1683話 日本語人 その2

 

 前回の、台湾の「ご婦人」の日本語のことを書いていて、突然、富岡製糸場での出来事を思い出した。富岡製糸場は1872年操業を開始し、1987年に停止した。私が取材のために訪れたのは1980年代なかばだから、まだ操業を続けていた。取材といっても、工場の外観の写真を数点撮るだけの仕事で、それにごく簡単な説明をつければそれで済むという簡単な仕事だった。

 すでに観光地として有名なところで、許可を取らずに外観の写真を撮ることに問題はないだろうと思った。

 「取材ですか?」

 その声に振り向くと、50代後半くらいの女性がそばに立っていた。

 「はい、ちょっと写真を・・・」と答えた。

 「お時間がありましたら、ちょっとお話しましょうか。ここのことを知っていただきたいので・・・」といって、その女性は施設の庭に建つ木造の家に私を案内した。

 その女性は職員が通う学校の教師だと自己紹介した。何を教えているのかも話したはずだが、覚えていない。華道か茶道か、もしかすると、行儀作法の教師だったかもしれない。

 話の内容はほとんど忘れてしまったが、わずかに覚えているのは「ここの子は、とってもまじめで熱心で、いい子ばっかりで・・」という称賛と、その人の美しい日本語だった。考えてみれば、1980年代に60代だとすれば、1920年代生まれだから、戦前の教育を受けたはずだ。台北で会った「ご婦人」の日本語のことを書いていて、富岡製糸場で耳にした日本語も同じように美しかったことを思い出したというわけだ。

 台湾で、「ご婦人」がしゃべる日本語だけを耳にしていたわけではない。台北駅近くの宿に泊まれば、すぐさま「あんた、救心持ってない? りんご、持ってない? 買うよ」と話しかけてくるおばちゃんはいくらでもいた。その日本語があまりに普通で、「外国人の日本語」ではまったくなかったから、九州か沖縄にでも行ったような感じだった。

 その宿の近くの屋台で、油飯(ユウファン)だったか魯肉飯(ルウローファン)だかを中国語で注文したら、おばちゃんが大声でしゃべった。

 「あんた、日本人でしょ! 日本人ならちゃんとした日本語をしゃべりなさい。変な中国語なんか使っちゃって・・・」

 「変な」と言われても、発音練習などしたことがないインチキ中国語なのは許してほしい。

 私が小丼の飯を食べていると、おばちゃんがしゃべりだした。

 「娘が、大学で日本語を勉強しているんだけど、もう、へったくそで、高い授業料を払っているのに、読む書く話すがまるでだめなのよ。アタシなんか、小学校しか出てないけど、ちゃんとした日本語、しゃべっているでしょ。読み書きだってできるのよ」

 東京の赤羽とか新小岩でおばちゃんと話しているような日本語だった。「台湾には、日本語をしゃべる人がいる」というのが、台湾に行く前の知識だったが、私の想像をはるかに超える日本語世界だった。

 

 

1682話 日本語人 その1

 

 昨年末に、ライターの前原利行さんに格安航空券業界史を書いてほしいと書いた。その前原さんから返信があり、「その業界には興味がないので、あしからず」ということだった。執筆は断られたが、私の研究資料として『地球の歩き方30年史』(峰如之介、ダイヤモンド・ビッグ社、2009、非売品)を送っていただいた。感謝。重要資料だが、難を言えば紙が厚くて読みにくい。

 旅行史研究資料は市販しても売れないと版元が判断したのだから、私が興味を持つ分野は、やはりマイナーなのだ。格安航空券業界史は、元業界人ならたやすく書けるテーマなのだが、今まで誰も書いていないということは、重要な話だと認識されていないということだ(とはいえ、拙著『異国憧憬』や『旅行記でめぐる世界』は、論文で引用されることは少なくない。それほど資料がないということだ)。誰か、『格安航空券業界血風録』を書いてくれないかなあ。

 というわけで、今年も、ほとんどの人には興味のない話を書くことになりそうだ。

 

 日本語で教育を受けた台湾人を「日本語人」と呼ぶのは、誰の命名でいつから使い始めたのかはわからない。私が初めて目にしたのは『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人―台湾人の夢と現実』(若林正文、朝日選書、1997)だったと思うが、はたして若林の命名なのだろうか。「わからない」と書いて先に進もうかと思ったが、本棚の台湾書の段にその本があるかどうか調べてみたら、本棚の最下段にあった。「おもしろかった」という読後感のある本だが、ページをめくってみると、付箋を貼った部分に批判的な書き込みがいくつかある。

 それはともかく、「『日本語人』の子供たち」という章を読むと、日本語人とはどういう人たちなのかと著者に説明する台湾人の話が出てくるので、若林の造語ではなく、日本時代を生きた台湾人が、自分を表す語として言い出した語らしい。ただし、韓国人の場合は、この語は使わないような気がする。

 1970年代から台湾を旅しているので、日本語人たちにはよく出会い、話をした。終戦の1945年に20歳だった人でも、1975年にはまだ50歳の現役世代だった。日本語人たちの日本語を耳にした日本人は、「なんと美しい日本語が残っているのだろう」という驚きを受けたようだ。じつは私もそのひとりで、日本語人の日本語についてときどき考えることがある。

 日本語人の日本語が美しいと感じるのは、それが生活言語ではなかったからだ。教室で習った「ちゃんとした日本語」がそのまま保存されていたからだ。台湾の日本語は教育言語で、共通語を持たない少数民族を除けば、日本語は学校で教師と、街で日本人としゃべるときにしか使わない言語だった。例えていえば、日本人が学校で習う英語と同じで、ていねいな、ちゃんとした英語だ。けっして放送では使えないFワード(4文字言葉)だらけの会話や兵隊言葉など俗語卑語を混ぜたアメリカの会話英語は、日本の学校では習わない。それと同じで、台湾の学校で教育された日本語は、「あの方は、もうおでかけになりました」であって、「もう行っちゃったよ」ではない。この話を書いていて、清水義範『永遠のジャック&ベティー』を思い出した。あるいは、日本語を学んでいるタイの友人のことを思い出した。教科書のちゃんとした日本語を暗記してしゃべるので、NHKのインタビューを受けているような日本語会話になる。「それでさあ・・」といった日本語はしゃべれないのだ。

 1950年代の日本映画を見ていると、今はもう消え去った日本語を聞くことがある。お嬢様の日本語だ。

 「そんなこと、おしゃったらいけませんわよ」

 「ほんとにもう、ご機嫌でいらして」

 「あなたのおみ足、とっても美しくていらっしゃって・・・」

 東京の山の手、名門女学校の卒業生が使いそうなこういう言葉使いは、激動の1960年代に入ると映画からは消え、テレビでも聞かなくなった。現在でもこういう日本語を使っているのは、インチキ臭いがデビ夫人語であり、真正お嬢様である黒柳徹子(1933~  )くらいだろうか。兼高かおる(1928~2019)の日本語もお嬢様ぽかった。そういう類の日本語を「正しい日本語だ」として台湾の名門女学校で教育したのではないか。

 私が台湾で耳にした日本語は、石坂洋二郎原作の映画にでてくるお嬢様ことばではないが、どこかに気品があり、ずっとあとになって小津安二郎の映画の、原節子香川京子の日本語を聞いて、「ああ、こういう日本語だ」と気がついた。きちんとした教育を受けた1950年代の女性の、きちんとした日本語を感じさせる。

 台湾のどこの街だったか忘れたが、小さなホテルのロビーで編み物をしていた母と同じくらいの年齢の、「ご婦人」という言葉が似合いそうな人としばらく世間話をしたことがある。その街の日本時代の話や学校での授業内容とか、さまざまな話をしたあと、宿の従業員のまかないの仕込みも手伝わせてもらった。話の内容はよく覚えていないが、「美しい日本語」だったことはよく覚えている。空心菜の枝を下に引き抜き、皮をむくのを教えてもらったこともおぼえている。この野菜を初めて知ったのは、この台湾旅行のときだった。東南アジアでも見ているはずだが、1970年代の私の知識は野菜にまで及んでいなかった。

 

 

1681話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その29

 最終回 若者の旅の歴史研究を

 

 いままで、28回にわたって、1970年前後の旅行事情を少し書いた(「少し」じゃないか)。もう30年も前から、戦後日本人の海外旅行の歴史を調べてきたが、いまだにジグソーパズルの大きくて非常に重要なピースが埋まらないままだ。

 日本人が海外旅行に行きたいと思ったとする。どういう条件がそろえば、旅行に行くことができるか。その条件を、いままでひとつずつ点検してきた。

政治的条件・・・海外旅行自由化など、法律や制度についてはある程度勉強した。

経済的条件・・・日本の経済力や為替レートの問題。具体的にはアメリカドルと日本円の交換レートなどの問題だ。

旅行情報・・・・具体的な旅行情報を伝えるガイドブックや、旅行したい気分にさせる映画やテレビ番組や雑誌や紀行文など。

 以上の条件は、ある程度調べがついた。残る1点、航空運賃の変遷については調べがつかないのだ。航空券が安くならないと、外国に行けないのだが、格安航空券に関しては一方的に利用者だっただけで、その興亡などについてよく知らないのだ。航空会社の本はある。大手旅行会社の社史もある。しかし、格安航空券を扱ってきた会社の商売の歴史を克明に描いた資料は見つからない。HISも社史は書く気はないらしい。

 航空券をいかに安く仕入れ、いかに大量に売りさばいたか。販売報奨金の話、輸入航空券問題の推移。大手航空会社との軋轢など興味あるテーマはいくらでもあるが、普通の旅行好きはもちろん、「旅行人」の読者だった人でさえ、航空券ビジネスの話は興味はないかもしれない。しかし、この問題を掘り下げないと、年収でも買えなかった航空券が、学生の夏休みのアルバイトで買えるようになったメカニズムがわからない。それなしでは、海外旅行史研究は不完全なままだ。航空会社の話は産業の表舞台だから、LCCの興亡といったテーマは経済記事でとらえられているが、格安航空券は裏街道だから、金持ち相手の経済マスコミや経済ジャーナリストはまともに取り上げない。しかし、格安航空券がなければ、個人旅行者数が団体旅行者数を抜くことはなかったし、「地球の歩き方」や「るるぶ」がこれほど売れることはなかったはずだ。しかし、観光学論文でも、このテーマを扱ったものは見つからない。

 インターネットで調べれば、格安航空券の歴史を書いたものはわずかにあるが、数百字程度の思い出話では内容が薄すぎる。

 アマゾンを頼りに、航空運賃関連書を買い集めたが、私の希望に少しでも近いものはない。格安航空券の買い方と言ったノウハウ本は多くあるが、私が知りたいことはそういう実用情報ではない。ジャンボジェットの導入で航空運賃が安くなったという話の後は、いきなり「LCC時代到来」という話題に入る本ばかりだ。1970年代末から80年代の、格安航空券業界の事情がまるでわからないのだ。

 旅行会社の裏まで知っていて、ライターでもあるという人物が、格安航空券史の本を書く適任者だ。そういう人が、旅行人周辺にいる。「地球の歩き方」などのライターである前原利行さんだ。彼はライターになる前は旅行社社員だった。格安航空券ビジネスの本は、ほとんどの人が関心のないテーマだから、たぶん前原さん当人も書かないだろうし、出版する会社もないだろう。前原さんは私のコラムを読んでいないだろうが、縁者がいたら「ネット上でいいから、ぜひ、書いて」と伝えてください。1500字×5回くらいの原稿量なら、我がブログに採録させてください。前原さん以外でも、書ける人がいれば、ぜひ。日本最初の「実録 格安航空券業界の歩み」の本だ。

 上の文章を書いた後も引き続き格安航空券史を調べていたら、JALの元パイロットが書いた『航空運賃の歴史と現状』(杉江弘、戎光祥出版、2021)が間もなく発売だと知り、すぐさま注文して入手した。「格安航空券」の見出しはあるものの、記述はない。引き続き注文した『空港・航空券の謎と不思議』(谷川一巳、東京堂出版、2008)は、元旅行会社社員が書いた本で、珍しく格安航空券事情を充分ではないがやや詳しく書いてある。簡単に紹介するには長く、「航空券の価格自由化」や「各航空会社の経営事情」といった諸事情の解説が必要な内容なので、ここで素人の私が手をつけることはしない。興味のある方は、この本をお読みください。この1冊に出会うまで、だいぶ無駄なカネを使ってしまった。

 以上で、長々と書いてきた1970年前後の海外旅行事情の話を終えるとともに、2021年のブログを終える。

 

 十数年前に入院をして以来、数か月ごとに病院に行き定期検診を受けている。10月の検診の時に、体の異変がちょっとあり、担当医は「ガンの可能性もあるので、この際、徹底的に調べましょう」ということで、12月まで何度か検査を受けた。その結果、12月の検診で「何ともなかったです。よかったですね。これで元気に新年を迎えられますね」と言ってくれたので、ひとまず安心。しかし、「実は、すでに・・・」と告知される可能性もあったわけで、そうであったとしてもおかしくない年齢になりつつあるのだから、ああ、元気なうちに、早く旅に出たいなあと思うのである。そうでしょ、ご同輩。

 

 

1680話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その28

 戦後旅券抄史 6

 

 2022年4月に私のパスポートの有効期限が切れるから、更新しなければいけないのだが、なかなか体が動かない。前回の、嫌な記憶があるからだ。その話に入る前に、2冊目のパスポートの写真の話をしておこう。

 私にとって2冊目となる1978年発行のパスポート写真は、1974年にネパールで出会ったカメラマンのアパートで撮影してもらった。上着、ワイシャツ、ネクタイも彼のもので、我々が「貧乏人のハッセルブラッド」と呼んでいた愛用のマミヤ645で撮影してもらった。代金は支払っていない。3冊目も別のカメラマンに撮ってもらった。オフィスの白い壁を背に、私のオリンパスOM2で白黒各種写真を20枚ほど撮影し、全部をプリントして、サイズに合わせて切った。この時は上着は着ているが、ネクタイはない。4冊目以後は普段着で撮影している。現在は顔だけのアップなので、極端に言えば、全裸で撮影しても、顔だけしか使わないから支障はない。

 現在持っているパスポートは2012年に取ったものだ。申請の日の午前中、パスポートセンターの1階にある証明写真ボックスで、パスポート写真を撮った。かつては、画質が悪いからだろが、「インスタント写真不可」と申請書類の写真の項目に書いてあったが、いまではスマホで撮影し、自宅でプリントするという人も少なくないからか、証明写真ボックスの画質で充分だ。ちなみに、私のパスポートでは、2002年発行のものまで、白黒写真だ。

 1階で顔写真を撮り、2階にあがって申請書に記入し、提出した。今までは、これで終わりだが、「ちょっと」と声がかかった。「メガネに光が当たっているから、取り直してください。メガネを外した方がいいです」と受付書類を点検しているおばちゃんが言った。「おいおい、そんなの・・」と思ったが、まあ、しょうがない。1階に降りて、また撮影した。2枚目の写真も「不可」だとされて、突っ返された。写真の上辺と頭頂の感覚が「4ミリ±2ミリ」と決まっているが、1ミリ広いというのだ。椅子を少し下げすぎたか、背の伸ばし方が足りなかったのか。こういう役人とケンカしても、勝てないことはわかっているが、それにしても、1ミリだぜ。こういう時に、私は日本が大嫌いになる。しかたなく、3枚目の撮影をして、合格した。

 今回、また役人との闘いになりそうなので、気が重い。役人が合格印を押す写真を用意しなければいけない。どういう写真が「適切」なのか、外務省のサイトにあたった。これを読むと、「旅券用写真の規格は、渡航等に関する国際機関である国際民間航空機関(ICAO)の勧告に基づいて定められています」と書いてあるが、「ウソだね」と確信した。写真の上下左右と顔の位置をミリ単位で規定して、世界がそれに従うわけはないと思った。「4±2mm」などという規定を、文字通り杓子定規に物差しを持って計測している国があるとすれば、それは日本だけだと思った。

 そこで、ICAOのパスポート写真の規定を見ると、サイズは個々の国で決めているらしい。ミリ単位の規定と言っても、アメリカではインチ表記で、1ミリを決める規定は不可能なのだ。

 このページを見ていると、顔を隠したい国(民族、宗教)の規定はまさに国ごとで、どうやら男はシーク教徒以外被り物は許されないようだが、女は自国と他国の役人次第ということらしい。

 その昔、西洋人女性のパスポートを見せてもらったら、斜めを向いてにっこり笑っている写真で、「日本じゃ、こういう写真はダメなんだ」といったら、「つまらない国!」と判断されたのだが、今は世界のどの国も、微笑んではいけないんだ。ななめ横向きもダメ。メガネに関する規定はかなり厳しいようで、メタルフレームのメガネでも目に近くにフレームがあると、バツだ。

 パスポート写真最大の問題は、カツラだろうな。おそらく、規定はこうだ。私が真っ赤なカツラをかぶっていれば、その写真は不可。黒か白髪のカツラで、「かぶっているな」と誰からもわかる場合でも、許容範囲の髪型なら、見なかったことにするんじゃないかな。「あんた、カツラでしょ。取って、撮影してください」とは、さすがに言わないだろうなあ。芸能人のあの人や、かの人にも言ったらおもしろいが・・・。

 

 

1679話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その27

 戦後旅券抄史 5

 

 

 私が作った旅券関連年表から、興味ある項目を書き出してみる。本文レイアウトがおかしいが、私の能力では修正できないので、あしからず。

1977.9.28 バングラデシュダッカで、日本赤軍によるハイジャック事件が起こった。この時代世界各地でハイジャック事件が起こり、77年12月に旅券法が改正されているが、それがどのような改正だったか具体的な対策はわからない。

1978.5. 1  旅券発給手数料が、一次旅券が3000円から4000円に。数次旅券が6000円

から8000円に値上げ。

1978.5. 20 新東京国際(成田)空港開港・・テレビのバラエティー番組で、「千葉の成田にあるのに、なぜ新東京国際空港なんだ」という嘲笑がお約束になっているが、羽田が東京国際空港で、その新空港が成田にできたという意味だ。

1978. 5.10 パスポートの表紙の色が紺から赤に。ページ数が36から40ページに

増える。(世界を飛び回る業務渡航者へのサービスか?)。

1983.5. 26 パスポートのページ数が40から24ページに減る(5年後の朝令暮改

結局、ほとんどの人はパスポートの全ページがスタンプで埋まるほど旅行はしないと

いうことだ)。

1988.1. 1 更新できる切り替え残存期間が6か月から1年に延長。

1988.4. 1 一般旅券の一次旅券を廃止し、数次に一本化(バブル期に入り、「海外

旅行は生涯にたった一度」ではないと、政府がやっと認めたということか)。  

渡航費用の支払い能力を立証する書類の提出廃止(まだ、そんな書類があったのか?)

  合冊制度の廃止(パスポートに余白ページが無くなってくると、白紙の冊  子と合わせて綴じる「合冊」というものがあった。私はナイロビでやった)

1991.4. 1 渡航先」の欄が、従来の”This passport is valid for ALL COUNTRIES AND

AREAS EXCEPT NORTH KOREA.(MINISTRY OF FOREIGN AFFAIRS)から、”This

passport is valid for all countries and areas.”に変更。

1992.4 .24 旅券手数料、8000円を10000円に値上げ。

1992.4. 8  更新の場合、戸籍謄本(抄本)の提出省略が可能に。

1992.8. 31 写真サイズが5×5cmから4.5×3.5cmに変更。

申請書の「身長」の項目削除。

1992.11. 1  機械読取旅券(MRP)導入

     表紙が赤から濃紺に、24ページが32ページに。

     大きさが、タテ155×ヨコ97mmが、タテ125×ヨコ88mmと小さくなる。

1995.3 .8 10 年有効旅券を新設(表紙:赤色、ページ数:48 ページ)。手数料15000円。

  5年間有効旅券は10000円。12歳未満の子のパスポートは5000円。

2000.4. 1 氏名のローマ字表記に「OH」認める。小野も大野もOnoと表記するという 

規定が、希望すればOhnoも認めるということ。大原はOhharaか?

2005.6 10 IC旅券導入

発給手数料値上げ。10年16000円、5年11000円

2009.3. 1 1975年から始まった自分宛のハガキ提出が廃止に。

以下、デジタル化の動きが激しいので、もうこれ以上は書かない。     

パスポートとは関係ないが、その昔、日本を出国するさい、「携帯出国証明書」を渡された記憶がある。書類の名称はときにより変わったと思うが、高額な製品、例えばアクセサリーや高価な時計などを出国時に申告しておかないと、帰国時に「外国で購入したもの」とみなされて課税されることがあった。私には関係のない書類だが、いつの間にか渡されなくなった。

もうなくなったのかと思い調べてみると、税関の資料に今も「外国製品の持出し届」があることがわかった。高い腕時計を見せびらかしている芸能人やヤクザには必要かもしれないが、バブル経済とブランド品ブームが終わった今、一般人にはほとんど縁のない書類かもしれない。

 

 

 

 

1678話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その26

 戦後旅券抄史 4

 

 JCBカード、メルカリ、アマゾンなどの「なりすましメール」が続々と、かつ、しつこく着信しています。皆さま、ご注意を。

 というところで、パスポートの話の続きを。

 私が初めてパスポートを取ったのは1973年だった。その当時、どうやったらパスポートを取れるのか、まったく知らなかった。具体的にどのように動いたのか覚えていないが、県の旅券課に行って、申請に必要な書類は何か調べ、写真のサイズなどを知り、申請書類をもらってきたと思う。

 その当時必要とされた書類は、

一般旅券発給申請書 正副2通

写真 (5cm×5cm) 2枚

戸籍抄本 1通

渡航費用の支払い能力を示す書類」

受領時に「身分証明書の提示」が必要だったかもしれない。

料金は一次旅券 1500円、数次旅券 3000円

 写真の大きさは旅券課で聞いた。その当時、すでにインスタント写真のボックスはあったと思うが、パスポートの写真は、「インスタント写真不可」だったから、写真館に行った。いま、あの写真ボックスの歴史を調べてみたのだが、ネット情報ではわからない。その調査に全力を注ぐとパスポートの話が止まるので、今回は深入りしない。どこで読んだか、パスポートの証明写真は「正装でなければいけない」という話があり、服装が原因で撮り直しになるとカネがかかるし、面倒なので、スーツを持っていない私は、父の上着とネクタイを借りて写真館に行ったように思うが、はっきりとは覚えていない。今もそうだが、私は背広を持っていない。

 さて、1973年のパスポート申請に必要な書類のなかに、「渡航費用の支払い能力を示す書類」というものがある。団体旅行の場合は、旅行社が発行する斡旋証明書でいいのだが、個人旅行の場合はどうするのか。下調べのために県の旅券課に行ったとき、「支払い能力」をどう証明すればいいのか、窓口で聞いた。「預金や貯金の残高証明をもらってください」と言われた。「いくらあればいいんですか?」と聞いたら、「旅行するのに必要な額」という返事だったと思う。これも、何度も旅行できる数次旅券の時代には不要な書類だと思うが、お役所仕事だから、その後も存在した。

 『実用世界旅行』のページをめくっていて、「海外渡航のための外国へ向けた支払い承認許可申請書」のコピーがある。銀行でこの書類を出して、「両替させていただく」のだ。私が記入したのがこれと同じ書類だったか思い出せないが、銀行で渡された用紙は小さなわら半紙に印刷したもので、住所氏名などを書くだけだった。大蔵省に提出する書類だが、形だけのやっつけ仕事だということは明らかだった。ただ、両替は簡単ではなかった。パスポートの最終ページが「渡航費用に関する証明」欄になっていて、両替するたびに銀行名と金額が記入される。1973年の外貨持ち出限度額は3000ドルで、限度額がある時代だから、両替するたびにパスポートに両替額が記入され、限度額を超えないように規制されていた。わからないのは、なぜか1973年の両替は記入されていない。1974年の両替記録を見ると、アメリカン・エクスプレスで500ドルのトラベラーチェックを作っている。出発直前に、第一勧業銀行で35ドル分両替している。有り金を集めたのだろうが、35ドルというあたりが、泣けるじゃないか。

 両替記録は74年と75年だけがある。76年からはコック生活に入るので、しばらく出国はしていないから、76年77年の事情はわからないが、2冊目のパスポートは1978年発行で、そこには「渡航費用に関する証明」欄はない。1978年に、外貨持ち出し制限が撤廃され、日本円の持ち出し限度額が300万円になった。観光旅行に関して言えば、外貨両替制限はほとんど意味のないものになった。これが、『地球の歩き方』発刊直前の日本の外貨事情だ。

 1974年8月15日、ソウルで起こった事件が、日本のパスポートに大きな影響を及ぼすことになる。在日韓国人が日本人のパスポートを手に入れて韓国に渡り、朴大統領夫妻の暗殺をくわだて、夫人を殺害した文世光事件だ。犯人の文世光が他人の書類に自分の写真を添えてパスポート発給申請して取得したことを受けて、1975年3月に住民票と自分宛のハガキも旅券発給申請書類に含まれることになった。75年4月から、パスポートの写真に保護シートを張り付けるようになった。これで写真の差し替えが難しくなった。

 1987年に大韓航空機爆破事件が起き、日本の偽造旅券が使われた。その結果、どういう偽造防止策が取られたのか、私は知らない。

 

1677話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その25

 戦後旅券抄史 3

 

 1970年の「一般旅券発給申請書」に記入しなければいけない項目は、現在とはまったく違う。大時代がかっている。こうだ。驚くぞ!

 氏名のあと、性別、既婚か未婚の別、身長、「外見上の顕著な特徴(ない場合は記入不要)」、本籍地、そして、国名リストから、旅行地を選んで〇をつける。一次旅券は、前回書いたように、訪問国名をパスポートに記入される。申請書に「イギリス」と書いていたら、それ以外の国には行けない。だから、一次旅券なら百歩譲って訪問国を書く意味はあっても、数次ならこの申請書に訪問国名書く意味がない。

 「渡航目的」という欄も意味がないのに、書かせる。その目的を次から選ばなければいけない。

 営業、観光、公演、役務提供、赴任、留学、研究、研修、家族との同行、政府計画移住、国際結婚による移住、養子縁組による移住、永住権を有する国への再渡航、近親訪問、知人訪問、一時訪問、視察、会議出席、航空機乗務

 こういう事を記入させるというのは、日本人の旅行調査である。「旅の目的なんざ、勝手だろ」という意見は、日本政府は受け付けない。旅行目的以上に噴飯ものは、「職業」欄に関することで、この話はアジア雑語林話1013話に書いた。いかにも役人が作った書類だとわかる内容で、「国会議員」が国民の序列第1位で、以下「地方議員、国家公務員、地方公務員」という「エライ人順」が明文化されている。以下に、採録する。日本政府を笑ってください。

付録 『実用世界旅行』(杉浦康・城厚司、山と渓谷社、1970)に、当時の「一般旅券発給申請書」のコピーがそのまま載っていて、興味深い欄を見つけた。現在は、申請書に職業を書く必要がないのだが、当時は申請者の職業を書く欄があった。基本的には、職業欄にある職業とその番号を○で囲む。もし、ここに載っていない職業の場合は、別の欄に具体的に書き入れるようになっている。さて、興味深いのは、その職業欄にあらかじめ載っている職業だ。00から数字が打ってあるのだが、その数字は省略して、上から順に、職業を書き出してみる。最初の方は、明らかに、政府が考える「偉い人順」だ。あるいは、この時代に海外旅行をしている人たちといってもいい。「農業従事者」というのは、農家のことで、彼らの旅行を「ノーキョー(農協)ツアー」と都会人が嘲笑した。農家が大金を持っていたのは、大都市郊外で、団地をはじめ新興住宅地の開発で、山野、雑木林、農地を売って大金を得ていたからだろう。こういう職業リストを見るだけで、時代を読むことができる。じっくりと解読していただきたい。
 国会議員、地方議員、国家公務員、地方公務員、公共事業体役(職)員、会社社長、会社役員、会社社員、会社嘱託、農業従事者、漁業従事者、技師、技能者、船(機)長、船舶(航空機)高級乗組員、船舶(航空機)乗組員、販売業従事者、個人経営者、サービス業従事者、団体役員、団体職員、労働組合役員、教授、助教授、講師、研究員、教員、医師、芸術家、俳優、芸能家、法律家、報道関係者、写真家、著述業、宗教家、職業的選手、主婦、学生、無職

 1973年の旅券発給申請書の話は次回に続く。