触れたとき、日本の家は煙対策をほとんどしなかったという話を書いた。ただ、京大阪の町家では、細長い家の中央に台所があって、その上が吹き抜けになり、煙り出しがついていると書いた。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~tentyou8/page003.html

 小さな屋根がついた煙り出しが、ガラスの時代が始まると、天窓になる。ガラスは非常に高価だった。板ガラスは風船状に膨らませたガラスを切って板に延ばすのだが、高価だからせいぜい一家に1枚しか買えない。そこで、屋根につけて、天窓にしたようだ。ガラスが安くなっていくと、障子に使う。ガラス戸にするほどの財力がないと、障子の一部にガラスを使う。猫間障子であり雪見障子である。こういう障子が、ガラスの節約から生まれたものだとは知らなかった。

https://w-wallet.com/syouji10.html

https://w-wallet.com/syouji9.html

 私は衣食住に興味があり、とりわけその変容に興味がある。日本では、衣はほぼ完全に西洋化された。食は、一時、若者の日本料理離れが問題視されたが、コンビニのおにぎりと回転ずしのおかげで、コメの消費はまだ息を続けている。コメと醤油なしで外国生活が送れる日本人はそう多くない。

 住はどうか。明治に洋館ができたが、あれは仕事場であり応接室であって、住人の生活は別棟の日本家屋で暮らしていた。洋館を建てたからと言って、生活が西洋化したわけではない。住の西洋化で最大の問題となったのは、靴を脱いで家に入るかどうかということで、和洋の折衷案として生まれたのがスリッパだ。洋館といえども、日本では土足のまま入ることに躊躇があったのだ。この問題に関しては、「突然現れたスリッパ問題」という章で解説しているが、この問題に関しては、私もこのアジア雑語林でしばしば書いてきたが、実に興味深いテーマだ。

 今の日本では、日本間のない家はそれほど珍しくない。畳の上で寝たことがない日本人だっている。浴槽を使わずシャワーだけという人もいる。しかし、靴を履いたまま家に入り、靴のまま生活をしている日本人は極めて少ないと思う。そして、世界では、靴を脱いで家に入る人が増えているという話は、このアジア雑語林ですでに書いた。

https://maekawa-kenichi.hatenablog.com/entry/2019/08/22/095941

 私は建築学よりも、居住学や文化人類学の方により興味がある。建築家の芸術表現なんざ、どーでもいいのだ。

 

 

1377話 最近読んだ本の話 その10

 女の集団のゴタゴタ

 

 田部井淳子という名前は、「登山家」ということ以外まったく知らないので、どういう人生を歩んだのかちょっと知りたくなって、『タベイさん、頂上だよ』(田部井淳子、ヤマケイ文庫、2012)を買った。この本は2000年出版の『エベレスト・ママさん』(山と渓谷社)を文庫化したものだ。田部井淳子は、世界で初めてエベレストの頂上に立った女性であり、世界七大陸最高峰に登頂した最初の女性でもあると知った。

 この本に行きつくまでのいきさつを書いておくと、そもそもはヤマケイ文庫だ。年に1回くらいは、アマゾンで「ヤマケイ文庫」を検索したり、神保町三省堂の登山書籍の棚でヤマケイ文庫の背を眺める。登山に興味があるわけではないが、日本人の海外旅行史を調べていると、海外旅行自由化以前に、登山隊として日本人が外国に出かけた歴史があるので、登山の本も一応チェックしている。1960年代から外国に出ている田部井淳子の本も、このさい読んでみようと思ったのである。

 この本を私は「人間の集団の物語」として読んだ。女の登山家は男と違って、出産、育児、家事などを担当せざるを得ない状況にあり、「みんなで、山に登ろう!」という熱意だけでは登山計画を実行に移すのは難しい。この本には、メンバーとの意見や感情のバトルが実名のまま綴られていて、問題がないから文庫化されたのだろうとは思うものの、「そんなこと、書いていいのか?」と思う場面が少なからずある。やはり団体行動は大変だ。

 そういう人間の摩擦が「女特有の」と表現できるかどうかわからないが、1975年のエベレスト隊の場合はこうだった。登山隊は、もちろん女だけで組織された。隊員のなかで、誰がさらに上に登るかといった人選でもめるのは男女共通だろうと思うのだが、この登山隊は隊長の行動がおかしい。

 標高2400メートルのルクラに着くと、隊長は「カトマンズに用がある」といってヘリコプターに乗ろうとしたが、席に空きがなく断念。

 標高3900メートルのタンポチェに着いたら、隊長は「日本に電話をかけたいから、カトマンズに戻る」といって、隊を離れる。しかたなく、田部井が隊長になる。数日後、隊長は日本に帰国してしまったと知る。9日後、隊長が日本から戻ってきた。「理由は聞かないでほしい」というだけ。離脱の理由は書いてない。

 人間関係のゴタゴタと金策の物語は、おそらくどの登山隊でも起こる「あるある」なのだろうと思う。それに加えて、出産や育児家事など、「女の問題」(もちろん、男の問題でもあるのだが)が加わる。この本は、そういう内容の本だ。だから、私は団体行動が嫌いなのだ。団体で100のことを成し遂げるなら、たったひとりで1か2くらいのことをやった方がいいと思う人間だ。

 

 

 

1376話 最近読んだ本の話 その9

 中国人の海外旅行史 

 

 中島恵の『中国人は見ている』がちょっとおもしろかったので、この著者のほかの本を探し、すぐに『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』(中公新書ラクレ、2015)を買った。すでに、このタイトルは客寄せのこけおどしということはわかっている。「トイレ」と書けば少し売り上げが上がるだろうという思惑がミエミエだ。どうせトイレのことなど大して書いていないだろうと予想した通り、内容的には、東京本社から大阪出張に行くサラリーマンが、名古屋あたりで読み終える薄っぺらな内容の本で、トイレのことなどほとんど書いてない。そういう本を求めている読者も少なからずいるから、非難はしない。

 2時間で読み終えたいという読者の関心分野ではないだろうが、「第2章 行列のできる中国パスポートの超不安」が、私の関心分野にぴったりくる。中国人の海外旅行史に触れているからだ。

 「中国政府が自国民の海外団体旅行(香港・マカオを除く)を許可したのは97年、個人旅行は2009年からなので・・・」

 日本の海外旅行自由化は1964年、韓国は1989年だ。中国はまだ20年ちょっとの歴史しかないのだから、旅行者のすさまじい急増ぶりにあらためて驚く。

 残念ながら、この本には中国人のパスポート申請手続きに関してはまったく書いてない。日本の場合、海外旅行自由化以前はパスポートを取得することが一大事だった。自由化後は申請書に戸籍抄本、写真、金融機関の残高証明書が必要だったが、旅行社に依頼しなくても個人で簡単にできる手続きだった。それが中国ではどうなのか知りたいのだが、まったく書いてない。日本に住んでいる中国人留学生とちょっと話をしたとき、「外国旅行をしている中国人は都会に住んでいる特別な人たちで、田舎に住んでいる人はそもそもパスポートはとれません」ということだった。そのときに詳しい話を聞かなかったのがなんとも残念だ。中国には、生まれた場所により、都市戸籍農村戸籍のどちらかに分類される。農村戸籍の者は、パスポートの申請が難しいというのがその留学生の解説だった。

 『なぜ中国人は・・・』には、パスポートのことは書いてないが、中国人が外国に行こうとすると多くの国でビザが要求されるという話が出てくる。中国人がビザなしで観光旅行ができるのはドミニカとアフリカのいくつかの国しかないと書いている。この本の出版時2015年の事情なので、現在は変わっているかもしれない。

 「ビザは相互取り決めだから、日本人がビザなしで入国できる国の国民は、日本にビザなしで入国できる」と思い込んでいる人がいるが、それは違う。日本人は15日間以内なら、中国にビザなしで滞在できるが、中国人は無条件で日本のビザが必要だ。ベトナムやフィリピンに関しても同様で、日本人はベトナムに15日間、フィリピンには30日間ビザなしで滞在できるが、ベトナム人もフィリピン人も、日本の観光ビザが必要だ。

 『なぜ中国人は・・・』に、日本に行くツアーに参加しようとした中国人女性の実例が書いてある。必要書類は以下の通り。

 ・ビザの申請書

 ・夫の在職証明書

 ・銀行の残高5万元(約80万円)以上を示すために、通帳のコピー。

 別の中国人は5万元以上の残高がなかったので、帰国まで口座が凍結されたという。海外逃亡を防ぐためだ。

 以上は団体旅行に参加する場合だが、ドイツ、オーストリアチェコで個人旅行をしたい中国人のビザ申請の実例が書いてある。

 ・不動産取得証明書、預金残高(5万元以上)の通帳コピー、在職証明書、航空券の実物、日程表、宿泊先予約表などだそうで、不動産を持っていない場合は、預金残高の金額が引き上げられるそうだ。ビザは当然、それぞれの訪問国の大使館に申請するのだ。

 日本人にとっては気軽な海外旅行も、中国人にはカネがあってもこれだけ大変なのだということだ。それでも外国に行こうとする熱意は大変なものだ。

 旅行というものは、カネを使うだけで、金銭的利益はない。書画骨董の収集や不動産購入と違い、旅をしても残るのは思い出と写真くらいなものだ。そういう事に、現在の中国人は労力とかなりのカネを使っている。

 新型肺炎のために、中国人の団体海外旅行は1月27日から一時中止すると、25日の人民日報が報じたことを、記録のために書き残す。

 

 

1375話 最近読んだ本の話 その8

 日本の中国人と中国料理

 

 古本屋で格安だったので、『中国人は見ている。』(中島恵、日経プレミアシリーズ、2019)を買った。食文化の話が60ページほどあるからだ。

 来日した中国人はすき焼きの生タマゴが食べられないという話から始まる。この本は表面だけさらっとさらっただけで、内容に深みがないから多少は売れるのだろうが、私にとってはまったく物足りない。歴史を踏まえないと、話題がおもしろくならない。

 20年ほど前、まだ中国人観光客はほとんどいなかった時代、台湾人や香港人や、中国系アジア人が日本にやって来ると、食事は基本的に中国料理だった。「せっかく日本に来たのだから日本料理を試したい」というのなら、天ぷらや松阪牛やアワビなどの鉄板焼きを出した。刺身など生魚は無論ダメだが、観光中の昼飯に弁当を出すのもご法度だった。冷めた飯を嫌がるからだ。

 しかし、その中国人がすっかり変わった。すしを食べるために日本に来るというのも、もはや珍しくない。中国人が、すし(生魚と冷えた飯)を喜んで食べる時代になったのだ。20年ほど前、クアラルンプールの書店で、中国語版の築地食べ歩きガイドを見つけてびっくりした記憶がある。次々に日本料理を食べて行くようになった中国人(中国語人)にとって、日本の食文化の最後の砦が生タマゴなのだ。

 日本観光をする中国人団体に同行するというテレビ番組を見た。ある日の夕食はすき焼きだ。もちろん、小鉢に生タマゴがある。画面を注視していると、20代、30代の旅行者は日本人と同じように平気で肉を生タマゴにつけて口に運んでいるのだが、中高年になると、初めからタマゴに手をつけないか、タマゴを鍋に投入して加熱する人もいた。

 ここで重要なことは、日本でこういう旅行をしているのは、大都会に住む比較的裕福な人たちで、異文化に対する適応力や好奇心も強い。そもそも海外旅行などできない貧民層なら、すしもほかの日本料理も喜ばないだろう。

 著者はそういうことはわかっていて、あえて深い話をしないのだろうと思う。というのは、香港では生タマゴをつけて食べる鍋料理があるとはっきり書いているからだ。その鍋料理に私も驚いた。寄せ鍋をすき焼きのように食べさせる路上の店だった。地域性や階層を無視して、「中国人は・・・」とか「中国では・・・」と書いてはいけないと、著者はよくわかっている。内容が薄いのは、読者の要求レベルに合わせたということだろう。

 日本在住中国人が苦手な中国料理のひとつが、片栗粉を使ってとろみをつけた料理だという。中国でもやる料理法なのだが、日本人はとろみをつけすぎるというのだ。この本のすぐあとに読んだ『中国料理と近現代日本 食と嗜好の文化交流史』(岩間一弘編著、慶應義塾大学出版会、2019)収載の論文、「日本における中国料理の受容:歴史篇」(草野美保)でも、1930年に日本人向けに出版された中国人が書いた料理書に、日本の中国料理はとろみをつけすぎると注意している。考えてみると、日本ではとろみをつけない中国料理は野菜炒めなど少数か。

 このことと、ねっとりしたカレーが好きということと関連があるのだろうかなどと、ふと思う。

 

 

1374話 最近読んだ本の話 その7

 続・食文化の本を書く

 

 食文化でも音楽でも同じなのだが、ある国の調査をするなら、さまざまなテーマで考えないといけない。歴史や地域差、都市と農山村、宗教や社会階層やジェンダーや年齢などを物差しに、例えば食文化を考えることが必要だ。インドの食文化なら、当然、「宗教と食」が重要だ。菜食主義者といってもいろいろあり、貧しいゆえに肉など縁がない経済的菜食者もいる。

 ここに書き出したようなテーマをどれだけ取り上げるかは、著者と編集者が相談して決めることだが、例え文章にしなくても著者は基礎知識として、一応頭に入れておく必要がある。その上で、どの程度詳しく書くか決めればいい。

 ラジオで、インド人の団体日本旅行をアレンジしている日本人の話を取り上げていた。中高年はインドから持参したレトルトパックなどインド料理しか口にしないが、若い世代は「すし屋に案内してほしい」など、日本料理にも興味を示しているという内容の話で、インドでもここ10年くらいで大都市に住む若者の食文化は大きく変わっている。中国人旅行者も、同じような経緯で日本料理になじんできた。

 インドの場合は、探せば英語の本やネット情報も多いと思う。スパイスの資料も多いので、この作業はそれほど大変ではないだろうが、どれだけ好奇心を広げられるかが問題だ。例えば、穀物や油脂の種類とその利用法。砂糖だって、いろいろな種類があり、しかも料理に砂糖は使うのかというテーマも、解答を探すのは簡単ではない。すでに多く出ている食べ歩き本やレシピ本のような本と違い、調べて考えてまた調べるという工程が加わる。食文化の本を書くとなると、経済史や政治や民族問題などその守備分野は広大で、頭を整理しないといけない。

 今年、旅行人から出るというインドの食文化の本では、食材や料理法などのリストを作って、いくつかのインドの言語に英語と和名、学名などが入ったリストを索引のように作るか、あるいは本全体を「インド食文化事典」のようにするか、方法はいくつもある(どやら、料理図鑑のようにするらしい)。ちょっと前に『沖縄ぬちぐすい事典』を紹介したのは、これがすばらしい食文化事典だからだ。野菜や魚貝類の話から、塩の話も1ページ分ある。カラー写真が多いから、チデークニとかシマグワというのがどういう姿をしているのかわかる。資料的価値が高い。

 読み物にするなら、極力カタカナは使わないことにしないと、読者がついていけない。地域の話をするなら、地図を載せないといけない。

 例えば、『日本の中のインド亜大陸食紀行』に、ゴングラという植物がよく登場する。gonguraは(アオイ科)だが、ウィキペディアでは「ケナフローゼルのこと」と、よくわからない説明がついている。どっちらかなのか、どちらも、なのか、さて。あるいは、「ティンムール」(ネパール山椒)というものが紹介されているが、ローマ字表記はtimburとなっている。さあ、どっちなのかと調べると、timurとtimburの両方の表記がある。学名はZanthoxylum alatumだろうか。四川料理でよく使う花椒Z.bungeanumに近いものらしいとわかる。ちなみに、日本の山椒はZ.pipertum。

 食材や料理などカタカナ語は、索引兼用の巻末付録としてリストをつけるという方法はある。脚注にすると、その語が何度か出てくると、そのたびに注をつけなくてはいけなくなる。

 食文化の本は、苦労に見合うほどは売れない。空前絶後の大著作を書こうとすると、手間ヒマ費用ばかりかかって、在庫の山ということになる。あるいは、そもそもそういう本は出ない。大作を書いておいてくれると、私のような者が助かるのだが、世の中に知りたがり屋はそうはいない。

 多くの読者が求めているのは食べ歩きと料理のガイドだからだ。

 

 

1373話 最近読んだ本の話 その6

 食文化の本を書く 

 

 『消えた国 追われた人々』(池内紀)読了。ドイツに詳しく、ドイツ語もわかる人が平易に書く紀行文は、ややこしい歴史がテーマでも楽しく読めた。やはり、私は「行った、撮った」というだけの紀行文には、まったく魅力を感じない。

 『日本の中のインド亜大陸食紀行』(小林真樹)も読了。労作ではあるが、日本におけるインド料理とインド料理店の歴史を簡単でもいいから書いてほしかった。そして、もっとも大きな問題はカタカナ語だと思った。それは、こういうことだ。

 「この日お母さんが腕によりをかけて作っていたのはケチャップをつけて食べるムング・ワダ、ムングを発芽させスプラウト=ファンガベラ(グジャラート語)にしてサブジとして食べるムング・キ・サブジ、酸味の効いたセーウ・トマト、プーリーが一つのターリーに入っていて、別皿で甘いセーウ・キールもだしてくれた」(107ページ)

 書き出した文章の中で、普通の日本人でもわかるカタカナ語はケチャップとトマトくらいだろう。インドの食文化に関する知識がその程度の読者は無視して、インドの地理の歴史も料理もかなり理解している読者を想定したのだろうか。

 もしも、インドの食文化に関心はあるが知識はないという読者を相手にするなら、別な書き方がある。著者はインド食文化大全のような本を今年出版するというので、お節介ながら、食文化の本について考えていることをちょっと書く。

 読みやすい本にするなら、紀行文風にして、カラー写真を多用して、説明は極力省く。インスタ本のようなものだ。

 もしも、空前絶後の本格的食文化本を書こうというなら、基礎の勉強が必要だ。

 私が東南アジアの食文化の本を書こうとして、その基礎知識を得るのに5年ほどかかったのは、食材の身元調査をしていたからだ。今と違って、「レモングラス」や「パクチー」といっても資料がほとんどなく、パクチーコリアンダーのこととわかり、有用植物事典などで身元調査をしたのである。植物学の素人が、現地語名を調べて、次に英語名を調べ学名や和名を調べるのである。コメや野菜や香辛料や魚貝類や調味料の身元を調べ、場合によっては熱帯農業を調べだすと、独学だから5年くらいはすぐすぎる。とにかく、日本語の資料などほとんどない時代だったから、戦前期の熱帯農業の資料も買い集めた。そして、調理道具やコメの炊き方を調べた。

 ちなみに、1980年代前半に手に入れて読んでいた資料のいくつかをあげておく。

 本郷の植物学専門の古書店で入手したのが、この2冊。

 『熱帯植物産業写真集』(牧野宗十郎、東京開成館、1938)

 『熱帯植物写真集』(工藤彌九郎、第一教育図書、1973)

 那覇の古本屋で手に入れたのが、

 『熱帯有用植物誌』(金平亮三、南洋協会台湾支部、1926)の1977年覆刻版

 東京で買ったのが、

 『熱帯の野菜』(岩佐俊吉、養賢社、1980)だが、もっとも使ったのが次の2冊。

 『食用植物図説』(女子栄養大学出版部編、1970)

 『世界有用植物事典』(平凡社、1989)

 マレーシアで買ったのが、

 『The Illustrated Book of Food Plants』(Oxford University Press,1969)

 タイで買った英語とタイ語の両方の名前が載っている本。

 『Plants from The Markets of Thailand』(Christiane Jacquat、Editions Duang Kamol、1990)。これは便利だった。

 昔々は、こういう本を探して読んだのだが、今ではタイ語のカラー版野菜図鑑もあるし、もちろんインターネット情報もある。そういえば、「朝日百科 植物の世界」(全145冊)もあらまし買ったが、食用植物の記述は少なかったなあ。『熱帯の野菜』(吉田よし子、楽遊書房、1983)を知ったのは90年代に入ってからだったが、同著者の『熱帯の果物』同様、助けられた。

 私がタイの食文化の本『タイの日常茶飯』(弘文堂)を書こうと思ったときにまずやったのは、『タイ日辞典』(冨田竹次郎編)の2000ページを最初から読むことだった。この辞書を読むのは、それが3度目だった。ノートを広げ、食文化に関する語を書き出して、食文化辞典を作った。この辞書は動植物にはタイ語名とともに学名も入っているので、使いやすい。食べ物にまつわることわざも書き出した。

 辞書には写真がないから、わかりにくい。そこで英語の本を探すと、英語・タイ語・学名入りの本を見つけた。淡水魚に関しては、私の基礎知識がゼロだから、資料を読んでも知らない魚ばかりでかなり苦労した。

 答え合わせというわけではないが、冒頭に書き出したカタカナの文章をちょっと解説しておこう。

 ムングというのは、英語名mung bean、学名Vigna radiata、和名緑豆(リョクトウ)。日本ではモヤシの原材料として利用されている。ワダは、豆やジャガイモなどをつぶしてドーナッツ状にしたもの。スプラウトは英語sprout、モヤシのようなもの。サブジは炒め物や蒸し物などの料理名・・・といったように、いちいち解説をつけるのは大変だ。この話、長くなるので、次回に。

 

 

1372話 最近読んだ本の話 その5

 ゲルニカ

 

 本の話を書きながら、『消えた国 追われた人々』(池内紀)を読み続けている。東プロシアの司祭であり、法律を学んだ官僚であり、代議士になった男の趣味は天文学で、研究成果を発表すると世間を騒がせてしまうので、死の直前にまとめ、死後発表した。その男の名は、ニコライ・コぺルニクス。そういう話題も出てくる。

 さて、きょうはスペインの話。

 ゲルニカのことがずっと気にかかっている。スペイン北部のゲルニカという小さな町をナチス空爆して、大惨事となった。その虐殺の悲しさと悔しさを描いたピカソゲルニカが有名だ。私が興味を持っているのは絵ではなく、街の方だ。

 数年前にゲルニカに行った。そのあとで、ゲルニカ爆撃に関する資料を探して読んだのだが、「なぜ、ゲルニカを?」という疑問に対する回答は見つからなかった。

 原田マハの『暗幕のゲルニカ』(新潮社)に何かヒントが書いてあるかと思い、本屋でチェックしたが、この本は絵の方のゲルニカのことで、爆撃のいきさつを詳しく書いてあるわけではなさそうだ。

 スペインの人民政府に対して、フランコ率いる反乱軍が蜂起したのが1936年から始まるスペイン内戦だ。反乱軍にはドイツとイタリアが支援し、人民政府側には義勇軍がついた。反乱軍を支援するナチスバスク地方空爆した。そのうちのひとつが、ゲルニカという街だった。

 先日、神保町の古本屋のワゴンセールで、『ゲルニカ物語』(荒井信一、岩波新書、1991)が置いてあったので、すぐに買った。またスペイン内戦の復習をする。

 ドイツが反乱軍を支援した理由は、反共産主義といった政治的理由もあるのだが、鉱山の方が重要だろう。バスク地方の銅や鉄の鉱山はイギリス資本で、イギリスに送られていた。これらの鉱物をドイツが奪えば、イギリスに損害を与えるとともに、ドイツに利益をもたらす。鉱物の集積地は、バスク地方の中心地ビルバオである。ドイツはビルバオが欲しかったのに、ゲルニカを爆撃した。ゲルニカ軍事産業の中心地でもなければ、大都市でもない。爆撃する理由がないのだ。この岩波新書でも、すでに私が知っている事以上の事実は書いてなかった。残された文書によれば、ゲルニカ爆撃の目的は、郊外の道路と橋を空爆して交通を遮断すると書いてあるのだが、実際には道路も橋も爆撃されなかった。なぜか、ゲルニカの街が爆撃されたのだ。私はその理由をずっと探している。

 そういう話は、このアジア雑語林の911話(2017-01-21)にすでに書いている。今回も、それ以上の資料はなかったということだ。

 バルトの旅で、歴史を学んでいるスペイン人大学院生と話をした。歴史は彼の専門だから、もちろんよく知っていて解説をしてくれるのだが、「でも、なぜ、ドイツはゲルニカを爆撃したのか?」と質問すると、彼は絶句してしまった。

 長らく疑問に思っていることは、「なぜ、ゲルニカに」であると同時に、「『なぜ、ゲルニカに?』と疑問に感じる人がなぜ少ないのか」という疑問だ。