1823話 校正畏るべし その2

 

 前回、文章にでてくるあるものが、見えるか見えないかという話を書いた。例えば小説の中で、主人公が小学生時代、母親とよく散歩した寺の境内から富士山を眺めたという描写があったとする。「地理的に、その寺からは、富士山は見えません」とか、「富士山を見ていたのは、もしかして隣りの市の、山頂にある〇〇寺ではありませんか?」などと鉛筆で記入するのが、校閲者の仕事だ。著者が、「母との思い出の風景なので、事実はどうでもいいんです」とするなら、それで終わりだが、ノンフィクションなら事実を書かねばならないと、私は考えている。

 このように、見える、見えないという話を考えていて、私の本のことを思い出した。

 『アフリカの満月』(旅行人、2000)のなかで、ケニアラム島のことを書いた。ソマリアとの国境の旅を終え、ラム島の対岸のモコウェに着いたのはすでに夜で、小舟に乗ってラムに向かった。腕を左右に伸ばせば舟のヘリをつかめるほどの小舟で30分ほどかかるが、大河の横断ではなく、航海だ。その夜は満月でしかも空には満天の星。明るい凪の海に、夜光虫が見えた。ファンタジー映画のような光景だった。

 それが私の記憶で、見たままを文章にした。しかしだ。校正するときに、「満月の夜に満天の星も見えるか」という疑問が沸き上がってきた。編集をしている蔵前仁一さんも同じ疑問があったようで、ゲラ(原稿を本の文章のように組んだもの)に、「これでいいんですね?」というエンピツの書き込みがあった。「はい、私はそのように記憶しています」と返事を書き、そのまま『アフリカの満月』という書名で本になった。だが、「記憶違いかなあ・・」という疑問はその後も続いた。数年後、テレビの紀行番組で、見た。それがモンゴルだったかカナダだったか忘れたが、満天の星の夜空に満月が浮かんでいた。私の記憶は正しかったのだ。

 話を『文にあたる』に戻す。

「誕生日はいつですか」という章。片岡義男の生年は、資料によって、1939年説と1940年説がある。どちらが正しいのか本人に直接問い合わせた編集者の話が、八巻恵美のブログ「水牛だより」のなかの「片岡義男さん、誕生日はいつですか?」というコラムで書いていると、著者が教えてくれる。

 誕生日の正解は、こうだと片岡本人が語る。「昭和14年を西暦に換算するときに僕が計算をまちがえたのでしょう」

 「本人が書いているから間違いなし」とは言えないという例だ。

 『文にあたる』は図書ガイドでもあるから、読みたい本があるとすぐ注文した。『増補版 誤植読本』(高橋輝次編著、ちくま文庫、2013)は、届く前にウチの書棚に2000年の東京書籍版を見つけた。ぼんやりとした記憶で、「読んだかなあ」とは思ったのだが、「増補版」に釣られて注文したのだ。『増補版 誤植読本』に外山滋比古の「校正畏るべし」というエッセイがある。実はこの言葉は、結婚式の挨拶の「三つの袋」くらいよく使われる表現で、校正の本では毎度おなじみなのだが、このエッセイで出典を初めて知った。論語の「後世可畏」(こうせいおそるべし。若者はいずれ優れた人物になるかもしれないから、畏れなさい)が元で、それを福地桜痴がしゃれで使ったという。「畏れる」は、「恐れる」や「怖れる」と意味は同じだ。なーるほど。

 『文にあたる』で紹介している本で、「欲しい」と思ったがブレーキをかけているのが、『おいしさを伝える レシピの書き方Handbook』(辰巳出版)。書名ではレシピの書き方指南の本かと思ってしまうが、著者は「レシピ校閲者の会編」なのである。写真の料理は、このレシピではできないとか、サツマイモを使うことになっているが、ジャガイモ料理の写真だとか、調味料の分量はこれで正しいのかといった、レシピ専門の校正者がいるのだ。アマゾンの「ほしい物リスト」に入れておいたが、おもしろそうな予感がするので、たった今注文した。

 考えてみれば、医学書や、化学関連書や、植物関連書や、外国語に関する本などは、おそらくは元専門書の編集者が校正を担当するのではないかと思う。そういう図書の校正の話は、あまりに専門的だから、一般書では出版されないのだろうがぜひとも、読みたい。地図や統計の校正なんか、つらそうだ。もっともつらいのは、株式市況や名簿や鉄道時刻表などだ。ガイドブックなどの住所や電話番号の数字の校正は、私には拷問だ。競馬新聞に誤記があれば、場合によっては編集部が焼き討ちされるかもしれない。考えただけでも足がすくみ腹痛を起こしそうだ。

 そういえば、思い出した。『まとわりつくタイの音楽』(めこん、1994)を書いたとき、編集者の桑原さんは「さすがに、今回の本は知らない人の知らない話ばかりだから、自分で校正をしっかりやってね」と言われた。少なくともあの当時、タイ音楽の本の校正・校閲ができる人は、音楽評論家の松村洋さんしかいなかったと思う。

 『文にあたる』は、大絶賛本なのだが、1か所だけ気になったことがある。その話は次回に。

 

 余話:「旅行人」愛読者にはおなじみの建築家にして世界の建築レポーターの渡邉義孝さんの『台湾日式建築紀行』KADOKAWA)が出たとアマゾンで知った。どうして、台湾の本は、欲しくなる本ばかり出るのだろう。このふた月ほどの間に買ってまだ読んでいない本が十数冊あるから、この本を今は買わないが・・・。

 

 

1822話 校正畏るべし その1

 

 神保町の東京堂でおもしろそうな本を漁っていて、校正校閲に関するエッセイ集『文にあたる』(牟田都子、亜紀書房、2022)を見つけたので、すぐさま買った。東京堂は、出版業界人がよく利用する書店としても有名で、立花隆も愛用者だったらしい。だから、校正校閲といった基本的には出版人しかなじみのない仕事の本が、この書店のベストセラーになっているのはわかるが、2022年8月初版1刷で、私が買ったのは10月の3刷だ。初版3500部で、1000部ごとの増刷か? 今の出版事情では、500部の増刷かな。

 売れているのは訳があると思う。いままで出版された校正本や、日本語エッセイとはかなり違うのだ。私も出版業界に小指1本でぶら下がっているから、校正や日本語を含む言葉の本を多く読んでいて、いままでどういう本がでているのかだいたいわかっているし、すでにアジア雑語林363話(2011-09-29)から全10話でその分野のエッセイを書いている。

 従来の校正のエッセイだと、「つましく」と「つつましく」の違いとか、「役不足」と「力不足」の違いを説明したり、いわゆる「ら抜きことば」をどうするか。あるいは漢字の間違いを指摘するといった内容が多い。この分野では、「捧腹絶倒の校正本の奇書」と言えるのが、『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)だが、正統派の校閲本の傑作がこの『文にあたる』だ。言葉のうんちくの本ではなく、校正者の成長や迷いや気質にも筆が進む。どちらかというと、文章の正しさや統一性を問う校正よりも、文章の最深部まで踏み込む校閲の話が多い。自分の経験談よりもむしろ、同業者の仕事の話が多い。

 『文にあたる』は、ある本の紹介を1回分のエッセイにするという構成にしているから、本の紹介本でもある。

 「全部コピーさせてもらうなら」という章の話はこうだ。『村上海賊の娘』(和田竜)を担当した校正者は、執筆に使った史料はすべてコピーさせてもらい、正しく引用しているかという点検だけでなく、史料の解釈が正しいのかどうか検証したのだという。

 「全部読む仕事」という章は、『わかりやすい民藝』(高木崇雄)を取り上げている。『柳宗悦全集』のどこを探しても「用の美」という語を見つけられないという記述を読んで、調べるのが仕事の校正者の職業意識を刺激した。「用の美」は私でも知っている言葉で、美術品ではなく実用品・日用品にも美があるという意味だと解釈しているのだが、柳の『全集」にはその語はないという文章が正しいのかを証明するには、全22巻の『全集』を読むしかないが、そんな時間はない。「全集にはない」ことの証明をしても、「ここにある」という証拠を見つけないと、「柳は『用の美』とは書いていない」という証明にはならない。著者がこの章で書こうとしているのは、「校正者の限界」である。ないことの証明は、校正者にはできない。

 校正者は事実の確認が仕事とはいえ、場合によって違ってくるという話も出てくる。現実的には見えない物が「見える」と書いてあっても、文学の場合は「心の目で見ている」という解釈も可能だが、ノンフィクションなら校正者は「そこからは見えません」と指摘するべきだ

 この話、長くなりそうなので、「次回につづく」にしよう。

 

 

1821話 キンパ

 

 韓国の言葉や食べ物などのエッセイを多く書いている八田靖史さんが、「もう『キンパ』はあきらめた」といった内容のエッセイを書いていた。出典は、失念。

 韓国ののり巻きは日本から伝わったもので、昔は日本語そのままに「のりまき」と呼ばれていたが、のちに韓国語の名前を付けて「キムパップ」とした。キムは「海苔」、パップは「飯」の意味で、直訳すれば「海苔飯」となる。ローマ字表記すればkimpapで、ウィキペディアでは「キムパプ」を見出し語にしている。

 韓国式のり巻きが日本人にもよく知られるようになると、「キムパ」、そして「キンパ」と書かれ、呼ばれるようになった。韓国語を教えている八田さんとしては、飯は「パ」ではなく「パップ」なのだといくら説明しても「キンパ」の名で広まり、「キムパップが正しい」といくら言っても「キンパ」が使われて、もうお手上げだと敗北宣言したのが、八田氏のエッセイだ。

 世間でよく知られている川柳に、「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」というのがある。Goetheに「ゲョエテ」、「ギョエテ」、「ギョーツ」など数多くあったらしい。ラフカディオ・ハーンは出雲では「ヘルン」であり、ローマ字表記の「ヘボン式」のヘボンとは「ヘップバーン」の日本語訛りだといった例はいくらでもある。最初にどうカタカナ表記するかが重要で、しかし、どう工夫して表記を決めても、日本人の発音しやすいように変化するという現実もある。

 どの外国語かに限らず、その発音をカタカナ表記するのに苦労するのだが、ことに語尾の子音をどうするかという問題だ。私は1980年代からタイのことを書くことが多くなったのだが、タイ語のカタカナ表記に苦労した。料理用語も芸能用語や人名など、私が最初にカタカナ表をすると、のちにそのまま広まる可能性もある。

 タイ語で「炒める」は、ローマ字表記をすればPhatなのだが、1990年代だと、そのカタカナ表記は次のようなものだった。

 パット

 パッ

 パ

 パッ(ト)

 私は「パット」と書いていたが、決して多数派ではなかった。「聞いたままを書く」という人は、語尾のtを無視していた。「聞こえない」ということは「発音しない」と説明している人もいた。発音しないなら、語尾がtでも、kでも、pでも同じ発音になるはずだが、そうはならない。”t”を、日本人のように”to”と発音しないのであって、「”t”がなくても同じ」ではない。

 韓国料理キムパップが、日本で広まるにつれて「キンパ」になってしまうのと同じように、タイ料理ではカーオパット(炒飯)を「カオパ」、バジル入り炒めの「パット・バイカプラオ」が「ガパオ」になってしまった。フランス料理の「côtelette」(コートレット)が、「カツレツ」になったのだから、文句を言っても始まらない。なるようになると思うしかない。

 「地球の歩き方」など、海外ガイドブックでは、初めてカタカナ表記される地名人名や料理名などが多くあるだろう。言語監修者がいるようだが、大変な作業だ。「どう表記するか」は人それぞれという部分が多く、私の体験では、言語学者など、ある地域の専門家ほど、言語の発音にこだわって、おかしな表記をする例が少なくない。例えば、キムチはkimchiと、mに母音がないからと、ムを小さな文字で表記した人がいた。「キ(ム)チ」という表記もあった。同じく韓国語ではある姓を「クォン」と表記する人がいるが、日本人には「クオン」か「コン」としか発音できない。発音できなカタカナ表記は、意味がない。「ヴ」も、日本人には発音できないのだから使うなという話は、すでに何度か書いた。

 

 

1820話 サハラ砂漠やチゲ鍋といった表現について

 

 「サハラ」は沙漠という意味だから、「サハラ砂漠」はおかしい。

 「チゲ」は、韓国料理のひとり用鍋物のことだから「チゲ鍋」はおかしい。

 モロッコの「タジン」は、円錐形のフタがついた土鍋のこと。あるいはその鍋を使った料理のことだから、「タジン鍋」はおかしい。

 こんな知ったかぶりはまだできるだろうが、近頃、「でもなあ・・・」と思うようになった。

 もうだいぶ前の話だが、書店で文庫本をあさっていた時、ケープコッドを舞台にした小説の「訳者あとがき」を立ち読みした。なぜその小説を手にしたのか覚えていないが、作者に興味があったのかもしれない。

 ケープコッドはアメリカ・マサチューセッツ州の地名で、ケープは岬、コッドはタラのことだから、直訳すれば「タラ岬」となる。これを翻訳者は本文で「ケープコッド岬」と訳した。もちろん原語の意味はわかったうえで、日本人の誰もが「ケープは岬のこと」と知っているわけではないのだから、岬で起きた出来事だということをはっきりさせるためにあえて、「ケープコッド岬」としたという意味のことを書いていたと記憶している。

 特に理由もなく、突然そんな昔のことを思い出して、考えた。「もし、日本を舞台にした小説が外国語になるなら」という連想が沸き上がってきた。

 英語の文章だとする。山の名前ならどうだ。Mt.Fujiが富士山だということはよく知られているが、その例にならってやっていいのか。

 北岳(きただけ)はMt.Kita?

 立山(たてやま)はMt.Tate?

 白山(はくさん)はMt.Haku?

 大山(だいせん)はMt.Daiか?

 それなら、北海道の昭和新山はMt.Shouwasinか? 山形の月山(がっさん)はどう書くのかといった問題が出てくる。。

 だから、「間違いだ」と指摘されても、Mt.Kitadake、Mt.Tateyama , Mt.Hakusan、Mt.Gassanなどと書きたい。

 川で言えば東京の荒川が、Ara Riverでは座りが悪い(余談だが、いま荒川の英語表記を巡って調べていたら、アイルランドアラ川があることを知った)。同じ方式でローマ字表記をするなら、中川や淀川や紀ノ川なども座りが悪い。

 日本を舞台にした小説なら、説明を補ってKino Riverという表記もありうるが、ガイド的な文章なら山も川も通りの名前も日本語名にそれぞれの外国語で「山」や「川」だとわかる語を補った方がいい。

 とは言え、固有名詞は外国人には難しい。イタリアとフランス国境にあるヨーロッパ最高峰の山を、フランス語ではMont Blanc、イタリア語ではMonte Biancoという。いずれも「白い山」という意味だから、「モンブラン山」とすると、「モンは山のことだからおかしい」と指摘する人がいるかもしれない。日本語の文章では「ブラン山」と訂正するか? モンブランくらい有名な山なら、「モンブラン山」としなくてもわかる日本人は多いかもしれないが、ほかの山、ドイツやイタリアなどの山だとどうするかという問題も考えると、基本的に「山」や「川」や「岬」といった語はつけた方がいいという考えが強くなってきた。

 そういうわけで、「チゲ鍋やタジン鍋を笑って、知ったかぶりをするな」という考えになってきたという昨今である。

 

 

1819話 阿川弘之とスタインベック

 

 阿川弘之の『空旅・船旅・汽車の旅』(中公文庫、2014。解説:関川夏央)の親本が出版されたのは1960年だから、1950年代の乗り物の話だ。

 日本のドライブの話は、雑誌「日本」の企画で行なわれた、1958年の東北・北陸旅行を描いている。阿川夫妻に編集者とプロドライバーの4人のドライブだ。車は56年製のクラウン。走った道路の95パーセントは「一級国道」だそうだが、制限速度の30キロを超えることはなく、平均22キロくらいだという。すさまじい悪路がその原因だ。写真を見ると、たんぼ脇の農道も雨季のラリーの道も、これよりはマシだろと思われる泥道が、当時の国道だというから驚きだ。

 日活映画で見る「かっこいい銀座」の時代、東京の中心部を外れれば、車にスコップを積んでいないと安心して走れないような道だ。同じ時代、東南アジアを走った日本の自動車工業会のルポでは、ベトナムカンボジアも、さすがフランスの元植民地で道路が素晴らしいが、タイに入った途端、日本のような洗濯板の道路になったといった文章があった。

 「昭和37年には、一級国道の70パーセントは舗装を終わる予定だ」というから、1958年(昭和33年)当時は「国道でさえ、舗装してないのが当たり前」だったようだ。

 空の旅は、スチュワーデスの思い出話が載っている。同業組合の団体旅行は、機中で宴会が始まり、はち巻きをしめて、のど自慢。持ち込んだ弁当などのゴミは座席の下に押し込む。夏は、上着もズボンも脱いで、シャツとステテコ姿になる・・・といった行状は、観光バスの団体旅行のままだという。乗ってきたとたんにズボンを脱いで、ステテコ姿になったじーさんを、私は新幹線と国際線機中で目撃したことがある。1970年代の話だ。

 1956年、ロックフェラー財団の招待でアメリカ留学したおり、49年型のフォードでドライブをした旅行記が、「アメリカ大陸を自動車で横断する」だ。

 「サンフランシスコから南へ、サン・ノゼ、ギルロイ、サリナス、モントレーあたりの住人は・・・」という文章を目にして、この本とはまったく関係のない本を思い出した。スタインベックにまつわる地名だ。

 1974年バンコクアメリカ人旅行者から「これ、読み終えたばかり。すごくいいよ」といって手渡されたのが、スタインベックの”Sweet Thursday”だったという話は、248話ですでに書いた。すぐに読み始めたのだが私の英語力では物語に入って行けなかった。帰国して日本語訳を探したが見つからず、そのまま長い長い月日が流れた。

 そして、2022年になって、阿川弘之の文章で、読めなかったスタインベックの本を思い出した。1970年代はコンピューターで検索することはできなかったが、今なら日本語訳の本をすぐに見つかるだろう。ノーベル文学賞受賞作家なのだから、当然だ。

 調べた。新潮文庫かなにかで簡単に見つかるかと思ったのだが、文庫も単行本も見つからない。ただし、スタインベック全集第9巻に、「キャナリー・ロウ」「たのしい木曜日」(訳: 井上謙治/清水氾・小林宏行・中山喜代市)が入っているとわかり、48年間の空白を埋めようと、ネット古書店を調べると、アマゾンで見つかったが、30200円! こんな値段がついているということは、どこの出版社も、「出しても儲からない」と思っているからだろう。しかたがないから、図書館で借りるか。

 阿川弘之アメリカドライブを楽しんだのは1956年。スタインベックの小説『エデンの東』の出版は1952年で、映画化は1955年。ノーベル文学賞受賞は1962年。68年に66歳で死亡。阿川の旅行記に、スタインベックの名は出てこない。

 

 

 

1818話 韓国料理の辛さ

 

 砂糖の資料はいろいろあるのだが、トウガラシの輸入や消費量などの日本語資料がなかなか見つからないのだが、根気よく探していたら、幸いにもこんな資料が見つかった。

 「Wedge online」(2016年9月15日)に「中国産の流入で危機に瀕する韓国のトウガラシ産地」という見出しの記事がある。それによれば、韓国では2000年ごろから中国からのトウガラシ輸入が増えて、この記事の執筆時点の「現在」で、トウガラシの国内消費量の7割近くは中国産だと報告している。

 信用できる資料かどうかわからないが、「韓国では、国内産トウガラシは2割くらいしかない」というネット情報もある。2016年で「およそ7割が輸入」というなら、現在「8割が輸入」でもおかしくない。輸入しているのはトウガラシだけでなく、キムチなどトウガラシが入った加工食品の中国から輸入している。別の言い方をすれば、現在の韓国料理の辛さや赤さは、中国産トウガラシが大きく影響しているということになる。外食産業や軍隊や学校給食のキムチは、ほとんど中国産だという。

 数十年前の韓国料理は、いまほど赤くなかった。白菜キムチの写真を見ても、いまほど鮮やかな赤ではない。ウィンナーソーセージのような形のモチ(うるち米)であるトッポッキは、日本人にはケチャップ炒めのような赤い料理だが、食べてみれば辛く甘い。

 「トッポッキって、昔は醤油で煮た料理だったよね」と話していたのは、韓国の食べ物番組に出演していた中年の韓国人。こういう料理のようだ。醤油煮込みだった料理に、砂糖とトウガラシを入れて真っ赤にしたのが現在主流のトッポッキだ。昔ながらの醤油トッポッキも商店街のなかで残っているのを、やはり韓国のテレビ番組で見た。

いくつかあるトウガラシ消費量の資料を見る。たとえば、「暮らしの里 菊池」に、こうある。

 「白菜1株当たりの唐辛子の平均使用量は、1930年代に5・75㌘だったものが徐々に増え、2010年代に至っては71・26㌘になっていた。なんと12倍だ。農林畜産食品部(省)のデータでは、国民1人当たりの唐辛子の年間消費量も1970年の1・2㌕から2010年代には3㌕以上に増えている」。

 トウガラシ消費量の比較は、時代の変化であれ、外国との比較であれ、どういう種類のトウガラシで比較しているのかを明らかにしないと意味がない。タカノツメとパプリカの100グラムでは、辛さはまったく違う。いくら韓国人でも、12倍の量のタカノツメを入れたキムチでは、とても食べられない。

 私の想像では、1960年代か70年代ごろか、あるいはもっと遅い時代まで、日本のトウガラシとあまり変わらないトウガラシを使っていたが、そこにパプリカ系のあまり辛くないトウガラシが入ってきて、韓国料理がたちまち赤くなったのではないか。韓国人にとって赤い色は、邪気を払い幸運を呼ぶ色だから、料理をより赤くしたいのだろう。

 その、甘味種のトウガラシは中国からの輸入ではないかと想像し、資料を探したのだがわからない。ここ数十年の間に、韓国では砂糖と、パプリカのような甘味種のトウガラシを大量に使うようになり、赤く、照り、甘い料理が増えていったのではないか。キムチの甘味は、家庭ではナシなどの果物を使っていたが、工場での大規模生産体制になり、あまり辛くないトウガラシと砂糖類(砂糖や、オリゴ糖麦芽糖など)を入れて、色あざやかにして、口あたりもよくなったのではないか。

 こういう私の仮説を、誰か学問的に点検してくれないか。韓国料理研究家という人たちが日本に何人もいるが、食文化史の研究はどのくらい進んでいるのだろうか。鶏肉料理の話も、韓国ブロイラー史の話を抜きにしては語れないのに食べ歩きとレシピの本がほとんどだ。

 

余話『タイ日大辞典』(めこん)のことでちょっと気になることがあって、めこんにメールを送ったら、社主の桑原さんから電話があった。もう1年以上話をしていないが、健在なのはめこんのHPでわかっている。「僕は元気にしているから、いつでも事務所に遊びに来てよ」と言ってくれたが、ここ数年アジア研究者や身内に不幸が続き、落ち込んでいるという。大御所がなくなるのは、「まあ、そうか」と思えるが、研究者として現役のまま亡くなる人が多くなった。「桑原さんと会ったとき、20代なかばだった若者が、今年なんと70になりましたからね」というと、「そう、あの頃会った佐野真一も死んだね」と、老人の会話になった。

 

 

 

1817話 韓国料理の甘さ

 

 タイ料理同様、「韓国料理は辛い」と言われるが、私には甘さが気になっている。砂糖、水あめ、オリゴ糖などをたっぷり入れた料理が苦手だ。

 韓国の料理が昔から甘かったとは考えられない。サトウキビもテンサイも栽培できないからだ。歴史的に言えば、朝鮮の甘味は、ハチミツと水あめだ。水あめは麦芽を加工して作る。砂糖は長年貴重品だった。

 韓国の食番組で「砂糖の輸入が自由化されたのは1980年代だ」という発言があったが、資料で確認できない。日本の、「独立行政法人 農畜産業振興機構」の資料「韓国砂糖産業の概要」には、砂糖の輸入が自由化されたのは1994年1月で、「韓国政府は精製糖の輸入を解禁し、60%の関税を課した。1996年7月には、精製糖に対する関税を50%に削減した」とある。韓国の製糖業は、原料が国内でとれないから、原材料を輸入して国内で砂糖に仕上げていた。製糖業に競争はなく、高値安定していたうえに、砂糖の輸入は制限されていたから砂糖は高価だった。砂糖価格が一気に下がるのは2011年以降だ。今では、国民ひとり当たりの砂糖消費量は、日本が17キロであるのに対して韓国は30キロを超えているという。ついでだからもう少し詳しく書くと、農林水産省の「砂糖及び加糖調製品をめぐる現状と課題について」という報告書では、「砂糖の1世帯当たり年間購入数量は、30年前の約10kgから半分以下の4.4kgまで減少」し、「日本の砂糖の一人当たり消費量は30.4kg(昭和49年)から16.2kg(令和元年)へと45年間で半減。また、他の欧米諸国と比べても半分程度と低い水準」とある。つまり、韓国の砂糖消費は2倍に増え、日本で半減したという興味深いことになっている。韓国の砂糖消費量が急増したのは、砂糖が自由に安く買えるようになったのが、日本よりもかなり遅かったからだろう。

 韓国の料理が甘くなったのはいつからか。

 韓国の俳優ユン・ヨジョンが、昨年アカデミー賞を受賞し、今年2022年にプレゼンターとしてロサンゼルスを訪れる機会を利用して、様々な仕事をこなし、旧友と会う日々をドキュメントにした番組「ユン・ヨジョンの思いがけない旅程」を見た。。ロサンゼルスの韓国料理店で買ってきたジャージャン麺を、ユン・ヨジョンと同行したの俳優のイ・ソジンとプロデューサーの3人で食べるシーンの会話。

 「ここのは昔のままの味」

 「甘くないね」

 「ロサンゼルスで食べる韓国料理は、昔の味を守ろうとしている」

 「甘くないからおいしいわね」

 アメリカに移住する韓国人が一気に増えたのは、1980年代で35万人もいた。韓国系アメリカ人は1990年に70万人、2015年には180万人ほどいるらしい。こういう歴史を考えると、1970年代から80年代の韓国料理がアメリカに持ち込まれて、そのまま定着保存したと考えられないか。1947年生まれのユン・ヨジョンなら、1970~80年代の「甘くない」韓国料理を覚えていても不思議ではない。

 韓国料理の甘さの次は、辛さの話。赤くなった韓国料理の話を、次回に。