1449話 その辺に積んである本を手に取って その6

 ブラジル音楽

 

 ひと月くらい前から、何度目かのブラジル音楽ブームが来ている。1960年代のボサノバブームから、ラジオでボサノバは聞いていたが、どうもしっくりこなかった。金持ちの家のお坊ちゃんとお嬢ちゃんが作り出したとわかる音楽で、その「いかにも、おしゃれ」な音楽があまり好きにはなれなかった。私にとっての最初の衝撃的なブラジル音楽は映画「黒いオルフェ」(1959)だったが、レコードを買って聞くということまではしなかった。

 1980年代に入って、私にとって初めてのブラジル音楽の本格的な波が来た。1981年ころだったと思うが、「世界のどこかに住んでみる」という旅の企画を考えたことがある。移動する旅をちょっと中断して、1か所にしばらく腰を落ち着けてみようと思ったのである。その時の候補地のひとつが、ブラジルのサルバドールだった。ブラジルの中でもっともアフリカ文化の濃い土地だ。バイーアの州都サルバドールで音楽を聞きながら過ごせたら楽しいだろうなあと思ったのだが、ブラジルで1年暮らすカネが貯まらず、定住企画は最終的にナイロビに決まり、日本を出た。

 1982年のラジオから、ハスキーで悲しげなサンバが聞こえてきた。クララ・ヌネスという名に心当たりはなかった。日本で公演をやったというが、そのころ私はアフリカにいたので、来日前の宣伝活動を知らない。知っていれば、コンサートに行ったのにと思った。幸運なことに、そのころブラジル留学から帰国した人から、クララのレコードを借りて、たっぷり聞いた。ブラジルのカーニバルは外国人観光客と貧乏人の祭りで、金持ちはカーニバルの期間中国外脱出するのだという話を聞いた。大衆音楽のサンバと都市の小金持ちの若者が好きなボサノバ、あるいはMPB(Música Popular Brasileira。ブラジル・ポップス)の違いだ。

 83年4月に、FMラジオはクララの大特集をやった。医療ミスで急死したクララの追悼特集だった。それからしばらくは、エアチェックしたその番組をよく聞いていた。

 1990年代に入り、ディスク・ユニオン新宿店でアフリカなどワールドミュージックのCDを買うなかで、クララのCDを買い集めた。これが、久しぶりのブラジル音楽の波だ。その後、何年かに1度、たまらなくブラジル音楽を聞きたくなる時があり、CDを買ったり、ユーチューブでサンバを聞くことがある。深く聞いていけば、クララ・ヌネス並みかそれ以上のサンバ歌手に出会えるのではないかという期待があり、4枚組とか5枚組のコンピレーション(寄せ集め)CDを買い、未知の歌手のなかから心に突き刺さる歌声を探した。が、ダメだった。クララのような憂いのある歌声は見つからなかった。ここひと月ほども、何度目かのブラジル音楽の波が来て、1日中ブラジル音楽を聞いていた。そんな日に、ふと部屋にいくつもある本の山を見たら、ブラジル音楽の本が見えた。『ブラジリアン・ミュージック』(中原仁編、音楽之友社、1995)は、もう10年以上前に買ったのだが、音楽情報よりも音楽を聞いているほうが楽しいので、読まずに積んだまま時間が過ぎていたのだが、ちょっと気になる歌手の歌声が聞こえてくると、今頃になってこの本でチェックするようになった。

 ちなみに、ブラジル音楽の本の下にあったのが、「KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集大瀧詠一」(2005)で、この本を読む前に、大瀧本人が亡くなってしまった。そんなこともあって、その2冊が乗っている本の山には、それ以上本を乗せていなかった。「すぐに読むぞ」という気持ちがいつもあったからだ。私は大瀧詠一をDJや音楽解説者として、大好きだった。NHKラジオでときどき放送していた番組が大好きだった。

 ユーチューブのありがたいことは、今はもう見ることができないクララのステージを見ることができることだ。ブラジルのテレビ出演のシーンやプロモーションビデオの映像を見ることができる。そこでもっとも気になったのは、Clara Nunesという彼女の名前を、テレビのアナウンサーは「クララ・ノニス」と発音していることだ。ポルトガル語の発音はほんの少しは勉強したことがあり、その法則にてらせば「クララ・ヌネス」でいいはずで、だから『ブラジリアン・ミュージック』でも、ブラジル音楽の専門家が「クララ・ヌネス」と表記しているのだ。

 東京外国語大学のブラジル・ポルトガル語講座がインターネットにあって、発音も詳しく解説してくれているのだが、それを読んでも「ノニス」の謎はわからん。東京外大のサイトには、「ポルトガル語はカタカナで書ける」と書いてあるが、それはウソだ。イタリア語やスペイン語インドネシア語は、発音の基礎をちょっと頭に入れれば、綴りを見ればカタカナ表記がかなりできるし、単語を耳にすればある程度は綴りが頭に浮かび、LとRの違いに戸惑いながらも、なんとか辞書を引ける。ところが、ポルトガル語はだめだ。ブラジル・ポルトガル語は余計にダメだ。口の中でごにょごにょしゃべっているようで聞き取れない。綴りと実際の音の差が大きいのだ。

 クララの歌とともに、ブラジルのポルトガル語を、ちょっと、どうぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=ixNKuF0AYxQ

 

 

1448話 その辺に積んである本を手に取って その5

 渋沢栄一と異文化

 

 明治の人で、いつかその生涯をざっとでもおさらいしたいと思っている人物がふたりいる。後藤新平渋沢栄一だ。日本近代史の政治や経済に対する関心からではなく、異文化とどう対応したのかを知りたくなったのだ。

 どちらの人物についても、不要不急のテーマなので、「そのうちに・・・」と考えているうちに時間が流れた。後藤新平に関してはまだまったく手をつけていないが、渋沢栄一についてはちょっと手をつけた。

 宮本常一も気になる人物で宮本の著作はすでに何冊か読んでいるが、この機会に宮本と、渋沢栄一の孫の渋沢敬一のふたりにスポットライトを当てた『旅する巨人』(佐野眞一文藝春秋、1996)を読んだ。この本は、渋沢家三代と宮本常一の生涯を描いているから、渋沢栄一の話もかなり出てくる。

 私と付き合いのある人のなかには、宮本常一と交流のあった人が少なからずあり、「宮本の葬儀の日はとんでもなく寒かった」といった話も聞いたことがあり、小さな原稿用紙に書いた宮本の生原稿も見たことがあるが、宮本本人に会ったことは一度もない。会いたければ会える機会はあっただろうが、民俗学よりも民族学文化人類学)の方に興味のある私は、宮本の著作を読んではいても、宮本の世界に引き寄せられることはあまりなかった

 『旅する巨人』の次に、同じ著者の『渋沢家三代』(文春新書、1998)を読んだ。この本を読みながら、ちょっと前に『青年・渋沢栄一の欧州体験』(泉三郎、祥伝社新書、2011)を読んだことを思い出し、「どこかにあるはず・・・」と我が家に捜索隊を派遣したが、ちょっとした捜索程度では発見できない。私の関心は、日本経済の父とか数多くの会社を作った男という保守本流の活躍はどうでもよく、幕末から明治にかけての西洋体験に関心がある。渋沢の異文化体験記は、福沢諭吉の『福翁自伝』にも似て、異文化に対する強烈な好奇心に貫かれている。それはほかの人の戦前の著作でも、今の日本人はほとんど失った異文化への興味にあふれている。海外旅行が当たり前になった今、旅行記を読むと、旅先で出会う事柄を、すべてわかったような気分になって、「なんだ、これ?」と、もっと知りたくなる好奇心がなくなってしまったような気がする。

 渋沢栄一慶應3年(1867)に、徳川昭武慶喜の異母弟)に随行してヨーロッパに行き、慶應から明治に元号が変わって帰国した。その時の異文化体験を知りたくて『青年・渋沢栄一の欧州体験』を買った。もう一度内容を確認したいと思ったが、その本が見つからない。すぐさまアマゾンで買い直すことはできるが、買ったことも読んだことも覚えているが、内容を覚えていないということは、再読する必要はないかもしれないかなどと考えて、買い直すのはやめた。

 来年のNHK大河ドラマ渋沢栄一の物語だということで、渋沢関連本が山ほど出ているものの、私の関心分野に答えてくれそうな本は1冊しかない。フランスに詳しい鹿島茂なら、きっと渋沢のフランス体験をみごとに描いてくれるだろうと思って注文した『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013)が、たった今到着した。ヨーロッパ滞在に関するだけで150ページ以上ある。よし、楽しみだ。

 渋沢の欧州体験研究の正しい方法は、渋沢の旅日記『航西日記』を読むべきで、『アメリカ彦蔵回想録』などと共に『世界ノンフィクション全集14』(筑摩書房、1961)に収められていて、1000円プラス送料ですぐに買えるのだが、「まあ、まだいいか」とそのまま放っている。

 

 

1447話 その辺に積んである本を手に取って その4

 憂鬱なタイ

 

 例によって、ネットでおもしろそうな本を探していたら、『王室と不敬罪』(岩佐淳士、文春新書、2018)を見つけた。そういう本が出ていることを知らなかった。5年ほど前から、新刊書を追うことにほとんど興味を失っているから、新刊書を絶えずチェックする習慣はなくなった。読んでおくべき本、読みたくなる本はすでに数多く出版されていることがわかっているから、毎週書店に行って新刊書チェックをする気などない。

 『王室と不敬罪』というタイトルで、タイの話だとすぐに分かる。まず思ったのは、「そんな本出して、大丈夫か?」だった。著者は今後タイに入国できないか、「不幸にして」入国できたら逮捕されるかもしれない。それが、不敬罪だ。

 不敬罪は香港国家安全維持法と同じで、権力筋が「有罪!」と決めれば、国籍に関係なく誰でも有罪にされてしまう。権力者の思いのままに、「政府や軍の横暴」を合法化できる法律なのだ。

 ということは、『王室と不敬罪』を書いた毎日新聞記者はもうタイに行かないと決心したのか、あるいは毎日新聞アジア総局(バンコク)がどんな圧力を受けても戦うという新聞社の決意を表したのか。あるいは、そんなことにならない穏当な内容なのだろうか。どうも、後者だろうなと思いつつ、買った。

 ほとんど、すでに知っていることばかりだった。参考文献としてあげた本のほとんどを、すでに読んでいる。「あれは、書けないよな」ということは、やはり書いてないが、それを責める気はない。実質上軍事独裁政権は、昔の韓国や台湾のような言論統制強化の方向に進んでいて、油断はならない。今のタイは香港のようになりつつある。近頃タイにあまり行かなくなり、行っても早朝着・深夜発の滞在しかしていないのは、タイを考えると憂鬱になってしまうからだ。

 タイは、昔も軍政時代があった。軍事政権に対して、かつて自由や民主主義を掲げて戦った若者たちは、今はビジネスエリートとなって保守側に成り上がり、「選挙などいらない。クーデターはタイ式民主主義だ」と叫び、無学の貧乏人と我々都市のエリートが同じ1票の投票権があるのはおかしいなどと言い始める。今もかつてのように民主主義を求める主張をしている有名人は、プラティープ・ウンソンタム・秦さんくらいらしい。

 この新書でも、今まで出版されたタイ関連書と同じように、タイ国王の威光がいかに強いのかという例を、同じ話で説明している。1992年に国軍が民主化運動グループを襲撃した「5月の虐殺」のあと、軍最高司令官から首相になったスチンダーとデモ指導者のチャムロンのふたりを、国王は王宮に呼んだ。国王の前でひざまずくふたりの映像を見た人は、「これぞ、国王の威光」と絶賛したのだが、「それは、違う」と私は以前から言ってきた。国王に、本当に強大な威光と権威があるなら、300人以上が軍に殺される前に調停すれば、多くの人命が救われただろう。しかし、国王が登場したのは、軍がさんざん虐殺をした後だ。軍にやりたいだけやらせて、そのあとに国王が登場したのだ。

 日本の天皇も同じだが、王は自分が自由にできる軍隊を、制度上はともかく現実的には持っているわけではない。タイの軍隊も、国王はいかに偉大かという威光強化政策を推し進めて、その威光を背に自由にふるまってきた。それが今までの軍事政権だ。つまり、軍が好き勝手に何でもできるように、軍が作り出した「王の威光」という神話を利用したのだ。クーデターを国王が承認してきたのは、クーデター派についたほうに利があるという王室の判断があったからだ。クーデター派に実力なしと判断すれば、そのクーデターを承認しないというわけだ。

 タイ人は王室や王に対して称賛する自由はあるが、もし異を唱えれば、最悪の場合死が待っている。自宅や自分の店や会社に国王の写真を掲げていないと、反王室派と認定され、警官の小遣い稼ぎの対象になるか、あるいは不敬罪で逮捕されるかもしれないという危険がある。だから、「すべてのタイ人は国王を敬愛し・・・」などと無邪気に書いている文章を読むと、うんざりするのだ。敬愛しない自由など、そもそもないのだ。

 そういう事情は、1945年8月までの、天皇と日本人の関係にも似ているように思う。

 不敬罪は香港の、あの悪法同様、外国人にも適用される。

 

 

1446話 その辺に積んである本を手に取って その3

 台湾

 

 前回『くらべる世界』を注文したと書いたが、すぐさま、届いた。期待通り、おもしろい。フランスのじゃんけんは指で木の葉の形をつくる「井戸」もある4種類の戦い。インドネシアのじゃんけんは、親指(ゾウ)、人差し指(人)、小指(アリ)の3指対決だという。うん、おもしろい。お勧めです。「くらべる」シリーズ、あと2冊も「買い」だな。

 さて、今回は台湾の本。台湾関連の本は2種類に分けられる。ひとつは、旅行ガイドとガイド付きエッセイのAグループだ。もう一つのBグループは、「昔の日本人はエライ!」、あるいは「昔の台湾は良かった」という植民地時代礼賛本だ。読者層でいえば、Aグループは比較的若い女で、Bグループは中高年の男ということになる。Aは今現在の表面しか見ていないし、Bは過去しか見ていない。

 そんななかで、比較的マシかもしれないと思い読んだのが、『台湾物語』(新井一二三、筑摩書房、2019)だ。著者略歴を読んで、昔読んだ『中国中毒』(三修社)の新井ひふみと同一人物だとわかった。『中国中毒』に関して、「おもしろかった」も、「つまらん」も、記憶は一切ない。『中国中毒』は三修社の「異文化を知る一冊」シリーズの一冊で、1980年代にこのシリーズの文庫が何冊も出版され、異文化に興味のある私は書店で片っ端から手に取り、何冊か買ったが、印象に残っているのは『ツアーコンダクター物語』と『ツアーコンダクターの手帖より』(どちらも高木暢夫)と『世界の衣食住』(読売新聞外報部)くらいか。『ソウル実感録』(田中明)は名著だが、すでに北洋社版で読んでいるので、三修社版は買っていない。「異文化を知る一冊」シリーズは、方向的には私好みの分野の文庫なのに食指が動かなかったのは、欧米中心で、素人臭いエッセイが気になったからだろう。今読み返せば印象が変わるかもしれないが、30年以上前は、そういう感想だった。

 さて、『台湾物語』はどういう本かというと、明石書店の『〇〇を知るための60章』といったエリアスタディーズのシリーズの台湾編をひとりで書いたような本だ。現実の『台湾を知るための…』はひとりで書いた本だが、この『台湾物語』とは格段の差がある。『台湾物語』は、Aグループの本でもBグループの本でもなく、といっても、やはり日本時代の影は色濃く出ている本ではあるが、日本人礼賛というわけでもない。特に新しい視点があったわけではないが、街散歩が好きな私には、「地名の物語」の項がおもしろかった。

 台湾の本と言えば、いまだに鈴木明の本を「名著」に挙げたい。『誰も書かなかった台湾』正続(サンケイ新聞出版局、1974、1977)と、『ああ、台湾』(講談社)や『台湾に革命が起きる日』(リクルート出版)などがある鈴木明の著作は、ガイドブックと政治の本しかなかった1970年代、台湾本の中に「今生きている台湾人の世界」を、過去を踏まえて描きだした。そのなかには、デビューして間もないテレサテンの話も、同時代の話として出てくる。

 『誰も書かなかった台湾』は、出版当時の1970年代なかばに読んだが、いまでも覚えていることが多い。なかでも、台湾で著者が今まで乗っていた隆裕(ブルーバードの台湾名)のタクシーが、1973年以降トヨタ1600に変わっていることに気がついたというところから、トヨタと中国との関係や、台湾の自動車工業と台日関係に話が進む。この記述を意識したわけではないが、ずっと後になって私の街歩きのコラムにいつも自動車の話が入るようになった。もともと自動車には興味はないし運転免許証も持っていないのに、自動車を調べるようになったのは、自動車からその国の現代史が見えてくることがあるからだ。路上で見かける自動車を調べることで、その国の歴史や経済や対外関係などが見えてくるのだ。

 タイのパトカーはアメリカの中古パトカーだったし、タイ人のピックアップトラック好きはアメリカの影響だと思われる。ベトナム戦争時代の影響だ。運転免許証事情を調べれば、警察事情がわかる国もある。警察の窓口で、免許証取得申請書に現金を添えて提出すれば、免許証が買えた国がタイを始めいくらでもあったし、おそらく今もあるだろう。

 自動車雑誌を定期購読しているような自動車ファンはいくらでもいるし、そういう人が外国旅行をして文章を書いているだろうが、自動車から国際政治や工業史に思いをはせる人がどれだけいるだろうか。今どんな車が台湾を走っているのかをきちんと書いた自動車ファンがどれだけいるだろうか。おそらく、自動車雑誌にはそういう記事は出ていないだろうと想像するのだが、どうだろう。ベトナムやマレーシアの自動車事情を調べて、対中関係を考えた旅行ライターがどれだけいるだろうか。

 

 

1445話 その辺に積んである本を手に取って その2

 街歩き

 

 建築史家兼建築家の藤森照信の本は折を見て買っているが、先日、「まだ買っていない本があったかなあ」と思いつつアマゾンで調べたら、チェックしていなかった本が見つかった。『昭和の東京』(路上観察学会、ビジネス社、2009)は、その世界ではご存知の、路上観察記の一冊。すべて買ったと思っていたが、気がつかない本もあったのだ。出版時点で、すでに「現存せず」と解説にある物件が少なからずあり、出版からさらに10年以上たった現在では、もうまぼろしの物件かもしれない。試しに、12~13ページで紹介している木造3階建ての下宿屋本郷館は、2011年に建て替えられた。台東区の廿世紀浴場は2007年に廃業、2009年に取り壊された。同じく台東区の栄泉湯は、アールデコ風銭湯だが、すでに廃業している。建物がどうなったかは、ネットではわからない。

 といったように、インターネットとグーグルマップなどで調べながらの読書に向いている。

 街歩きと雑学が好きな私の、とっておきの名著は『くらべる東西』(おかべたかし・文、小出高士・写真、東京書籍、2016)だ。こういう大好きな本は、買った時のこともよく覚えている。神田神保町三省堂で、発売直後に買った。これは日本の文化の東西比較を写真でやろうという企画だ。好きな本は、本の山に埋もれないように、絶えず山の上の方に置いているから、すぐに取り出せたのだ。東西といっても、東京と大阪の比較ではなく、東日本と西日本の比較だ。

 たとえば、「銭湯比較」なら、浴室奥に浴槽があるのが東、アイランドキッチンのように浴場の中央に浴槽があるのが西の銭湯だという。詳しい解説はないので、この本を読んで以後、関西の銭湯に気をつけていると、アイランド型ではなく、壁から浴槽が突き出した半島型もあった。銭湯の絵は東のものらしく、西ではタイルなどいろいろある。

 タクシーの東西比較では、東はカラフルだが、西は黒が主流らしい。姫路を調査したら、「すべて黒かった」と報告している。狛犬比較とかのれん比較など、「なるほどねえ」と堪能した。東西比較といっても、物事にもよるが、0対100の違いがあるわけではなく、主流はどうかという報告なのだが、「なぜ?」と考えると、先に進めなくなるので、あまり考えないことにした。でも、真相は知りたい。

 こういう東西比較は食べ物に関してはある程度知っているが、ほかの分野では知らないことなどいくらもある。この本を読むまで私が知らなかった事項を、目次からちょっと書き出してみよう。

 座布団、火鉢、骨抜き、屋根、のれん、だるま、卵焼き器などさまざまな東西比較が載っている。

 この本を買ったのは4年前だから、その後、同じ比較モノでおもしろい本は出ているか調べてみたら、『くらべる日本』、『くらべる世界』、『くらべる時代』の3冊が出ていて、どれもおもしろそうだ。とりあえず、『くらべる世界』をたった今注文した。『くらべる東西』も安く買えるので、文化やデザインに興味のある方はどうぞ。

 

 

 

1444話 その辺に積んである本を手に取って その1

 韓国ドラマ

 

 すでに読んだ本とこれから読む本が部屋のあちこちに積んである。読んだ本が探せないことが多くなったので、何とか整理しなければと思っているものの、まだ何ともしていない。この機会に、その辺に積んである本のなかから見つくろって、あれこれ書いてみようか。

 韓国映画は、比較的よく見ている。おもしろい作品が多いからだ。ところが、韓国のドラマはあまり見ない。単純に、おもしろそうな作品が少ないからだ。逆に言えば、見たくないような作品が多いからだ。「ご存知! これぞ、韓国ドラマ!」という内容、別な表現をすれば、「ベタのかたまり」のドラマが嫌いなのだ。例えば、財閥の御曹司や王との恋という身分差ラブストーリー。前妻と後妻の子の異母兄弟対立、あるいは本妻の子と愛人の子の異母兄弟対立といった、いつものどろどろ劇。訳ありすぎの出生の秘密。あるいは、金持ちのバカ息子・バカ娘の徹底したイジメ・嫌がらせを受ける貧しい主人公。交通事故、記憶喪失、安易なタイムスリップと、あまりに好都合な「偶然にも」のシーンと不都合なすれ違い。医者ドラマではないのに、やたらに病院のシーンが多いというのも特徴らしい。

 大映ドラマと少女漫画を合体し、さらに泥臭いハーレクインロマンスにしたドラマである。ひとことで言えば、「これでもかという、ベタの大安売りドラマ」と言ってもいい。韓国ドラマファンのおばちゃんたちは、そういうベタな展開が大好きらしいが、だからといって日本でそういうドラマを作っても、たぶん、見ない。韓国のドラマだから、ひと昔前の、大映ドラマのようなベタな展開に心を躍らせるのだ。外国のドラマだけど、アメリカではなく韓国だからいいのだ。ベタなドラマが悪いと言っているのではなく、その手のドラマは私の好みに合わないというだけのことだ。

 私が韓国ドラマを見る目的は、韓国の日常生活の情報を得るためで、とりわけ食文化が関係するなら、どういう構成のドラマであれ見るようにしている。映画やドラマといった映像資料を多数見てわかったことを、このアジア雑語林で何度も書いている。「韓国人は、日本人のように左手で茶碗を持って食べるようなことはしない。食器はテーブルに置いたままだ」と、さまざまな出版物に書いてあり、テレビなどでも紹介されているが、そんなのウソだとこのアジア雑語林で何度も書いている。韓国のドラマや映画を見れば、茶碗や丼を左手に持って食事をしているシーンなどいくらでも見つかる。

 さて、枕が長くなったが、『定年後の韓国ドラマ』(藤脇邦夫幻冬舎新書、2016)の話だ。この本は、韓国ドラマの魅力を、シナリオや俳優の演技力などから語っているのだが、韓国ドラマに対する態度が私とはまったく違うから、同意することも共感することもほとんどない。私は韓国ドラマを、韓国の文化のひとつとして眺めているので、俳優の演技力やシナリオなどにさほど興味はない。それよりも、テレビドラマと韓国人というテーマの方に興味があるのだが、残念ながらこの本にそういう記述はない。韓国のドラマを語るなら、「彼らが生きる世界」と「オンエアー」(どちらも2008年)という2本のドラマは最重要資料なのだが、この新書にはこの2作のタイトルが出ているだけだ。著者は見ていないのか、あるいは単なる恋愛ドラマとしてしか見ていなかったのだろうか。この2本のドラマは、ドラマ制作者側を描いた作品で、テレビドラマの現状や問題点がよくわかる。

 「彼らが生きる世界」では、放送局のドラマ局のキム・ガブスやキム・チャンワンたちがこういうやりとりをしている。確認するのは面倒なので、記憶で概要を書く。

 「韓国ドラマは、くだらん。財閥御曹司との恋とか交通事故とか、同じストーリーばかりだ」

 そう思っているから、今までと違うドラマを作りたいと努力しているのだが・・・。

 「でもなあ、ああいうドラマが視聴率を集めるんだよなあ」

 裏番組の、毎度おなじみのベタなドラマがより多くの視聴者を集めているという現実にぶち当たる。おそらく、実際にドラマを作っている者の感情を、ドラマ出演者に言わせているのだろう。このやりとりのほか、スポンサーの問題なども出てくるという点でも、韓国ドラマ研究者なら見ておくべき作品なのだが、いわゆるドラマファンとドラマ紹介者は、ヒョンビンが主演の恋愛ドラマという側面にしか注目しない。

 「ご都合主義のベタドラマ」は嫌だと思う人たちのなかから、のちに「ミセン」(2014)や「応答せよ 三部作」(2012~2016放送)などを作ることになる。この新書でも「応答せよ1988」に少し触れているが、ソウルオリンピックが開催された1988年に海外旅行も自由化されたと書いているが、海外旅行自由化は1989年1月である。著者にとっては、そういう些末なことはどうでもいいのだろうが、1393話で書いたように、海外旅行史研究者としては些細なことではないのだ。

 

1443話 『プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように』出版記念号 

 なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと その10(最終回)

 

 ここ数年のアジア雑語林を読んだ何人かが、「あの前川が、ヨーロッパの旅行記をねえ・・・」と言った。「アジアの路上で、安飯を貪り食っているのがお似合いのお前が、ヨーロッパかよ」という驚き、あるいは嘲笑だろう。「アジア雑語林」というタイトルで、なぜヨーロッパの話を・・・という違和感もあったようだ。

 私がヨーロッパを旅したと言っても、パリのカフェテラスで、古本屋で買ったアポリネールデスノスの詩を読んだ後、画廊と骨董店巡りをしているわけではない。イビサのリゾートホテルで、酒とバラの日々を送っているわけでもない。ただ街をぶらついているだけだから、旅のスタイルはアジアでの日々と変わっていない。

 ここ何年か、ヨーロッパに行くことが多くなった理由はいくつもある。じつは、昔からいちばん行きたいのはブラジルなのだが、渡航費が高いうえに、気ままな旅をするには危険すぎる。ツアーに参加して観光地巡りならできるだろうが、昼も夜も、ふらふらとどこへでも歩きたくなるタチの私には、ブラジルの大都市は危険らしい。危ない地域の旅は、したくない。

 旅を企画する際、航空運賃の問題は大きい。その点、ヨーロッパ便はきわめて安くなっているのだ。安くて良質のエティハド航空カタール航空などのほか、中国や韓国の航空会社も参入し競争が激化しているので、運賃はいつも低く抑えられている。インド亜大陸に行くよりも、ヨーロッパ便の方が安いのは常識だ。

 ヨーロッパ便に比べて、アメリカ大陸便は高い。アフリカは、モロッコは安いが、総じて高く、しかもナイロビなど治安の問題が大きい。

 例え航空運賃が安くても、ヨーロッパは滞在費が高いよなという指摘はあるだろう。北欧やスイス、アイスランドなどは本当にバカ高いらしい(体験していないので、その苦しさを実際には知らないが)。しかし、ヨーロッパといっても旧東欧諸国の物価は安いのだ。大胆に言えば、フランスやイギリスの半額以下だろう。バンコクの安ホテルは1000バーツ(3300円)前後が相場だが、例えばワルシャワのゲストハウスのドミトリーなら1泊1000円台だ。食費も安いから、ヨーロッパに行ったからと言って金持ち旅行というわけではないのだ。その点、高額の北米旅行とは異なる。私の旅のスタイルは、どこに行ってもただ街を散歩しているだけだから、「楽をしたくて、ヨーロッパに行った」というわけでもない。

おまけ話 プラハで、「ベルリンには安い宿はあまりなくてね」とベルリン在住の大学生が言っていたが、数少ない安宿のひとつがCity Hostel Berlin。北朝鮮大使館敷地内にあり、大使館所有の安宿(経営はトルコ企業)だ。時期にもよるが、2000円程度で泊まれる宿だったが、新型コロナの影響で、つい最近閉鎖した。

 プラハを旅した後、ヨーロッパ現代史をちょっとおさらいした。そのおかげで、バルト三国ポーランドを旅した時、歴史がよくわかった。ドイツVSソビエトの勢力争いに巻きこまれた悲劇の歴史や、中世から続きドイツ人移民の物語などがよくわかるのだ。

 ヨーロッパを旅しようと思った理由のひとつは、そこだ。いままで、おもにアジアに関わってきたので、ヨーロッパの諸事情に疎い。まずは、スペインに行き、カタロニアやバスクの勉強をした。ポルトガル独裁政権時代の勉強も少しした。スペイン人やポルトガル人が誇りにしている大航海時代のことなど、私にはどうでもいい。まずは現代史を調べ、そして近代史へとさかのぼるのだ。まるで興味のない考古学や古代史から歴史の勉強を始めても退屈なだけだ。

 そういう勉強をしていくと、スペインのフランコ独裁政権が外貨稼ぎのために、1960年代に観光立国を目指し、アンダルシアの乾燥地と照り付ける太陽、闘牛、フラメンコ、トマトとオリーブオイルの料理といったものを、「これが、太陽と情熱の国スペイン」と売り出した経緯がわかる。外国人にヨーロッパとは思えないエキゾティシズムを感じさせる場所として、スペインを売り出したのだ。その結果、北半分のスペインは「スペインらしくない場所」だから、観光では無視された。それがのちに話題となるバスクである・・・といった歴史がわかってくる楽しさを味わい、しばらくはヨーロッパとつき合いたくなったのである。なんのきっかけもなく、世界史のお勉強なんかできないが、旅行するとなると西洋史のあれこれも知りたくなるということだ。ヨーロッパをほんの少し旅するようになって、ヨーロッパのことが多少はわかるようになってきた。

 

 単行本の編集作業が終わりに近づいたとき、編集者から「『あとがき』の原稿をお願いします。長さは追ってお伝えします」というメールが来た。「あとがき」で書きたいこと、書けそうなことがいろいろ浮かび、20ページでも30ページでも書けそうな気がして来た。「アジア文庫の大野さん」の話は絶対に書いておきたいと思った。翌日、「『あとがき』は5ページで」というメールが来たが、そのときに書きたいと頭に浮かんだあれこれが、今回の「なんだか、遠い昔のようなことと、ちょっと前のこと」の10回分の原稿になった。

 まだ書いていないこともあるが、まあ、いいか。