1486話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第4回

 

 島 その2

 

 「バリは、観光客であふれている」という記述に驚いた。「何をいまさら」と言われそうだが、その記述が1930年代に出版された旅行記のものだから驚いたのだ。面倒なので出典を探さないが、オックスフォード大学出版局が復刊したインドネシア関連書でその記述を見つけた。バリは1920年代から西洋で話題になっていたことは知っていたが、「観光客であふれている」はおおげさだろうと思ったが、考えてみれば、当時は豪華客船の時代で、客船がバリに着けば、船客が行く場所は限られている。観光客であふれるのは当然だ。その船が出航すれば、島はまた静寂に包まれる。

 1974年、私はジャカルタにいた。「バリ島」という名は知っていたが、そこがどういう場所か、具体的には何も知らなかった。ヤシと白い砂浜以外のイメージは、わずかにガムランを知っていただけだ。宿のおやじにバリへの行き方を教えてもらい、鉄道と船とバスの長い旅に出た。「地球の歩き方」はもちろん、「ロンリー・プラネット」もなかった時代の旅行者は、断片的な知識に空想と妄想を加え、あいまいな旅行情報で旅立ったのだ。「どうにか、行けるさ。何とかなるさ、多分」という時代だった。放浪者を気取ったわけではなく、ガイドブックを持たない旅が、当時の常識だっただけだ。ガイドブックなど、欲しくてもなかったのだからしょうがない。1980年代でも90年代になっても、インターネットのない時代は、旅行情報のない地域など、世界のどこにでもあった。ここ20年ほどで、実際に行くまで、そこがどういう場所かまったくわからないという時代から、行かなくても路地裏までよくわかるという時代へ移り変わった。

 幸か不幸か、私はバリの画像をあらかじめ見ることなく、知識もなく、島の中心地デンパサールに着いた。路上の西洋人旅行者に声をかけた。街で過ごす気はないから、「島のどこに行けばいいのか」と聞くと、「クタに行け」といい、行き方を教えてくれた。クタという名の浜辺に着き、やはり旅行者に声をかけた。「ホテルはないから、その辺の家に行って、部屋はあるかどうか聞いてごらん」

 1974年のクタにはホテルはなかったが(のちに資料を調べると、74年にクタ・ビーチという小さなホテルがあったらしいが、記憶にない)、少しずつ姿を見せていた外国人旅行者のために、民宿を営む家があった。庭の一角に小屋を建て、3部屋か4部屋のベッドルームがあった。電気・水道はない。薄暮のころになると、おかあさんがランプを手にして、客室前のテーブルに置いていく。甘いお茶が入った魔法瓶と小さなバナナが数本置いてあった。朝になると、ランプが片付けられ、朝食用に甘いお茶とバナナが部屋の前に置いてあった。これが朝夕の心遣いだった。祭りの日は、ごちそうのおすそ分けがあった。幸せなことに、バリでは祭りが多い。

 食堂はたった1軒、ヤシの林のなかにテーブルとイスを置いただけの店だった。「スリー・シスターズ」と言っただろうか。自炊はしていないから、食事をその店だけで済ませていたとは思えないのだが、ほかの店の記憶がない。

 島にひと月ほど滞在しようと思ったから、ビザの延長をすることにした。デンパサールのイミグレーションオフィスに行くと、門の脇にイラスト入り掲示板があった。「こういう者は、オフィスに立ち入り禁止」と書いてある。イラストは、ランニングシャツ、半ズボン、ビーチサンダル姿の男だった。私はTシャツを持っていたし、長ズボンも持っている。しかし、靴を持っていなかった。あの頃の熱帯旅行者はビーチサンダルが正装だった。

 考えてみれば、靴を履いて日本を出たのは、1973年の初めての旅と、75年にヨーロッパに行ったときと、80年にアメリカ取材に行ったときと、81年にアフリカに行ったときだ。それ以外の旅はサンダルで日本を出ている。靴を履いて日本を出るようになったのは、ここ何年かのヨーロッパ方面の旅を繰り返すようになってからだ。

 1974年の私も、履物はビーチサンダルしか持っていないから、旅行者から靴を借りた。25センチの足に29センチの靴を履き、チャップリンになってイミグレーション事務所に出かけた。

 常時クタで遊んでいた旅行者は、20人もいただろうか。夜の娯楽は雑談だった。私は最年少で、旅のつわもの達がランプを前に語るモロッコやインドやメキシコなど、世界各地の話に耳を澄ませた。それは、クタがのどかだった最後の時代だった。

 

1485話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第3回

 

 島 その1

 

 農村、漁村、島などが観光開発されると、たちまち姿を変える。

 バンコクの南にあるサメット島に初めて行ったのは、たぶん1970年代末だったと思う。タイ人の友人に勧められ、行き方を教えてもらい、出かけた。粗末なバンガローが5軒ほどあっただろうか。電気・水道はない。私がこの島に滞在していたときにいた旅行者は、私も含めて5人程度だった。当時、この島のことはまだ日本では紹介されていない・・というより、タイの小さな島でも紹介するガイドは、雑誌「オデッセイ」しかなく、私が紹介記事を書いた。

 サメット島と間違えられやすい南部のサムイ島は、80年代初めには旅行者の間ではすでに知られていて、私もサムイ島からバンコクに戻ってきた旅行者に勧められて、行くことにした。バンコクから夜行列車でスラタニまで南下し、港から船で6時間くらいかかった。船といっても、木造の漁船のような船だった。サメット島よりもはるかに大規模なビーチリゾートで、大きなホテルはまだなかったが、いくつものビーチにバンガローが建っていた。たった1日で建てたようなサメット島の掘っ立て小屋とは違い、もう少しマシなバンガローだった。それ以後行っていない。サメット島には、1980年代末に再訪した。バンガローが増え、スタンドバーなどもできて、騒がしかった。

 「オデッセイ」でサムイ島を紹介したかどうか記憶にない。手元の資料で、もっとも早くサムイ島を紹介しているのが、『オデッセイ・トラベル・ハンドブック 東南亜細亜<熱狂の楽園・混沌の大地>』(水越有史郎、グループ・オデッセイ、1982)だ。わずか2ページの紹介記事で、「島の道路工事も着々と進み・・」とある。ウィキペディア英語版には、1970年代初頭まで島に道路はなかったという記述がある。

 オデッセイのガイドブックよりも詳しい情報が載っているのが、『宝島スーパーガイドアジア タイ』(JICC、1983)だ。スラタニも含めて、5ページの記事が載っている。その記事で心を躍らせたのは、サムイ島への交通が鉄道のほか、「バンコクからタイ・ナビゲーション・カンパニーのソンクラ行き船で約36時間。船内は清潔で、食事もよい」とある。このガイドを買ったときにはすでにサムイ島に行っているが、船旅ができるならまた行きたいと情報を探したが、バンコクからの船便は見つからなかった。

 ちなみに、サムイ島の記事3ページのうち1ページは「ヤシの木とサルの島 サムイ」というエッセイだ。筆者はまだ20代の森枝卓士

 サムイ島が大きく変身するのは、1989年に空港ができてからだ。『地球の歩き方 タイ ‘90~’91年版』によれば、バンコク・サムイ島間の飛行機は、1時間15分、1700バーツだった。日本円に換算すれば、現在とあまり変わらない。

 そして、サムイ島がもう一段の変身をするのが、ディカプリオ主演の2000年の映画「ザ・ビーチ」だろう。1980年代から、「悪くすると、サムイ島はプーケットのようになってしまう」と水越氏は心配していたが、プーケットを知らず、サムイ島を再訪していない私は、サムイ島の現在を知らない。ただ、テレビのバラエティー番組で、何の説明もなしに、若いタレントが、「この前、サムイ島に行ってさあ」、「アタシも行ったよ」などと話しているのを耳にすると、そくくらい有名な島なんだなということはわかる。島が変貌したことに対する失望感は、ない。

 

1484話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第2回

 

 中国 その2

 

 中国には行ったことはないが、入国する気はないのに、審査を受けさせられたこともある。不幸にして北京乗り換え便を利用したときだ。単なる乗り換えなのに、厳しいパスポートチェックを3度と荷物検査を1度受けさせられたことがある。アメリカも、こういうことをやる。乗り換え(トランスファー、トランジット)だから、日本の空港なら到着ゲートから出発ゲートに移動するだけなのだが、アメリカは「わが領土内にいるのだから」という理由で、入国審査のようなことをする。中国も同じことをやる。というわけで、法律上は中国に入国してはいないが、中国領土内でのべ6時間ほど過ごしたことはある。

 中国に行ったことはないが、その領土を何度か見たことはある。1973年と74年に、香港北端の落馬州(ロクマチャ)の小高い丘から、中国を眺めた。その当時、ほとんどの日本人はまだ知らない深圳(しんせん、という読み方も広まっていなかった)という場所を眺めたのだが、そこはただの大水田地帯で、数軒の家と、アヒル小屋があった。視界の届く限り水田が広がっていた。1995年にまたその丘に登ってみると、ビルだらけで、もちろん水田などすっかり消えていた。上海や北京も大きく変貌したのだが、もともと大都市だから、ガラス張りの超高層ビルが建っても、かつての面影はどこかに残っているのだが、純農村が高層ビル街になってしまうと、水田地帯の面影などすっかり消えている。

 マカオに初めて行ったのは、香港よりだいぶ遅かった。80年代に入っていたと思う。橋を見ると歩いて渡りたくなるタチの私は、マカオ半島タイパ島を結ぶ澳氹大橋(Macau-Taipa Bridge)にも足を進めたのだが、太鼓橋のこの橋は長いうえに登りがきつい。のちに地図で見ると4キロ以上はありそうな橋だった。タイパ島の南にコロネア島とも橋でつながっているのだが、もはや歩く元気はなく、バスでコロネア島に行き、帰路もバスでマカオの街に戻った。

 この文章を書くためにマカオの地図を見たら、あの橋は1990年に新澳氹大橋あるいは澳門友誼大橋という橋に架け代わっているだけでなく、タイパ島とコロネア島の間は埋め立てられていた。島に橋がかかるというのはよくあることだが、島と島の間を埋め立てて合体させるという変化はそうないだろう。

 マカオと中国の国境検問所は、建物は同じだった。80年代初めは、門の外に見える中国は農村だったのだが、95年には背後に建物ができて、「中国」は見えなかった。

 今思い出したのだが、中国に行こうかと考えたことが1度だけあった。台湾の旅行事情を調べていたら、台湾と中国の間に何本もの航路があることがわかった。台湾から中国福建省廈門市(アモイ)にも行ける。アモイならおもしろそうで、一度大陸に渡ってしまえば、香港にも行けるし、雲南省まで行き、東南アジアへ南下できる。北上してロシア経由ヨーロッパとまでは考えなくても、雲南省ルートはおもしろいかなと昆明の現在をネットで見ると、高層ビルばかりで、おもしろそうじゃない。中国の旅は、「時、すでに遅し」との戦いでもある。

 

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そういえば、ベトナムから中国を眺めたこともあったなあ。2014年

1483話 『失われた旅を求めて』読書ノート 第1回

 

 中国 その1

 

 予想外にインド食文化話が長引いて、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんの最新作『失われた旅を求めて』(旅行人)にまつわる話をするのが遅くなった。私好みのインド本である名作『つい昨日のインド 1968~1988』(渡辺建夫、木犀社、2004)のような本を蔵前さんにも書いてほしいと以前から思っている。インドと日本と、その間にいる自分の40年史なのだが、彼は書く気はなさそうだ。しかし、最新刊『失われた旅を求めて』(相変わらず、もじりのタイトルが好きらしい)では、変わるインドと変わらないインドの話を、ほんの少し書いている。その100倍ほどの文章を読みたいのだ。

 この本は、1980年代から90年代に蔵前さんの前に現れた世界を写し取った映像集だ。勝手に想像すると、80年代の旅は彼にとって「だいぶ前の旅」,90年代は「ちょっと前の旅」という感覚ではないか。もうひとつ、勝手に想像すると、かつて雑誌「旅行人」に出てきた彼の写真とは雰囲気が全く違い、画像がノスタルジーにあふれているのは、ポジフィルムをスキャンしたせいばかりではなく、ブックデザイナーでもある師のアートワークの効果ではないか。そのせいで、「昔の旅」感は深まる。

 まあ、確かに、昔の旅だ。彼が初めて中国に行った1983年に20歳の大学生だった若者は、現在57歳だ。結婚が早ければ孫がいる年齢なのだから、今の若者からすれば、この本で扱った蔵前さんの旅は、long long agoとか、once upon a timeと言いたくなる昔なのだろう。そういうことは算数の世界では理解できても、若くはない私には感覚的にはよくわからない。蔵前さんが海外旅行を始めてから40年を超え、私の場合は1973年からだから、そろそろ50年近くにもなる。しかし、ふたりとも、過去の思い出の旅の中だけで生きているわけではなく、今も継続している道楽だから、単なる昔語りではない。

 もう10年くらい前からだろうか、自分が旅した土地が、その後劇的に変化したしたのはどこだろうかと考えることが、時々ある。

 「変わったといえば、そりゃ、中国だろう」という意見が、多数の支持を受けるだろうが、私は中国に行ったことがない。「行ってみたい」と思ったことはないが、「行っておけばよかった」と思うことがある。長くなりそうだが、その話から始めようか。

 あれは、1970年代の後半だったと思う。羽田空港からどこかに行く時だった。機内で読んだ新聞に、母が学んだ上海の女学校の同窓会の記事が出ていた。母から同窓会の話を聞いたことがなかったので、連絡先などをメモして、旅先から手紙で知らせた。それがきっかけで、母は1930年代に別れ別れになった級友たちと、1970年代末に再会することができた。そして、同窓生の間から「あの上海に、また行ってみよう」という話が持ち上がった。当時はまだ中国観光旅行が自由にできない時代で、日中友好団体の旅という体裁で、級友にして旧友たちと懐かしの上海に行った。

 戦後最初の上海旅行は、制約の多い団体旅行だったが、その後比較的自由に旅行ができるようになって、2度目の旅は上海生まれの妹も誘い、昔住んでいた家を見に行った。家庭内でいろいろ問題があった祖父は、薬科学校時代の親友である元中国人留学生の招きで、生まれて間もない母を連れて上海に渡り、薬局を営んだ。母の妹ふたりは、その上海で生まれた。

 どうやって連絡を取ったのかわからないが、祖父が営む薬局で店員をしていた少年が今も旧居近くに住んでいることがわかり、再会した。しかし、1980年代前半は、まだ政治的に難しい時代だった。外国人と交流のある中国人は要注意人物とされ、物品の受領には報告の義務があったという。だから、手渡すお土産にも細心の注意が必要だったらしい。

 店員だったかつての少年は、日本語の会話はもちろん読み書きも自由にこなせたので、母や母の妹たちによく手紙をくれた。年金生活に入り、釣りを楽しみにしていると手紙にあり、釣り道具を送ってほしいという手紙が来ると、釣りのことなど何も知らない私は、その手紙を釣具店に持っていって、少し多めに買い、上海に送った。そのお礼ということで、月餅を送ってくれたのだが、あれほどうまい月餅を食べたことがない。横浜やバンコクの中華街で月餅を探しまくったが、レベルがまったく違った。高級月餅は上海でもかなり高価だったはずだ。

 あるときの上海からの手紙で、母の一家が暮らしていた家一帯が取り壊されることになったから、その前に見ておくなら今ですというものだった。時代はもう、中国人との交流が基本的には制限されることはなかったので、母のノスタルジーの旅は間に合った。その旅に姉は同行したのだが、私は「中国に行くカネがあれば、ほかの国に行ったほうがいい」と思っていたので、行く気はなかった。それが、今、悔やまれる。蔵前さんが行った時代よりもややあとだが、まだ路上に外国人がいると人が集まり、じろじろ見られ、その人々はまだ人民服(正確には中山服)を着ていたと、21世紀の上海をテレビで見ていた母と姉は、「上海は変わったねえ」とよく言っていた。

 祖父の薬局があったあたりは、内山書店があり、金子光晴たち文学者のたまり場があったそうで、テレビ番組でしばしば紹介されていた。インターネットの時代に入り、その薬局のことを調べてみると、上海市の歴史資料に、戦前期の日本人経営の薬局と昔の資料があった。元薬局があったあたりの風景を見たいと思ったが、中国政府はgoogleを排除しているので、ストリートマップは、ない。工夫をすれば見ることができる画像があるのかもしれないが、努力することはない。

 

1482話 続編『食べ歩くインド』読書ノート その3(最終話)

 パソコンは3年前に買い替えたのだが、officeは2007年版のままで、不具合が起きてきた。そこで、office最新版を入れようと思ったのだが、アマゾンで3万円ほどするのは知っている。「Excelは使わないから、高すぎるようなあ」と思いつつ、DELLのホームページを見たら、office付きのパソコンが48000円(本体のみ・キーボード&マウス付き。税別・送料込み)で売っている。ということは、パソコン代は18000円ということだから、即座に購入を決定。プリンターのインクが4800円。インクが付いたプリンターが6800円というのにも似て、「なんだかなあ」の気分である。今回から、その新しいパソコンで文章を書く。

 さて、『13億人のトイレ』の話の続きだ。

 この本を読んでいて、カーストに関することをふたつ思い出した。

あれは、初めてインドに行った直後だったか直前だったか、私がまだ20歳そこそこだったころ、小西正捷(こにし・まさとし。当時法政大学の助教授か教授だった)さんの講演を聞いた。カーストは差別の存在だという面はもちろんあるが、職能集団としての権利保護という面もあるのだという話を覚えている。別のカーストからの新規参入がないから、特定の職業が保証されているという面もありますよ、という話だった。カーストのそういう側面の話を聞いたことがなく、その後カーストの勉強をしていないので、今でもその話を覚えている。

もうひとつの話。

 ヒンドゥー教に関する著作があり、テレビ出演もしている有名な僧侶に、『13億人のトイレ』の著者が、カーストについてインタビューしている。僧侶は、こう語る。糞尿処理をするカースト最下層のダリットを差別することは許されないが、ただ区別しているだけだ。この論理をいままでしばしば耳に目にしている。

 1960年代のアメリカで、学校が黒人用と白人用に分かれている州があって、黒人は白人専用大学への入学が許されなかった。教育の差別撤廃を訴えた人たちに対して、政治家たち(もちろん白人)は、「別学は差別ではなく、区別だ」といった。アメリカに差別はない、区別があるだけだという論理だ。

 こういう論法を日本で聞いたのは、ある女子大の教授に、「性によって入学者を差別している女子大って、何でしょうねえ」と私が言うと、「差別ではなく、区別です」と答えた。「あらゆる性差別を許さない」などといい、ジェンダー研究をしているという女子大とその教授たちの発言を、私は一切信用しない。

 もし誰かが、「国公立女子校は性差別している」と訴えて裁判になれば、たぶん勝てないだろう。しかし、誰も訴えないので、今も国公立女子校が存続しているだけなのだ。

 

 以上で、長々と書いてきたインドの話を終える。このふた月ほどを楽しく過ごせた。今まで忘れていたインドを思い出した。ネットの動画を見て、すっかり変わった今のインドを見た。私の知っているインドは40年以上前なのだから、そりゃ、変わるわけだ。『変わらないインド 変わったインド』といった本を書いてよと、天下のクラマエ師にお願いしているが、書く気はないらしいというのが、次回からの連載に関係する予告だ。

 

1481話 続編『食べ歩くインド』読書ノート その2

 

 

 水田耕作は、水が養分を運んでくれるから、大収量をめざさなければ、肥料はなくてもコメの栽培はできる。水田ではなく、畑の栽培は、肥料が必要だ。地味が肥えていれば、肥料なしでも栽培できるが、すぐに養分はなくなる。焼き畑というのは、山の草や木を燃やして、灰を肥料にする農業だから、何年かたてば、別の山を焼かないといけない。

 トイレや肥料のことなどまったく意識せずに読んだのが、『サツマイモの世界 世界のさつまいも』(山川理、現代書館、2017)だ。私は、日本語なら『〇〇大全』、英語なら“All About 〇〇”といった本が好きだ。これ一冊で、すべてがわかるといった本だ。サツマイモに関するこの本では、「世界のサツマイモ」が気になって買ったのだが、通販だから内容がよくわからず買ったせいで、残念ながら世界のサツマイモ利用の記述は極めて少ない。しかし、サツマイモそのものに関する情報は当然多い。

 この本を読んでわかったのは、サツマイモは自家用程度なら肥料がいらないらしい。イモを収穫した後、ツルや葉を土にすきこんでおけば、いずれ肥料になる。サツマイモは連作障害もないから、毎年同じ畑でサツマイモができる。その畑で麦を栽培しようとすると、肥料不足で育たない。ムギなどさまざま植物にはアレルギーを起こす物質があるのだが、サツマイモはアレルギーを起こさない。食糧危機が起きても、日本ではサツマイモさえ栽培すれば生きていけるなどと、サツマイモのすばらしさを列挙してあるのだが、へそ曲がりの私は、「それなら、なぜジャガイモほど消費されないのか」と聞きたくなる。

 話をインドに戻す。インド人がサツマイモばかり食べているなら、肥料の心配はないだろうが、人糞はゴミだから捨て、家畜の糞は燃料などさまざまに利用する。肥料分はどれだけ残るだろうか。次の動画は(2:28あたりから)、パキスタンで牛糞を肥料に使っていることがわかるが、数百年前もこのように牛糞を肥料にしていたのかどうか、きちんと勉強しないと何とも言えない。

 インドのトイレを考えるということは、農業や食文化史も合わせて考えるということだ。東南アジアの食文化を書いた拙著『東南アジアの日常茶飯』(1988)の最終章でトイレを取り上げたのはそういう意味があってのことなのだが、残念ながらその構想を理解してくれた人はほとんどいない。

 『13億人のトイレ』は宗教や政治からトイレを取り上げた本だが、インドのトイレがどういう構造になっているのかという基礎学習が欠けていると思う。だから、トイレ建設・維持管理といった問題が、具体的に見えてこないのだ。

 「地下のタンクに」という記述がある。これが、日本のくみ取り式トイレなら、不思議はない。しかし、用便後水で処理するインドでは、タンクはたちまち満杯になる。

 日本のトイレは、貯蔵後汲み取る方式が長く続いた。そのあとは浄化槽方式だ。トイレから家庭の地下に埋めた浄化槽に流れ込んだ糞尿は、微生物の力で浄化し、下水に流す方式だ。そして、水洗トイレは、家庭のすべての汚水が公共下水道に流れるシステムだ。

 さて、ここで問題になるのは、上下水道の設備がない場所のトイレはどうなるかということだ。インドやアフリカに限らず、アメリカやオーストラリアの砂漠の家でも、上下水道などない。

 映画「バグダットカフェ」には、給水塔にペンキを塗っているシーンがある。水は地下水を組み上げて使っていることがわかる。では、下水はどうしているのか。タイのトイレの構造を調べていて、アメリカの砂漠の家も同じだとわかった。浸潤式トイレを作っているのだ。作り方は井戸を掘るのと同じだ。地面に穴を掘り、コンクリートの管を埋めて、土が崩れないようにする。この穴の底は土のままで手を加えず、コンクリートの管には穴がいくつもあいているから、トイレで流した水分は地中に染み込み、固形物だけが底に残る。バンコクでは、数年に一度バキューム車が来て、固形物を収集してもらうという。これで、しばらくは「水洗便所」としてキレイ使える。

 こういうトイレ設備にはカネがかるが、農村なら家の敷地かその辺に、穴を掘れば、昔の日本のトイレができる。簡単な屋根があればいい。だから、「カネがないからトイレがない」というよりも、「家のトイレがきらいだから、その辺で用を足す」という意識の問題だということになる。

 インドは、科学的な衛生や利便性や安全性などよりも、宗教的不浄感が優先する世界なのだ。

 

1480話 続編『食べ歩くインド』読書ノート その1

 

 

 インドの食文化の話は前回で一応終わったが、付随する話を書いておきたくなった。

 『食べ歩くインド』のあと読んだのが、共同通信社記者が書いた『13億人のトイレ』 (佐藤大介、角川新書、2020)だった。インドで食べる話を書きながら、出す話を読んでいたというわけだ。第三世界のトイレ問題は、貧困と衛生が大テーマなのだが、この本の主たるテーマは、「インドのトイレとカースト」である。

 第三世界に住む多くの人が戸外で用を足しているのは貧困が原因だと説明されていて、私もなんとなく「そういうことだろう」と信じていたのだが、よく考えてみると、「違うなあ」と思う。根拠はふたつある。ひとつはこの新書の著者佐藤氏の調査と考察によるものであり、もうひとつの根拠は私の意見だ。

 インドでは、トイレの数よりも携帯電話の数の方が多いという。政府はトイレを増やそうとしているが、それほど普及しない。政治の腐敗という原因もある。トイレ建設補助金汚職があるが、それ以前に問題なのは、ヒンドゥー教徒たちの「淨・不浄」の考え方だ。体内から出たものはすべて不浄として体から遠ざけるのが正しいと考えている。だから、自宅や自宅のすぐそばにトイレは絶対に作らないという信仰だ。大都市の水洗便所ならば、不浄な物体はすぐに遠くに消えるからいいのだが、貯蔵方式は許さない。だから、住民がトイレに反対しているのだ。これは、カーストにも関連している。糞尿処理に関わるカーストは決まっているから、それ以外のカーストの者が、それが例え自分の家族の糞尿であれ、自分で処理することに心理的抵抗がある。そういう問題があるのだから、戸外で用を足した方がいいと考える人が、特に男に多いというわけだ。

 「貧困ゆえに、トイレはない」という説を「違うなあ」と気がついたのは、日本の歴史を考えていたからだ。たとえば江戸時代の農村、貧農の家にトイレはなかったか、江戸の長屋にトイレはなかったか。あったのだ。同じ時代のヨーロッパに、トイレはない。オマルを使っていたのだ。つまり、経済力とトイレを直接結びつけて、「貧困ゆえに、トイレがない」と結論づけてはいけないというわけだ。

 古くから日本にトイレがあったのは、人糞を肥料として使っていたからだ。中国や朝鮮では日本ほどトイレは普及していないが、それはオマルの文化があり、糞尿は一か所にまとめられて、のちに肥料になる。つまり、農業に人糞を使う文化圏は、糞尿を汚いものだとは思っても、重要な物質だと考えていた。川に流すなど、もってのほかなのだ。日本では、鎌倉時代から農業生産力が急に向上した理由は、人糞を肥料に使い始めたからだ。

 西洋では三圃式(さんぽしき)農業があった。放牧地と農地を3地区に分けて利用することで、家畜の糞尿が畑の肥料になるという方式だ。だから、西洋では「家畜の糞尿は肥料だが、人糞は処理すべきゴミだったのである」と認識していた。人糞肥料を使ってきたのは東アジアだけだと思っていたのだが、いえいえ、ヨーロッパでも中世から使っていましたよという論文を読んでびっくりした。night soil、直訳すれば「夜の土」は「人糞、下肥」の婉曲語だと知り、「night soil」や「ナイトソイル」で検索すると、情報がいくら出てくる。「ヨーロッパのトイレ」と言えば、「ベルサイ宮殿にはトイレがなかった」とか「オマルの汚物を路上にぶちまけた」という話だけがおもしろおかしく語られるが、そういう資料に下肥は出てこない。研究の浅さを痛感する。

 インドでは、人間の糞尿は不浄とされ、カースト最下層のダリットと呼ばれる人たちが糞尿処理に関わるとされている。ところが、牛の糞は、水を加えて床や壁に塗り込んだり(ほこり除けや虫除けなどの効果があると信じられている)、乾燥させて燃料にする。牛は神聖だから、その糞尿も人糞とは違い「神聖」ということなのだ。不浄である人糞は、農地にまくなどという行為は当然しない。農業に肥料を使わないようなのだ。信仰は、科学では割り切れないのだ。

 『食べ歩くインド』で、菜食の話が出てきたが、肥料なしで、何をどうやって栽培してきたのかという農業史の話をしないと、インド食文化史の話は完結しないのだ。だから、食文化の話の続きに、トイレの話を持ってきたのだ。食べる話と出す話は深い関係にあるのだ。