1529話 本の話 第13回

 

 『とっておき インド花綴り』(西岡直樹、木犀社) その5

 

 クズイモは、不可思議な植物だ。この本では、お供え物の果物のなかに、このクズイモがあったという話を書いている。クズイモを初めて見たのはタイの市場だが、もちろんそのときはこの植物の名も正体も知らない。植物学者吉田よし子さんの本のどれかで、マメ科のこの植物は生で食べるということを知った。

 初めは土色のカブのように見えた。近づくと、イモだとわかった。生で食べると知って、市場で1個だけ買い、皮をむいて食べてみた。食感も味も、あまり甘くないナシだ。この本で、ワインレッドの花を咲かせると知った。

 ウィキペディアで「ヒカマ」という和名があることを初めて知った。

 この本には、私があまり好きではない果物がふたつ紹介されている。ひとつは、ゴレンシ(カタバミ科)である。英語名はスター・フルーツ。インドでは砂糖漬けにするようだが、「ゴレンシはそのままでも食べられる。汁気があって、さくさくして少し酸っぱく、ほのかに甘い。香水のようなよい香りがする」と書く。私があまり好きではない理由はそこに書いてあるように、甘味も香りも微弱で、唯一の長所は、輪切りにすると星形になるという形にある。タイではマファンと呼び、果物の盛り合わせに入っているが、それはやはり星形という形を利用した「飾り」としての役割だろう。

 このゴレンシで、銅や真鍮を磨くとピカピカになると、この本にある。

 もうひとつの果物は、レンブ(フトモモ科)だ。西岡さんが初めてこの果物を食べた時の感想は、これだ。

 「(食べてみようかなという)期待を裏切るような、すかすかしたなんとも食べ応えのない感じは、今も頭に残っている。甘くもないし、酸っぱくもない」

 私の感想も同じで、だから二度と食べていないのだが、西岡さんは「なにかさっぱりした物を食べたいと思うときに」食べるようになったそうだが、インドの子供たちは、この果実を好んで食べるわけではないと書いている。

 そもそも、レンブという名は、なんだ? 漢字では「蓮霧」で、これが中国語なのだが、これで「レンブ」とは読まない。調べてみると、元はマレー語のjambuが台湾に渡り、漢字では「蓮霧」だが、台湾語の発音が「lian bu」に変わり、日本でレンブとなったようだ。

 タイ語ではチョンプーという。シー・チョンプー、つまりチョンプー色とはピンクのことだ。実際のチョンプーは、白や薄緑もあるが、圧倒的に赤が多く、私の推測だが、マファン(ゴレンシ)と同じように、風味よりもあでやかな容姿が生存理由だろうと思う。

 ザクロの種は香辛料になるとか、皮や樹皮は染料や薬用に利用されるといった雑学も得た。この本ではザクロはザクロ科としているが、ウィキペディアではミソハギ科に分類している。さらに調べると、ザクロ科としている資料も多くあり、エングラー分類体系とかAPG分類体系といった私がまったく知らない植物分類の問題ということらしく、こうなると素人には手に負えない。

 

 

1528話 本の話 第12回

 

 『とっておき インド花綴り』(西岡直樹、木犀社) その4

 

 ニガウリの品種はいくつもあり、緑のものが多いが、白いものもある。日本で出回っているイボイボだらけのニガウリと違い、表面がツルツルなものがあり、マラ・チーン(中国ニガウリ)というという話はすでにした。この種のニガウリは、輪切りにして、種とワタの部分を取り除いて、ひき肉を詰めて、スープにする。こうすると、スープにも苦味が出る。

 ニガウリといえば日本で見かけるサイズのものが一般的だが、ニワトリのタマゴ大のものもある。大きいものほどは利用されていない。どこかで聞いたのだが、この小型のニガウリは野生種で、苦味がより強いという。この小型ニガウリがインドにもあるということは、その広がりはわからないが、インドにも苦味を求める人たちが少なからずいるということだ。食文化研究のなかで、甘味や辛味の研究は進んでいるのだが、コーヒーなど嗜好品以外で苦味を好む人たちの広がりの研究はまだないのかもしれない。

 インドには、ニガウリなど足元にも及ばない強烈に苦い植物があるという話が156ページにある。

 「インドセンダン(ニーム)の葉は苦いことで有名だが、センシンレンの葉はその何倍も苦い。長さ4センチメートルほどの小さな葉っぱでさえ、あまりに苦くて1枚を全部食べることができない」

 そのくらい苦味が強いので食用にはせず、「その苦い葉を摘んでアヨワン(セリ科の香料)といっしょにすりつぶし、小さく丸めて乾かし、丸薬に」するという。消化不良用の常備薬だという。

 ネットでセンシンレンを調べてみると、漢方では有名な薬草のようで、ウィキペディアにも見出し語で載っている。漢字では「穿心蓮」と書くようだ。このウィキの文章を読むと、「インドではking of bitter『苦味の王様』といわれている」とか、「地球の胆汁と呼ばれることもある」といった文章があり、苦味の強烈さがうかがえる。

 センシンレンは、タイやインドネシアでも薬用に利用されているという記述を見つけた。タイの食文化研究のために植物関連資料を買い集め、そのなかに薬用植物事典もあるのだが、食い物じゃないとわかると途端に調査意欲が減退して、資料が本棚から出ることもなく、宝の持ち腐れになっている。今も、さらなる調査をする気はない。

 私は、コーヒーや茶やチョコレート以外の苦味が好きではないので忘れていたのだが、にが茶というのがあったことを思い出した。この茶の原料を調べてみたら、タラヨウ(モチノキ科)の近種だという。「ものは試しに」と、もらったものをちょっと飲んだことがあるが、罰ゲーム用の飲み物だった。

 飲み物と言えば、タイ人もインド人も、苦味がある料理は大好きなのに、苦い飲み物はビール以外嫌いらしい。甘くない飲み物は口にできないだろうという気がする。砂糖なしのコーヒーや紅茶は論外で、苦い飲み物は薬草だと認識しないと口に運べないようだ。

 

ベトナム研究者の中野亜里(大東文化大学教授)さんが亡くなった。まだ60歳だった。初めて会ったのはもう20年以上前だ。中野さんが講師の勉強会で、10人ほどの出席者のなかに、本多勝一氏もいた。当時の中野さんは様々な大学で非常勤講師を掛け持ちしていて、その日程を聞いただけで卒倒しそうなほど多忙だった。コロナ禍以前は毎月行なわれていたアジアの勉強会で、よく顔を合わせていた。私はベトナムに格別強い興味はないので、深い話はしたことはなかったが、チェコベトナム移民の話や、映画にもなっている韓国のベトナム花嫁の話などをした。気鋭の研究者を亡くしたのは、なんとも残念である。

このコラムの今年最初の文章をこう書いた。

「今年もまた、いつものようにコラムを書いていけることの幸せを感じつつ、書き始めます」

最近、人の命のはかなさを強く感じるようになって、こんなコラムでも、ノンキに書いていられることの幸せを痛感しているのである。

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1527話 本の話 第11回

 

 『とっておき インド花綴り』(西岡直樹、木犀社) その3

 

 ニワトリのタマゴくらいのニガウリは、「マラ・キーノック」という。「トリの糞ニガウリ」という意味だ。小さなトウガラシは、「プリック・キーヌー」といい、「ネズミの糞トウガラシ」という意味だ。タイ語をちょっと学ぶと、タイ人がいかにキー(クソ)が大好きかよくわかる。

 実は、キーという語は「クソ」という意味を離れて、日本語では人の性格などを表す「~屋」、「~虫」、「~っぽい」といったニュアンスを表す。

 例えば、キー・ローン(泣くクソ)とは、「泣き虫」のこと。キー・ニャオ(粘るクソ)は「ケチ」、キー・ナーオ(寒いクソ)は「寒がり」、キー・マオ(酔うクソ)は「酔っ払い、酒飲み」など、日常的によく使う。

 実は、一部のタイ人は苦味調味料としてクソを食う。アフリカでは知らずに、腸の内容物入り焼肉を食べたことがある。肛門から出ればクソになる一歩手前の、消化液である苦い胆汁がたっぷり入ったものを調味料として使う。そうとは知らずに食べて、苦い肉に驚いた。石毛直道さんのエッセイに、アフリカで腸の内容物入りの料理を食べたという話があったのを思い出した。

 タイ人も胆汁を調味料に使うという話は活字では知っていた。バンコク在住の友人が、「あらゆる肉料理ができる店があるよ」というので、その肉料理専門店に案内してもらった。「胆汁入りの料理はできる?」と聞いたら、店主がいとも簡単に「できるよ」。テーブルに登場したのは、焼いた牛肉をヤム(和え物)にした料理で、思ったほどは苦くなかった。量を加減したのだろうか。

 そういう料理は、日本語ではココに情報があるし、タイ語อุเพี้ยで検索すれがタイ語の情報がいくらでも出てくる(翻訳すれば、日本語の大意はつかめる)。この動画の1分40秒ほどのところと、「ウピア」といって紹介している液体がそれだ。「クソだ」と解説している。

 こちらの動画は、英語だから、POOP SOUP(うんちスープ)の作り方がよくわかる。10分過ぎあたりから詳しくわかる。腸や胆嚢の「内容物」を利用している。同じシリーズの動画で、フィリピンの「うんちスープ」も紹介している。10分過ぎに登場する。さらに調べると、ベトナムにも「うんちスープ」があることがわかった。ヤギの腸の内容物も調味料にしていることがよくわかる。この動画の5分20秒あたりから。料理をしているのはベトナム少数民族のような気がするが、どうなんだろう。胆嚢は、このブログで紹介しているような形だから、動画の内臓は胆嚢ではなく腸だろう。

 タイ語で胆汁は「ナム・ディー」というのだが、タイ語の料理動画を見ていると、「ウピアを入れます」と言って入れている液体は、胆汁にまみれた糞だろう。タイの調味料であるパー・ラーあるいはパー・デークと呼ばれる液体状塩辛とこのウピアはよく似た外見だが、当然別物だ。

 「動物の書き声以外すべて食べる」という広東人も、家畜のすべての部位も血も口にするモンゴル民族も胆嚢は捨てる。西洋人も、捨てる。しかし、タイ人やラオス人そして雲南タイ族は、胆嚢(か、胆汁)を調味料として使う。強烈な苦味が大好きなのだ。苦味が好きなインド人は、はたして胆汁を利用するのか。その答えを知らない。

 期せずして、胆汁の話が長くなった。話が途中までだった小粒のニガウリの話は、次回に。

 

 

1526話 本の話 第10回

 

『とっておき インド花綴り』(西岡直樹、木犀社) その2

 

 ギマ・シャーク(ザクロソウ科)は苦くてうまいと書く。消化促進、整腸作用もあるという。

 「ベンガルには、苦みを楽しむ野菜がとても多い。ニーム(インドセンダン)、ニガウリ、実が三、四センチメートルくらいしかない小粒のニガウリのウッチュなどがある(ニガウリに関する記述は、『続・インド花綴り』がもっと詳しい)。

 タイ料理を、「辛くて、塩辛くて、甘くて、酸っぱいが合体した料理」だと説明する人は、偉そうな言い方になってしまうが、「入門編初心者コース在学中」と言っていいだろう。「すべて」ではなくても、「大半のタイ料理」が、辛味・塩味・甘味・酸味が合体したものではない。辛味のない料理もあるし、酸味のない料理もある。

 英語のメニューがあるバンコクタイ料理店を離れて、市場の脇の路上の飯屋や家庭料理に出会えば、強烈な苦みや渋味を体験することになるだろう。「タイ人は、強烈な苦味が好き」ということはわかっていたが、ベンガル人(西岡さんは、周到に「インド人は」という表現を避けている)もまた、苦味が大好きだということをこの本で知った。

 ニーム(インドセンダン)は、タイ語でサダオという。苦い野菜だという知識と写真で姿は知っていたが、食べたことはなかった。ある年のこと、陸路でマレーシアに行こうと、国境の街サダオにいた。その街の名がこの苦い野菜の名と同じだということはすでに知っていた。サダオの街の市場を歩いていると、ゆでたサダオを売っているのを見つけた。ここで会ったが百年目、ゴザを前にしたおばちゃんに、「一本ちょうだい」といって、枝を1本もらった。サダオは遠目にはワラビのような姿で売っている。草ではなく、木の枝先だ。

 ゆでたサダオの枝の、破片くらいの葉を口に含んだだけで、声をあげたくなるほど苦かった。私はもともとニガウリも大嫌いだから、サダオは土台無理だ。市場のおばちゃんたちは、外国人にサダオが食べられるわけはないと思っているから、私の試食行動に注目し、爆笑した。「ねえ、ほら、いわないこっちゃない」とでも言いたそうな笑いだった。

 「小粒のニガウリ、ウッチュ」もタイにある。日本人にもおなじみのニガウリは「マラ」といい、表面がつるつるのものを、「マラ・チーン」(中国ニガウリ)というから、この単語を学んだ日本人はちょっと下を向いてしまう。

 ここでちょっとタイ語ミニ講座を。植物名につく「マ」は、実を表す。元は「〇〇の実」という意味の語が、植物名になったものが多い。例えば、マラコー(パパイヤ)、マプラーオ(ココヤシの実)、マナーオ(ライム)、マムアン(マンゴー)、マカーム(タマリンド)などいくらでもある。マコークは、ニワトリのタマゴくらいの実で、コーク(ウルシ科)の実という意味だ。和名はアムラタマゴノキ。コークの木が茂る水辺の村がバーン・コークで、これがバンコクの語源である。

 タイ語ミニ講座と苦味とクソを食う話は次回に。

 

1525話 本の話 第9回

 

 『とっておき インド花綴り』(西岡直樹、木犀社) その1

 

 今年もまた、いつものようにコラムを書いていけることの幸せを感じつつ、書き始めます。

 

 私のインド知識は無に等しいし、関心もそれほど強くない。しかし、西岡直樹さんの本を何冊か読んでいる人となら、楽しい旅の話ができるような気がする。

 木犀社(もくせいしゃ)から出ている西岡さんの「インド花綴り」シリーズは、1988年の『インド花綴り 印度植物誌』が最初だった。菊池信義さんの美しい造本で、すぐさま買って読んだ。愛読書になった。今、この本をアマゾンで調べると、最低価格でも4800円もしている。続編の『続インド花綴り 印度植物誌』が出たのは1991年だった。その後、正続2冊を合わせて加筆して、『定本 インド花綴り』(2002)となって出版された。このほかにも、西岡さんの本は何冊か読んでいる。インドへの興味からではなく、西岡さんの文章と植物画が素晴らしいからだ。

 西岡さんの文章は、文章家として味わい深いというだけでなく、植物学に関する確かな知識に裏付けされたものだから、資料にもなる。西岡さんの手による絵も、単なる「雰囲気の挿画」ではなく、植物の知識があって初めて描ける植物図鑑の絵なのだ。

 そして、2020年、『とっておき インド花綴り』が出た。元になった原稿は、月刊誌「インド通信」に連載した「インドの植物」である。この本の巻末の「参考文献」ページに載っている日本語文献をざっと眺めると、21点のうち半分くらいは私も持っている。『週刊朝日百科 世界の植物』(全146巻)をはじめ、農林省熱帯農業研究センターの『東南アジアの果実』や『熱帯の有用植物』、そしてこのコラムでもたびたび引用している『世界有用植物事典』(平凡社)などだ。

 よく手にしている植物の本が重なっているからと言って、西岡さんと私の興味の方向が重なっているというわけではない。この本は、「植物の知名度や重要性とは無関係」に、「思いつくままに綴ったもの」だというのが、西岡さんの基本方針だった。私はといえば、植物に興味を持った当初は「食える植物」にしか興味はなく、その後次第に、繊維や薬用など利用できる植物に興味が広がっていったのだが、基本はやはり有用植物だ。「ただの花」にも目が行くようになったのはここ10年ほどだろうか。ランタナカランコエなどは、旅先で見た花に日本の園芸店で再会し、「ああ、これか」と花の名を知り、鉢植えを窓辺に置きたくたった。

 だから、私が読みたい植物の本は穀類であり野菜であり果物であり海藻類などだが、そういう植物はいままでの『インド花綴り』では後回しになっていたので、今回の『とっておき』では私の関心分野に少し近づいたようだ。具体的にどういう植物をとりあげているのか 、いちいち書き出すときりがない。アマゾンのこの本のページには目次は出していないので、この目次を紹介しておく。

 「インド藍2種」の項を読む。藍染めの過程はテレビで何度も見ているから、植物のアイの栽培から、染め上がるまでのことを少しは知っていると思っていたのだが、私は何も知らなかった。日本人が藍と呼んでいるタデ科の植物が、すなわち藍染のアイだと思っていたのだが・・・。

 「インディゴを含む含藍植物は意外と多く、世界に多数あるが、古くからインドで栽培されてきた通称インド藍と呼ばれるマメ科コマツナギ属の木本はとくにインディゴの含有量が多い」

 インディゴは藍色の染料で、世界的にはコマツナギ属を使ったものが主流で、かつてはこの植物から染料を取っていたが、栽培や製造のコストや管理が大変なので、現在では工業的に製造した染料を使っているようだ。したがって、現在ではインディゴの合成染料を使ったものを「インディゴ染め」と呼び、タデ科のアイを使ったものを「藍染め」と呼び分けていると、ネット辞典の『実用日本語表現辞典』にある。

 西岡さんが紹介している「インド藍2種」とは、いずれもコマツナギ属の植物だが、ほかにもアブラナ科やキツネノマゴ科の植物を原料にするものがあると筆が進む。「インド藍2種」はわずか9ページの文章だが、調べながら読んだから時間がかかった。染物にかかわっている人には常識中の常識だろうが、私には知らないことばかりだ。これを別な観点で言うと、有用作物には資料が多いということだ。調べる気があれば、いくらでも情報がある。インド、藍、東インド会社アメリカのプランテーションという単語で、インドの近代史を語ることができる。そういう調査を始めれば、綿や胡椒などと同じように何週間でも遊べる。。

 ちなみに、キツネノマゴという名がおもしろいので、どういういきさつで命名されたのか知りたくなった。15分ほど調べてみたが、どうやら「由来は不明」が正解らしい。こういう本の読み方をするので、時速1ページだったりするのだ。

  

1524話 特別編 年末年始

 

 今回で、2020年の最後になる。調べてみると、今年は160話くらい書いたようで、400字詰め原稿用紙にして1000枚ほど書いたことになるらしい。新書4冊分くらいになる原稿量だから、いかにヒマだったかよくわかる。

 連載している「本の話」はまだまだ続くのだが、立花隆の本の話が終わり、大晦日になったので、特別編として「時節柄」の話をはさんでおこう。

 今年の春ごろは、「秋になれば、旅に行くことも可能かもしれない」などと、根拠のない楽観をしていたのだが、こんなに長くなるとは思わなかった。京大の山中伸弥教授は「コロナ禍以前に完全に戻ることがあるとは思わない方がいい。『だいぶ良くなったという事態』まで、早くても3~4年はかかるでしょう」と言っていて、自分の旅のスタイルと自分の年齢を考えると明るい未来は見えない。

                                             ☆

 コロナ禍で、上京したのはこのコラムで書いたようにたった1回だけだった。ということはブックオフ以外の本屋やCDショップに立ち寄ったのは1度だけだったということになる。近所の図書館は21年春まで1年ほどの改装工事をやっていて利用できないから、高額図書を読みに図書館に行くこともできないでいる。

 本はもっぱらアマゾンで買った。旅に出ないのだから、いつもより多くの本を読んだだろうと思うかもしれないが、旅に出なかったので読書の刺激がなくなり、あるテーマで徹底的に本を読むことはなかった。今や年寄りの趣味となったCDは、例年以上に多く買い込んだ。そのせいでもないだろうが、CDプレーヤーの調子が悪くなり、「買いなおすか」と情報をネットで調べた。CDそのものが老人趣味になってしまったのだから、CDプレーヤーも老人しか買わないオーディオ機器になったようで、ポータブル型以外の商品点数が少ない。ラジオで、若手アナウンサーが「CDを買ったことがないなあ」といい、その放送を聞いていた大学生が、「CDというものを見たことがない」というコメントを番組に送った。そういう時代なのだ。

 携帯電話、二層式洗濯機、CDプレーヤー、携帯ラジオ、携帯オーディオ(ウォークマン)・・・。はい、ワタシ、全部持ってます。

                 ☆

 私がアマゾンで多くの本を買ったように、世間の人も読書の日々を過ごしていたようだ。旅に行けぬ不満を読書で解消しようというのか、講談社文庫の私の本の電子版が売れたという報告が来た。こんなことは初めてだ。印税総額が、単行本を1冊買えるくらいだから、まあ、たいした金額じゃないが、読んでみようと思ってくれた人がいるのがうれしい。「1円+送料」で本を買うよりも、それよりちょっと高いキンドル版を買うということらしい。私はまだ、紙に印刷した本を読んでいたい。

                 ☆

 本を読みながらラジオを聴いていたら、映画宣伝のために出演した俳優が、「密室」、「男女7人」、「スマホ」という語を使って話をしている。「日本でリメイク」という言葉で、あの映画の日本版ができたことを知った。

 2018年春に、マドリッドで “Perfectos desconocidas”というスペイン映画を見た。まるで、一幕物の演劇のように、映画の98パーセントはダイニングルームとベランダで繰り広げられる。そして、登場人物がしゃべりまくる。英語の映画だったら、内容がわからなかっただろうが、幸運にも英語字幕付きだからなんとかついていけた。そして、この映画は、飛び切りおもしろかった。調べてみると、元はイタリア映画だという話を、このコラムの1134話に書いた。    

 その後、韓国版は「完璧な他人」としてリメイク。中国版は「来电狂响」。そして、ついに2021年1月、日本版が公開されるというのが、ラジオで耳にした宣伝だ。「おとなの事情 スマホをのぞいたら」スマホを持っていない人間でもおもしろかったのだから、スマホを使っている全世界の人間が「笑える恐怖」がこの映画だ。

                  ☆

 2021年は、2020年よりも少しは楽しい年になったらいいね、お互いに。

 “I’ll be seeing you”を。

 “See you”(じゃ、またね)と同じ意味なのだが、ビリー・ホリデーが歌うと、会いたい人にもう会えない悲しさを歌っているように聞こえる。歌詞を読みたい方は、こちら。この歌のカバーは実に多く、レイ・チャールズエリック・クラプトンも歌っている。カバーバージョンを探してYoutube遊びをすれば、1時間ほど楽しめる。

 

 じゃあ、ちょっと休んで、また。

 

1523話 本の話 第8回

 

 『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』

 

 『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』(書籍情報社、2004)が、2020年にちくま文庫に入った。文庫版は「大幅加筆訂正」はないだろうと推察して、内容の点検はしていない。だから、ここでは書籍情報社版で話を進める。

 もし、私が旅をテーマにアンソロジーを編むなら、この本から何行か抜き出すだろう。ただし、それは私が立花の考えに共鳴しているからではない。こういう考えもあるという紹介だ。

━━基本的には無目的の旅(いわゆる漂泊の旅、風雅の旅)に出ようとは思わない。私の旅は、基本的には当座の目的を持った旅だし、無用の危険を避け、ある程度の安全ネット(少なくとも無事に帰りつけるくらいの路銀は常に用意しておく)を必ず張っておいてから出かける旅である。

 しかし、だからといって、安全ネットだらけの、完璧にセットアップされた旅はもっとしたいとは思わない。21ページ

━━なぜものを書くことを職業にしていながら、字にしていない旅がそんなに多いのかというと、どの旅も、書くとなったら、書くことが多すぎて、まとめきれないと思うから、そもそも書くことに着手していないのである。70ページ

 前川の注。探検作家角幡唯介は、旅は文章を書くためにするのだから、書かないなら旅をしないと、高野秀行との対談『地図のない場所で眠りたい』で語っている。私はと言えば、旅が楽しいから旅をしているだけだ。収入とつながらないブログに旅の話を書いているのは、書くことにすると、旅行の前・中・後にわたって旅行地の資料を読むという読書時間もまた楽しいからだ。ブログで旅の話を書かなくても旅はするが、読書量は確実に減るだろう。旅するちょっと前までほとんど知らなかった地域の資料を、ひと山もふた山も読むことはないだろうという意味だ。旅は、読書の動機を与えてくれる。

━━人生の大きな切れ目ごとに旅から旅への日々を続けてきた私は、その旅を利用して、最大限の自己教育というか自己学習をやってきたのだと思う。これまで外部に語ることの少なかった旅ほど、私の内部的自己形成に役立ってきたのだと思っている。60ページ

━━旅の本来的な目的が日常性からの脱出にあるとするなら、旅のパターン化(日常性化)などというものは最悪の退行現象といえるだろう。73ページ

━━旅のパターン化は旅の自殺である。74ページ

 前川が異論をはさむ。旅の本来の目的など個人それぞれなのだから、退行も進行もない。外国に行っても、パソコンやスマホで日本のテレビドラマやニュースを見て、ゲームをやっているというのは「どーかネ」とは思うが、その人がそれを楽しんでいるなら、他人がとやかく言うことではない。

 インテリの旅行記には、異文化ショックの話はあまり出てこないが、立花の1960年の旅の話をした第8章「ヨーロッパ反核無銭旅行」には、こんなエピソードを語っている。

 「なにか困ったことはあったか」という質問に、洋式トイレの使い方がよくわからなかったことと、「ガウン」だと答えている。出発前に読んだ渡航案内で「ガウンが必要」と書いてあったので、探して持って行ったが、使い方がわからなかったと話している。その渡航案内がどれかわからないが、『外国旅行案内』(日本交通公社、1956年改訂3版)を見ると、「服装」の項に「バスローブ」がある。

 「バスローブ(浴衣)が1枚。船内あるいはホテルの室内に風呂がなく、室外に出るとき必要。また室内でも朝夕パジャマ上に着てくつろぐことができる」

 「服装」の項の「バスローブ」の周辺を読むと、「ステテコは外国にない」とか「パジャマ代わりに浴衣を持って行ってもいいが、洗濯代が高くつく」といった記述がおもしろい。トイレや風呂の使い方の説明があるかと思って探したが、見つからない。飛行機の「洗面所・便所」の項に、こういう記述がある。

 「男女別も大型機は明白に区別し、洗面所も別に設けてあることもあるが、必ずしも男女別があるとは限らない」

 昔は、飛行機のトイレに男女の別があったらしい。まったく知らなかった。

 おまけで、1956年版のインド旅行事情を見ると、1米ドルは4.67ルピー、1ルピーは75.60円。ツインルームのホテル代は、最高級で90ルピー(6800円)、高級で70ルピー(5300円)、「普通ホテル」に分類しているホテルが40ルピー(3000円)。ちなみに、1958年の東京・帝国ホテルのツインは3600円。

 

 ある本を読み始めたら、「ついでに、これも」と関連書を読みたくなるクセがあり、『知の旅は終わらない』を読んでいて、『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』を再読し始めたのだが、その間に注文していた『ぼくらの頭脳の耐え方 必読の教養書400冊』(立花隆佐藤優、文春新書、2009)が届いた。想像通り、立花が必読と推薦する教養書をまったく読んでいない。理系の本は読まないし、教養人であるための基礎学力書も読んでいないからだが、だからといって、どーということもない。私の好奇心は、「知の王道、保守本流の教養」から大きく外れた場所から歩き出したのだから、教養人ではない私を恥ずかしいとは思わない(だからダメなんだと言われれば、「はい、おっしゃるとおりです」と答えるしかない)。読書のほとんどの時間を使って、豆腐脳みその私が「並みの教養人」もどきになる努力をするくらいなら、好奇心のままに本を読み続ける「変なことを知りたがるライター」のままでいい。「無知も、ときには味方する」という例を、しばしば体験しているからだ。「立派な教養」がある人は、その教養が邪魔をして、物事の偏った一部しか見ることができないということがあるということだ。

 立花隆の本の話は今回で終了するが、本の話はまだまだ続く。