1759話 アメリカ・バス旅行1980 その6

 バスに食べ物や飲み物の持ち込みが禁止されていたとは思えないのだが、少なくとも私は何も持っていなかった。いまなら、ペットボトル入りの水が常にバッグに入っていると思うのだが、あのころは小さな子供を連れた親でもなければ、アメリカ人は水を持って移動することはなかったと思う。ペットボトル入りの水はまだなかったかもしれない。

スープ

 バスは早朝5時前にターミナルに着き、1時間ほどの休憩になった。近くの席の男を誘ってカフェテリアに行った。腹は減っていないが、ちょっと寒く、ノドが乾いているので、暖かいスープを買ってテーブルに置いた。コーヒーとタマゴ料理を食べている男が言った。

 「えっ、スープ? 朝飯に、スープ?」

 「おかしい?」

 「変だよ、今、朝飯だよ。スープは夕飯だろ」

 アメリカ人に限らず、欧米人には「朝飯にスープは変」という感覚があるのかもしれないが、「朝飯に味噌汁」という習慣がある日本人には違和感はまったくないだろう。

 サンフランシスコにいたとき、朝飯を食べに、宿のそばにある食堂に行った。メニューを見るとスープがあるので、注文してみた。カウンターの中のおばちゃんは、棚からキャンベルの缶入りスープを取り出し、電動缶切り機にセットし、グワ~ングワ~ンとふたを開け、中身をスープ椀にいれて、電子レンジに入れた。厨房に鉄板もフライパンもない。調理はすべて電子レンジでやるなら、目玉焼きはないのか、それともオーブン機能を使うのかなどという疑問が頭に湧き出すなかで、スープを口に入れた。

グラタン

 うまそうだとは思えなかったが、経済的理由でいちばん安いグラタンをカフェテリアで買った。どこかの田舎町のドライブインだ。インタビュー相手を探しながら移動していたので、わずかでも取材のネタにつながればという思いで、いろいろな人に話しかけていた。

 ひとりで食事をしている若い男がいた。「ここ、いいですか?」と話しかけると、男はにこやかに「もちろん」といった。

 とりとめのない雑談から、男はギリシャ語とギリシャ文化を研究している大学院生だと自己紹介した。

 「ギリシャ語か。まさに、It’s Greek to me.」

 のちに振り返ってみれば、これはギリシャ語を学んでいる人にとって、「耳タコあるあるジョーク」で、うんざりしただろうとは思うが、その時はそういう配慮はなかった。「それって、チンプンカンプンだ」という意味で、高校生時代に何かの本で読んで、覚えていた。

 「それ、シャークスピアに出てくる表現だね」

 大学院生は、サラリと言った。イヤミな男ではないし、無教養の私を見下した表情はまったくしていなかったが、「そこまで知っていての教養だよ」といわれているようだった。

 いつまでも“It’s Greek to me.”を覚えていたのは、ほかにも国名がついた言葉が気になって調べて、雑記帳に書き出したことがあるからだ。イギリス人にとってオランダ人は「ケチ」、フランス人は「下品、好色」というイメージのまま語句が作られた。

 オランダなら、Dutch account、Go Dutch、Dutch wifeなど。フランスなら、French letter、Excuse my French, French leaveなどいくらでもある。アメリカの俗語にgo to Denmarkというのがある。動詞のShanghaiもあるな。

          ☆

 雑誌「フリースタイル」52号(6月24日発売)は、「極私的偏愛韓国ドラマ&ムーヴィーBEST5」が特集で、天下のクラマエ師の紹介で、私も寄稿しています。西森路代さんが紹介している映画「最後まで行く」は、私が断腸の思いで外した作品。おもしろいですよ!

 

 

1758話 アメリカ・バス旅行1980 その5

刺身

 ニューヨーク市まであと数時間というあたりだから、ペンシルバニア州の街だろう。満席に近い状態で、私の隣りの席に座ったのは20代前半くらいの黒人女性だった。しばらく雑談した後、私が日本人だと知ると、「前から気になっていることがあるんだけど・・・」と切り出した。

 「友だちが、日本人は魚を生で食べるって言うんだけど、ウソだよねえ、そんな話」

 「いや、ホントだよ。魚も貝も生で食べるんだよ」とすかさず言った。イカとタコという生物のことを彼女は知らないと思うから、口にしなかった。

 「うっ、う~」

 その時の彼女は、「日本人は、ミミズを生でスパゲティーのように食うんだよ」といっても同じ反応をしただろうと思われるような、苦渋の表情だった。

 1980年のアメリカにおける刺身、すし事情はその程度だった。すしを食べるアメリカ人は、東洋趣味の元ヒッピーか、朝鮮戦争ベトナム戦争時に日本での生活体験があり、日本人の恋人がいたり日本人と結婚してカリフォルニアに住んでいるという「特殊な経歴と嗜好のある」アメリカ人だった。大多数のアメリカ人は、日本料理に関して興味も知識もなかった。

 日本料理は、あまり肉を使わない。油脂をほとんど使わない。スパイスをあまり使わない。魚貝類を生で食べる。料理の多くは、味付けを醤油に頼るといった特徴があるために、「日本料理は世界では受け入れられない」というのが、当時の食文化研究者の一致した考えだった。

 すしが受け入れられるようになった要因のひとつは、「スシバー」という形態にあると思う。カウンターでの食事というのは、ダイナーと呼ばれる飲食店を除けばアメリカには存在しない。隣の席に座った赤の他人と、飲み食いしながら語り合う場が「スシバー」だから、誰かと話をしたいという人たちに受け入れられたのだ。

 アメリカで日本料理が受け入れられた最大の要因は、「アメリカ合衆国上院栄養問題特別委員会報告書(1977年12月)」(通称:マクガバンレポート)で、日本人のように肉や油脂を控え、野菜中心の食生活を送れば健康になれるという報告から、「日本型食生活」が話題になり、少しづつ日本料理が広まっていった。大都市に住むアメリカ人が日本料理を食べ始めたころに調査したのが、『ロスアンジェルスの日本料理店 その文化人類学的考察』(石毛直道ほか、ドメス出版、1985)で、そのあたりの事情に詳しい。

 サンフランシスコで、社員教育用ビデオの制作をしている夫婦を取材させてもらった。「話は自宅で」ということなので、教えられた住所に行くと、そこは日本なら「団地」という感じの中層アパートが並んでいる住宅地だった。夫婦の部屋は、リビングルームに家具らしきものはあまりなく、部屋の隅に布団がたたんで置いてあった。テーブルは円いちゃぶ台だから、床に座る。

 「昼ごはんを食べてから、話をしましょう」という。昼飯をごちそうしてくれるようだ。さて、何が出てくるのか期待していると、椀に入った豆腐の味噌汁だった。「味噌汁だけの、昼飯?」と疑問符だらけでいると、椀をさげて、皿の料理が運ばれてきた。そうか、コース料理という意味か。皿の料理は、日本そばのゴマ油炒め。そばの後は、大福と日本茶

 夫婦は日本に行ったことがなく、今風の表現で言う「日本オタク」というわけでもなく、おそらくは、ヨガや禅、マクロバイオテックなどに深い関心があるのだろうが、インタビューではそういう話はしなかった。アメリカを知っている人なら、「いかにも、サンフランシスコらしい」と言うだろう。

 1980年ごろから、日本料理に興味を持つアメリカ人が少しずつ増えていった。ニューヨークやカリフォルニアの大都市に住む「変わり者」の話だが・・・。

 

 

1757話 アメリカ・バス旅行1980 その4

 1980年のアメリカ取材旅行中に出会った食べ物で、「あれはうまかったなあ」というものはほとんどない。「ちょっといいね」という程度ならいくつかあり、その中のベストはコーンチップスかもしれない。トウモロコシの粉が原料のポテトチップス状のもので、アメリカではごく普通に売っているものだが、当時の日本ではあまり人気が出なかった。トウモロコシの匂いが合わないのだろうか。

 袋に入ったチップスをそのまま食べることが多いのだろうが、友人に教えてもらったのは、サルサソース(サルサは「ソース」という意味のスペイン語だから変な表現だが・・・)に、刻んだトマトを混ぜたタレにつけて食べる。市販のサルサには辛さのレベルを選べる。デンバーで知り合った人たちと行ったファミリーレストランのような店で食べたのは、皿に生トマト入りサルサを敷き、コーンチップスの敷き詰め、その上にチーズをまぶして焼いたピザ風の料理だ。

 この取材を終えて帰国するとき、ロサンゼルスでコーンチップと瓶入りサルサソースを大量に買った。日本で「アメリカの味」に浸る計画だった。ソースのラベルには寒暖計のイラストがあり、その指示温度で、辛さの程度がわかる。出発日の朝、「特辛」や「やや辛」など何瓶も買った。そのスーパーの大袋を宿に忘れてきたことを、空港に着いたときに気がついた。あ~あ。

 味の話ではなく、思い出に残る食べ物の話なら、いくつか浮かぶ。

ハンバーガ

 知り合いの知り合いの知り合いといった極細のつながりをたどり、インタビューをしながらアメリカを旅する取材をしていた。その場所は忘れたが、中部の小さな街だったと思う。紹介された男の仕事先に電話すると、「きょうは早めに仕事が終わるから、ウチで話をしましょう」ということになった。午後の遅い時間に、タクシーで仕事場に行った。相手の素性などまったく知らずに電話をしたのだが、男は30歳前後のイギリス人だった。やさしさにあふれる表情だった。

 仕事は”bookkeeping”というので、書店や図書館の仕事を想像したのだが、話が合わず、そっと辞書で確認すると「簿記係」とある。事務員らしいという想像はついたが、簿記とは「帳面に記入する」という想像しかできない。経理係とどう違うのかわからない。私は、英語と日本語と教養が不自由な取材者だ。

 彼の車で1戸建ての家に行った。夕食はハンバーガーだというので、正直ガッカリしていたのだが、庭に置いた円筒形のバーベキューコンロで焼いた粗挽きハンバーグは想像を超えてうまかった。炭火で焼いたので煙がいい調味料になっている。フニャフニャに柔らかい日本のお子ちゃまハンバーグは苦手だから、ハンバーグはまず口にしない。ここでは、牛乳に浸したパンもみじん切りのタマネギも入れず、こねまわすこともせず、混ぜ物いっさいなしの、牛肉100%に調味料入れただけの炭焼きハンバーグだ。

 ハンバーグはうまかったのだが、問題は彼の妻だった。私に対して、明らかに敵意を示す態度だった。私が気に食わないのか、突然客を連れてくる夫に対する怒りなのか、普段から夫婦仲に問題があったのか、そのあたりはわからない。

 「飲み物は?」と妻が聞くので、

 「コーヒーを」というと、

 「ウチはコーヒーを飲みません」

 「じゃあ、コーラでも」

 「コーラも飲みません」

 「では、お茶を」

 会話はそれだけで、同じテーブルにつくものの、私とも夫とも一切話をしなかった。

 

 

1756話 アメリカ・バス旅行1980 その3

 長距離バスには貧乏人と軍人が乗っていた。軍人は入除隊や休暇で、自宅から部隊へ、部隊から自宅への移動に利用していたのだ。だから、アメリカ映画の兵隊モノには、グレイハウンドバスがよく登場する。刑務所から出所するシーンにも、グレイハウンドバスの姿があったような気がする。

 思い出が次々と姿を現す。「カンザスシティー」という地名が記憶に出てきた。あれは、多分デンバーだ。街のバスターミナルのカウンターで、「カンザスシティー」と言って発券を求めたら、「どちらの?」と聞き返された。何を言っているのかわからないので不審な顔をしていたら、”Kansas city Missouri or Kansas city Kansas ? “と言うのだが、私がまだ不審な顔をしているので、「カンザスシティーはふたつあるんだよ」と説明した。バッグから取材手帳を取り出し確認すると、私が取材で訪れるのはミズーリ州のほうのカンザスシティーだとわかった。カンザスシティーと言えば、カンザス州の州都なのは当たり前と思うのは外国人だけで、事情はちょっと複雑なんだよと、ミズーリ州カンザスシティーに行ってから住民が説明してくれた。

 ミズーリ州の州都はジェファーソンシティーという小さな街だが、代表的な大都市はイリノイ州との境にあるセントルイス市とカンザス州との境にあるカンザス市である。つまり、ミズーリ州の大都市は東端と西端にあり、地理的中心地には人口4万ほどのジェファーソンシティーがあるという変な形態になっている。ミズーリ川を挟んで、ミズーリ州カンザスシティーとカンザス州のカンザスシティーがあるから、よそ者にはわかりにくいのだ。皮肉なもので、ミズーリ州カンザスシティーの方が有名な大都会で、「美しい街」という印象がある。

 前置きの説明が長くなった。

 ミズーリ州カンザスシティーでの取材を終えて、ついでだから カンサス州のカンサスシティーも見ておきたくなって行ってみた。そこは、さびれた印象で、1泊したいような街ではなかった。滞在数時間ほどで、バスターミナルからセントルイス行のバスに乗った。乗客は私以外に少年のような若者がひとりだけだった。「話しかけるんじゃねーぞ!」という光線は発していないので、話しかけてみた。少年が口にした行先の地名に、心当たりはない。

 「旅行?」

 「いや、入隊するんだ。ここにロクな仕事がないから」

 ベトナム戦争が終わって5年たっていて、すでに徴兵制はなくなっていた。

 「軍人になれば、除隊後優遇措置があるんでしょ?」

 「それ、GIビルのこと? そんなの何にもないよ」

 GIビルというのは退役軍人援護法のことで、1980年当時どういう事情にあったのかは知らない。その昔、貧しい少年はまず軍隊に入り、除隊後GIビルで大学の授業料免除待遇を受けていたのは知っている。国民皆保険制度のないアメリカでは、医療費は高い。軍人になれば家族にも保険が適用されるといった優遇制度もあった。小説と、その小説を映画化した「シンデレラ・リバティー」は、子供の歯をタダで治療してもらいたくで兵士と結婚しようとするシングルマザーが出てくる。「軍人と結婚すれば、医療費がタダ」というセリフがあった。

 バスの中の思いつめたような表情の少年は、「将来の希望」よりも「家族のため」を考えているように見えた。

 この若者は、映画「ラストショー」(1971年)のティモシー・ボトムスのイメージと重なった。

 

 

1755話 アメリカ・バス旅行1980 その2

 グレイハウンドバスに乗っているのは、貧乏人と軍人と旅行者だった。有色人種率は高かったと思う。あのころのバスの車内風景が脳裏に浮かび、思い出すことがいくつも沸き上がってきた。

 運転手は出発のアナウンスのあと、必ずしゃべていたのは、「タバコ以外のモノは吸わないようにね」と「ラジカセの再生禁止」だった。でっかいラジカセを肩に担ぎ、大音量で音楽を流すのが流行っていた時代だ。

 タバコは吸ってもよかったのか、たしかな記憶はない。「タバコとタバコ以外のモノも吸わないように」というアナウンスだったかもしれないが・・・。後部座席限定で喫煙可だったのかどうかの記憶もない。当時、私はヘビースモーカーだったから、長時間タバコを吸わずに過ごしたとは思えないから、おそらく喫煙可だったのだろう。

 そんなことを考えていたら、思い出した。車内「喫煙可」だったのだ。サイモン&ガーファンクル「アメリカ」(1968)は、グレイハウンドバスに乗ってミシガン州からニューヨークに向かう若い男女を歌っている名曲なのだが、そこにタバコが出てくる。

 “Toss me a cigarette, I think there’s one in my raincoat”

 “We smoked the last one an hour ago”

 この歌は旅心を刺激するので、歌詞や背景に興味のある人は、ココを。

サイモン&ガーファンクルからの連想で、「卒業」のラストシーンはグレイハウンドだったかなと思い、映像を確認すると、路線バスだった(画像を即座に確認できる便利な時代だ)。ダスティン・ホフマンからの連想で、「真夜中のカーボーイ」(1969)のラストシーンを思い出した。ニューヨークからフロリダに向かう長距離バスに乗っている。そのラストシーンをネットで見ることができるのだが、バス研究者ではない私には、ちょっと見ただけではグレイハウンドであるかどうかの確認はできなかった。長距離バスはグレイハウンド以外にもあるから。映画に登場したバスの会社がどこであれ、車内でタバコを吸うシーンがある。1969年当時は喫煙可だったことがわかる。

 グレイハウンドバスといえば、その昔の「99日間、99ドル」という割り引き料金の宣伝を覚えているが、私が旅するころにはそういう割引切符はなかった。その99ドル割り引き切符以後、乗り放題の日数が短くなり高くなっていったというところまでは知っていたが、今調べてみたら、その種の大幅割り引き料金はなくなっている。今は、グレイハウンドのほかに、メガバスやボルトバスといった会社も参入しているので、利用しやすくなっているが、いちいち切符を買わなければいけないのが面倒だ。

 私がバス旅行をしていたころの長距離バス事情を詳しく知りたくなった。

 ウチのガイドブック・コレクションの棚から1980年前後の『アメリカ』を取り出して、読んでみる。古本屋で昔の旅行ガイドを見つけ、価格が二束三文だと買っていた時代がある。

 ガイドブックに高距離バスの料金が出ている。少し書き出してみる。1980年前後の為替レートは1ドル230円くらいだ。

 ニューヨークーワシントン  4.5時間   19.05ドル

 ニューヨークーシカゴ   17.5時間       61.25ドル

 ニューヨークーボストン    5時間            17.65ドル

 ニューヨークーナイアガラ  12時間    35.15ドル

 外国人旅行者向けに、アメリカ国内では購入できない格安切符がある。グレイハウンドにはAMERIPASSという乗り放題切符がある。私はこの30日間有効のアメリパスを2冊持って、日本を出た。「2冊」というのは、15枚綴りの切符引換券が1冊になっていて、15枚使うと期間内有効のパスをまたくれる。

 15日間有効・・・195ドル(82年には、206ドル)

 30日間有効・・・325ドル(82年には、342ドル)

 この30日有効切符は、日本円にしたら74750円。「1~4月のオフシーズンには30~40ドル割り引き」という注もついている。かすかな記憶では、西海岸から東海岸にいっきに移動するなら、時と場合によっては飛行機の方が安いことがあった。現在は、飛行機の方が確実に安いだろう。試しに、ニューヨークーロサンゼルスの7月出発片道料金をネットで調べると、安いのは25000円くらいからある。同じコースをバスで移動したら料金はいくらか? グレイハウンドのホームページで料金を調べると、209~260ドルだ。1ドル125円として日本円にすれば、26125~32500円ということになる。バス料金はこのくらいだが、航空運賃は探せばまだまだ安い切符があるはずだ。

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1754話 アメリカ・バス旅行1980 その1

 録画したままになっていた「ワールド・トラック・ロード」NHK)を見た。アメリカの番組の日本語版ではなく、日本のオリジナル番組だが、長距離トラックの助手席に乗せてもらって旅をするという番組は、日本のBSでも放送していたから、企画に目新しさはない。それでも、アメリカの大型トラックの車内はどうなっているんだろうかといった疑問のままに見ていたら、これがけっこうおもしろかった。冷蔵庫や電子レンジもあるから後部席はキャンピングカーのようだ。アイダホの養魚場から、西海岸のポートランドオレゴン州)や、南下してラスベガス(ネバダ州)に魚を運ぶ運転手の人間物語というのは、内容の半分。あとの半分は車窓の風景だ。「アメリカの美しい景色を日本人に見せたい」というのが、このドライバーの希望でもある。

 私は、いわゆる風光明媚には興味がないのだが、明媚ではないただの風景をポカーンと眺めているのは好きだ。畑や森や住宅地や工業地帯などをバスや鉄道の窓から眺めているのが好きだ。10時間でも20時間でも、飽きないのだ。畑の作物は何なのか考えたり、住宅の姿を見ているだけでも楽しい。

 番組を見ながら、「また、アメリカバス旅行をするのもいいな」と思った。1980年に、ロサンゼルスから転々としながら南回りでニューヨーク、そしてそのニューヨークからシカゴ経由の北回りでまたロサンゼルスに戻るバスの旅をしたことがある。アメリカ各地を移動しつつ、「自分の仕事史」を語ってもらうというある週刊誌の企画で、取材地も取材対象者も自分で探す。貧乏企画だから、もちろんコーディネーターも通訳もいない。数週間分の原稿とフィルムをまとめて郵便で送るというアナログ時代だ。

 編集部は何のお膳立てもしてくれないが、それは逆に言えば、自由な取材ができるということだった。取材の移動手段としてバスを使っただけだから、自由気ままな旅を楽しんでいたわけではないが、グレイハウンドバスの乗り放題切符を使って1万キロ以上の旅をしたことになる。そんなに乗っていても、退屈したことなど一度もない。

 サンフランシスコにいたとき、カリフォルニア州の州都サクラメントに電話をする用があったが、電話代が高い。カネはないが、バスの乗り放題切符は持っているから、電話をするためにサクラメントを往復したことがある。片道150キロほどの移動だから、たいしたことはない。

 NHKのこの番組で、バックに3曲流れた。1曲目は知らない歌だが、カントリーだ。シカゴから携帯ラジオを聞きながら移動したアイオワとかネブラスカといった地域では、24時間カントリーが流れていたような気がする。番組で2曲目に登場した歌を聞いて、「やっぱりな」と思った。ウィリー・ネルソンの「On the road again」。3曲目はイーグルスの「Desperado」というのは私の好みではベタすぎる。

 NHKのテレビ番組で見るアメリカの雪道や砂漠や、ただのなんということもない道路や道路脇のドライバー用の店など真新しさはないが、なつかしさはある。

 昼食休憩で立ち寄ったドライブインのペーパーバックの円筒形スタンドで、リチャード・ブロディガンの”The Abortion: An Historical Romance”(日本版タイトル『愛のゆくえ』)を買った。再販制度のないアメリカだから、何年も風とホコリを浴びてきて変色したペーパーバックだった。安物の探偵物やサスペンス小説ばかり集められているスタンドに、この1冊が場違いに置いてあった。その勢いで、ニューヨークの古本屋で、やはりブロディガンの”Sombrero Fallout: A Japanese Novel”(日本版タイトル『ソンブレロ落下すーある日本小説』)を、装幀を気に入って買った。そんなことを思い出した。別に、ブロディガンが好きではないんだけどね。

 現在のバス料金はどうなっているのかなと調べているうちに、昔のバス旅行がじわじわとよみがえってきた。

 私の旅の1年前、1979年に『地球の歩き方 アメリカ』が発売されているが、書店で見た記憶はない。出たばかりの、そのガイドブックを持ってアメリカに向かった若きグラフィックデザイナーが、かの天下のクラマエ師である。43年前だぜ、蔵前さん。

 

 

1753話 旅行費用の支払い方

 トラベラーズ・チェック(TC)といっても、旅行用小切手といっても、若い人には何のことかわからないだろうが、サインをすれば現金のように使える小切手だ。クレジットカードも持てない旅行者や、持っていてもカードが使えるような宿には泊まらないという個人旅行者たちは、現金とTCを持って旅をしていた。そのTCが2010年代に次々に発行を停止した。

 現在は、欧米の旅行なら、国によっての違いはあるが、基本的にはクレジットカードやプリペイドカードなどと多少の現金があればおおむね間に合うと思う。イタリアでの体験だが、鉄道の切符は、クレジットカードを使って自動券売機で買うのが普通で、職員から現金で買うと手数料分が上乗せされる。

 アジアやアフリカ&ラテンアメリカなどでは、国にもよるが現金の方が便利なことが多い。中国はVISAなどは使えないし、現金も使いにくくなり(世界的に有名なにせ札大量生産国だから)、中国のクレジットカードやプリペードカードを用意するとかいろいろ面倒なようだが、中国に行く気はないから、私にはどーでもいい。

 しばしばインドに出かける某氏に、「旅行費用はどういうかたちで持っていくの?」と聞いてみた。

 「ドルが安い時にまとめて両替したから、出かけるときに、そこから必要と思うだけ現金を持っていくだけさ」

 私の脳内では、某氏の自宅金庫に、菓子箱に入った各種現金がたっぷりあり、そこから100ドル札を「まあ、こんなもんかな」とひと束つかみ、10ドルと1ドル札を適当に混ぜて袋に入れている姿が浮かぶ。インド亜大陸でも金持ち観光客の旅をするなら、クレジットカードとチップ用小銭があればいいだろうが、田舎街の安宿を巡る旅なら、やはり現金がいちばんだろう。

 私は、「念のため」のクレジットカードは持っていくが、基本的には現金派だ。タイに住んでいたころは、銀行口座を作るのは簡単だったから、交換レートがいい両替所で日本円をまとめてバーツに両替して、口座に入金した。カネが必要になれば、ATMで引き出した。1990年代は高金利だったので、カネをかなり多めに入金したままにして帰国し、翌年タイに戻ってくると、結構な利子がついていた。私には縁のないことだが、かなりの高額を定期預金にすれば、10%以上の利子がついたという時代だ。

 ヨーロッパ旅行の場合は試行錯誤をしたが、面倒がないので、ユーロ圏に行く場合なら、成田でまとめてユーロに両替している。クレジットカードは緊急事態用だから、普段は使わない。バルト三国の旅でも、緊急事態はなかったし、いつものように買い物はしなかったので、多めに両替しておいたユーロは残った。「また、来年」と思っていたから、帰国しても日本円への再両替はしなかったから、ユーロ札も私も、コロナのせいで日本で蟄居謹慎生活をすることになった。

 今日のニュース(6月9日)で、米ドルは135円、ユーロが140円を超えたと報じている。手元のユーロは、もちろん現在よりもずっと安く買ったから、差額を計算すると、今売れば1万円ほど儲けたことになる。

 某氏の金庫に積まれている米ドルの皮算用をすると、2019年に2回か3回分の旅行費用として1万ドルを両替したとする。当時のレートなら105万円くらいだ。コロナ禍で旅行ができないから、金庫のドルには手をつけていない。1万ドルであることは変わりがないが、日本円にすれば135万円になっている。再両替すれば30万円ほどの儲けになる。私は、また旅に出るから、少額とは言え日本円に再両替する気はない。おそらく、某氏も同じだろう

 外貨預金をしようかどうか迷っていた人は、さぞかし皮算用を繰り返しているにちがいない。