2153話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その48

韓国も日本も、変わった 9 コーヒー1

 2139話で、1984年に取材で韓国人家庭を訪問したという話をした。

 取材させてもらうことへの謝礼をどうしようかという話は、編集部とはしてなかった。取材費に多少の余裕があるから「ほんのお礼」程度の額なら支払えるのですがと、通訳の女性に相談した。彼女は戦前期の神戸で女学校生活を送り、戦後韓国に渡ってきたという経歴で、私の母よりちょっと若いというくらいの年齢だったから、相談相手にふさわしい。

 通訳さんは「お金は失礼でしょう」と言った。ソウル大学卒業で金融機関勤務だから、はした金を包むのはかえって失礼だから・・・ということで、モノを持って行くことにした。夫には酒。ジョニー・ウォーカーを買ったが、赤だったか黒だったかの記憶はない。妻と子供用にケーキ。ホテルでホールケーキを買った。あやふやな記憶だが、当時は街のどこにでもケーキ屋や店で焼くパン屋がある時代ではなかったと思う。取材謝礼は家庭用にもう1品、ネスカフェを1瓶。ウイスキーとコーヒーは、アメ横にあるような小さな店で買ったから、茶色の紙袋に入れただけだ。どこかの市場の売店のような店だったと思う。買い出しのおばちゃんが日本から担いできた商品かもしれない。

 87年の取材では、取材を手配してくれた若者と喫茶店に行った。運ばれてきた盆に熱湯が入ったカップ、記憶か確かではないがインスタントコーヒーの瓶もあったような気がする。そして、プラスチックの容器に入った砂糖と粉末のコーヒーミルクをのせて、テーブルに運ばれてきた。ファストフード店のような、安っぽい内装の店だった。

 こういう文章を書いたすぐあと、ある雑誌から依頼された食文化の原稿に使う写真を探して、過去に撮影したスライド写真を点検した。「韓国」と書いたラベルが貼ってある箱を見つけたので、数十年ぶりに箱を開けてみた。依頼された原稿と韓国は関係ないが、今こういうブログを書いているから、ちょっとした好奇心だ。

 韓国の写真は、取材と関係するものはすべて出版社に渡したが、私的に撮影したものは手元にある。そのなかに、上に書いた喫茶店の写真もあった。「変なシステムだなあ」と思ったから、撮ったのだ。インスタントコーヒーの瓶がテーブルにあったかもしれないというのはフィリピンのコーヒーと混同していた。フィリピンではネスカフェ―の瓶ごとテーブルに運ばれてきたが、ソウルではカップには熱湯で溶いたインスタントコーヒーが入っていた。小さな盆に、砂糖と粉末ミルクが入っている。薄いコーヒーだった。

 韓国語で、コーヒーはコピという。インドネシア語(マレー語)と同じkopiじゃないかと思った記憶がある。ちなみに、タイ語でもベトナム語でもカタカナにすれば「カフェ」の音になり、Fの音が発音できるのだが、FがPに変わるのはマレーやフィリピンだ。フィリピンは国名からして、英語で「フィリピンズ」だが、フィリピンの言葉では「ピリピナス」だ。だから、フィリピンでもコーヒーはkopiだろうと想像したが、kapeカペだ。ちなみに、フランス語caféは英語ではcafeだが、発音はカフェイ。フィリピン語では、fがpに変わるから、カペ。

 韓国語のコーヒーは、どう聞いても「kopi」と聞こえるのだが、韓国人は「gabi」と書きたがるようだが、もちろんガビと発音するわけではない。しかし「GABI」という韓国映画がある。このタイトルでは内容が想像できないが、一応見てみた。韓国コーヒー黎明期という映画で、解説を読むと史実に近いという。とはいえ、19世紀末に王がコーヒーを飲んだとて、それから韓国でコーヒーが広まったわけではない。

 『ソウルの練習問題』で、関川さんは韓国を含めた「東アジア、および東南アジアのコーヒーの濃さとまずさは定評のあるところだ」として、東京に住む者はここ十年ほどの間に、薄いコーヒーを好むようになっていて、関川さんも韓国でデニーズの薄いコーヒーが飲みたかったと書いている。別の本では、GDPが高くなると、コーヒーは薄くなるという考察を書いている。

 関川さんは、どこでどんなコーヒーを飲んでいたのだろうか。「濃すぎる」と感じたとすれば、ホテルのコーヒールームのコーヒーだった可能性が高い。

 1979年のソウルのコーヒーと喫茶店の話は、長くなるので次回に続く。

 

 

 

2152話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その47

韓国も日本も、変わった 8 地下鉄3

 日本を旅行する韓国人の動画は、YouTubeにいくらでもある。日本語のものは、日本在住韓国人が家族友人知人に日本を案内するという企画が多く、たいていは「初めて食べる日本の味」といったものだ。食のほかの日本体験シリーズでは、「電車に乗る」をテーマもある。新幹線乗車体験ではなく、電車体験の場合、車内に乗り込んで、座った瞬間に韓国人旅行者は「ふん?」という顔をする。そうでしょ、そうなんだよと、その動画を見ていて思う。逆に、初めてソウルの地下鉄に乗った日本人の動画があったら、同じように「ふん?」という表情をするだろう。日本の座席は柔らかく、ソウルの座席は硬いのだ。

 地下鉄の座席は、ステンレス製のものと、布製とプラスチック製の3種あるようだが、プラスチック製の座席を見た記憶がないが、確実に座っていると思う。布製といっても、日本の電車のようにふかふかの長椅子ではなく、プラスチックの座面にカバーのように布が張り付けてあるだけだからだ。布をはがしてみたわけじゃないので、コツンコツンと叩いた感触では金属ではなく、プラスチックだと思う。

 ソウルの地下鉄のことを調べていて、1987年に初めて地下鉄に乗った時のことを思い出した。「やっぱり、日本と同じだな」という感想だったことを思い出したのだ。韓国の地下鉄は、日本の円借款で建設し、その技術も日本のもので、車両も日本から運んだものだということを何かで読んで知っていて、「駅のつくりも東京の地下鉄と同じだな」と思った。ということは、韓国最初の地下鉄車両は日本製だから、とくに改造しない限り、座席も日本と同じふかふかだったということだ。

 ・・・・という文章を書いてから、地下鉄東西線に乗ったら、座席が硬い。座席が個別に分けられていて、尻の部分が深くえぐれていて硬い。JRの座席とは違ったので付記しておく。

 地下鉄の、下品に輝く金属の座席を初めて見たのは香港だった。香港最初の地下鉄は1979年に開通した。そのころ初めて乗った地下鉄の座席がピカピカ光っていた。時代はまだイギリス領で、地下鉄の車体もイギリス製だという噂だったが、「イギリスがこんな下品な座席をつくるか?」という疑問があった。ステンレス製の座席は熱帯仕様のイメージがあったが、ソウルで熱帯仕様はおかしい。ステンレス製の椅子と布張りの椅子はどちらが先に登場したのかわからないが、ネット情報によれば、2003年の大邱地下鉄放火事件により、死者192人、負傷者146人という大惨事が起こった。その後、地下鉄の防火を考えて、座席が布から金属製に変わったという。ステンレスの座席は不燃化対策らしい。ということは、ステンレスの座席は2003年の大火災以降に登場したことになる。だから、もしかすると、それ以前は日本の電車の座席と同じようなふかふかシートだったかもしれない。座席全部を金属製にせず、プラスチックに布カバーをかけた座席の誕生のいきさつがわからない。その布張りシートだが、トコジラミなどを防ぐため2029年までに布張り椅子をすべて強化プラスチック製にするという計画があるようだ。

 真冬にステンレスシートに乗っていないから、座席が冷たくて困るとか、逆に暖房が効きすぎてお尻が熱いといった「座り心地」に関することはまったくわからないが、香港の経験でいえば、車内がすいている時に急ブレーキがかかると、座ったまま前方に滑っていくという問題点があった。ちなみに、「地下鉄 座席 ステンレス」で画像検索すると、ほとんどソウルの地下鉄の画像が出てくる。ソウルのほかは、香港と広州。おそらくほかにもあるだろう。

*小ネタ。香港でステンレス座席の地下鉄に乗ったころ、香港北部の町で公衆便所に入ったら、小便器が個別ではなく、かつての日本にも多くあったような、「仕切り板なしで、一列に並んで使用」というものだったが、その便器がステンレスだった。台所の流し台に向かって用を足しているようで落ち着かなかった。

 これがステンレス座席。冷たくて、滑る

 韓国人は地下鉄車内で何をしているのか。観察すれば何かわかるかと思ったが、日本となんの変りもない。世界の車内風景と同じように(たぶん)、スマホを見ている。日本と外国との違いは車内で通話している人がいるかどうかで、ソウルでもスマホで話をしている人はいるが、それが韓国の特徴ではもちろんない。

 ソウルでは極力歩いていたから、地下鉄体験があまり多くない。韓国地下鉄事情を書くには、経験が少なすぎるが、「快適だった」と言っておこう。

 *『韓国 反日感情の正体』黒田勝弘角川oneテーマ21、2013)に、地下鉄の話題が出てくる。韓国最初の地下鉄1号線の開通式は、1974年8月15日だった。この日は日本から独立した光復節で、大統領夫妻は光復節記念式典のあと開通式に出席する予定だったが、記念式典の壇上で夫人が凶弾に倒れたという話や、韓国の地下鉄は金銭的にも技術的にも日本の援助を受けていながら、開通式に日本人関係者は招待され、日本と地下鉄の関係は隠されたという話が紹介されている。

 大統領夫人暗殺事件(文世光事件)や赤軍派事件で偽造パスポートが使われたことから、1975年から偽造を防ぐためにパスポートの写真にフィルムを貼ることになった。パスポート申請時に自分の住所氏名を書いたハガキを提出するようになったのも、このとき。

 

 

 

2151話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その46

韓国も日本も、変わった 7 地下鉄2

 ソウルの地下鉄の話を、手持ちの資料で読む話の続きだ。

 『韓国の本』(講談社、1986)はムックだから実用情報には欠けるが、時代を感じることができる。短いコラムから、箇条書きにする。

 ●従来の1号線2号伝に加えて、85年10月に3号線4号線が開通し、「世界で7番目に長い地下鉄になった」(この表現はほかの媒体でもあったから、観光局資料が元のネタだろう)。

 ●駅名や行先表示がないなど外国人には不便だったが、1988年のオリンピックに備えて改良が進み、自動券売機や無人改札もできた。駅にエスカレーターもできた。路線の色分けもした。

 そうか。ソウルの地下鉄工事は、来るべきソウルオリンピック対応だったことがわかる。もうひとつ言うと、前回紹介した『宝島スーパーガイド・アジア 韓国』は87年改訂としていながら、地下鉄情報は古いままだったことがわかる。

 『地球の歩き方 韓国 94~95』は、もうオリンピックが終わって5年以上たったソウルの情報だ。地下鉄工事は進んでいたのだろうが、完成しているのは4号線までだ。いつから始まったのかわからないが、駅に番号が振ってあり、「緑色の線の5番の駅」という風に覚えると、外国人も利用できると説明している。地下鉄の紹介ページに、いまなら「驚異の洞窟!」という見出しがつきそうな写真が載っている。地下鉄3号線のホームに降りるエスカレーターの写真だが、その地下道の上半分が岩のままなのだ。「岩を削って穴を掘りました」という光景で、鉱山かつくりかけの防空壕のようで・・・。あっ、そうか。ソウルの地下鉄は防空壕なのだ。

 それから10年後の資料。『最新 世界の地下鉄』(ぎょうせい、2005)の韓国のページを見ると、さすが地下鉄情報の本だから、路線図も詳しい。1~8号線まで開業していて、9号線が工事中だが、3号線も7号線も延長工事中だ。それから20年後の『地球の歩き方 ソウル 23~24』の路線図と比べると、ソウル郊外に路線が伸びていることがわかる。ほかにも鉄道網が発達していて、旅行者が行くような場所なら、たいてい地下鉄で行けそうだが、それだけ路線が複雑になっていて、東京や大阪の地下鉄に乗り慣れていないと、ソウルの地下鉄は乗りこなせないだろう。

 

 

 ソウルの地下鉄には、「ホームドアが100%完備」という情報がある。本当に100パーセントかどうかはわからないが、東京の地下鉄よりもはるかに多いことは確かだ。ソウルと東京で、どうしてこういう差があるかのというと、東京は地下鉄の歴史が古く、しかも他社との乗り入れが多く、ドアの数やその位置がバラバラだという理由もある。

 ある韓国人の解説では、韓国人は並ばないから、ソウルの地下鉄の乗り降りは無駄に混雑するというのだが、ラッシュ時には乗らなかったので、実証していない。日本でも韓国でも、スマホを見たまま列車の出入り口に立ち止まっている者が、乗るときも降りるときもおおいにジャマだ。そうそう、韓国では車内のスマホ会話は禁止されていない。私の少ない体験では、おっさんの通話がうるさい。電話は大声でしゃべるものだと思っているらしい。車内がうるさいと、つい声が大きくなるという理由もある。

 「ソウルヨク」というカタカナは、その上に書いてあるSeoul Stationという英語を見ないと「ソウル駅」の意味だとわからない。発音重視なら、地名の発音をカタカナ表記すればいいが、駅とか大学など施設名が入る場合は、日本語訳にしてほしいとも思う。ちょっと前の日本では、道路の「国会前」の英語表記と称するものは「Kokkai」だった。日本語がわかる人しか、このローマ字表記はわからない。

 中国語表記の「首尓站」に関しては、黒田勝弘氏の解説があるので、そちらを参照。

 

 日本人には中国語の表示もありがたい。

 

 

 

2150話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その45

韓国も日本も、変わった 6 地下鉄1

 韓国最初の地下鉄であるソウルの1号線は、ソウル駅から東に延びて清涼里(チョンニャンニ)までの7.8キロで、開通は1974年だった。清涼里駅は東大門駅から4つ目の駅だから、ソウルの中心部を東西にちょっと移動するだけだ。それ以後、地下鉄建設計画が立てられ、一部は工事に入り、80年代からぼつぼつと開業していった。

 2024年には何度も地下鉄に乗った。ソウルの地下鉄やバスでは物売りが車内にやってくるというのが韓国スタイルで、ティッシュペーパーやガムやボールペンなど安っぽいものを勝手に客の膝に置いていき、折り返し集金に行くという商法や、客の目の前に突き出し、乗客は無視し、行商人は簡単にあきらめないという商法をいたるところで見かけた。あれはどうなたか。近代化したソウルでは、もうなくなったのか。毎日地下鉄に乗っていても見かけないなあと思っていたある日、見かけた。まだいる。屋台のテーブルに商品を置いていく商売もある。黙ってそのままにしていると、回収していくという商売だ。

 ソウルの過去の地下鉄路線はどんなものだったのか知りたくなって、手元の資料を読んでみた。

 ブルーガイド 韓国の旅』(1978)は、団体旅行者を相手にしたガイドブックだから、地下鉄に関する実用情報はないが、路面電車が廃止されて地下鉄導入という歴史があったと知った。そういえば、日本語英語併記の大判写真集『発掘カラー写真 1950~1960年代鉄道風景 海外編』(J.Wally・Higgins、JTBパブリッシング、2006)に、ソウルの市電写真があった。1960年代ソウルのは韓国の映画やテレビドラマで見ることはできすが、しょせんセットだから深みがない。当然ながら、この本は当時の街の写真だから、リアルだ。本棚からこの本を取り出してページをめくると、路面電車の写真とともに、路線図も載っている。ソウル駅―南大門―世宗路―鍾路4街―東大門―清涼里という市電路線があり、これが地下鉄1号線になったことがわかる。その市電の南の乙支路を走る市電が地下鉄2号線になったこともわかる。この本のことは、502話に少し書いた。路面電車の車両はアトランタとロサンゼルスで使用したものを使っているという情報もある。

 こういうカラー写真集が韓国に行けば手に入るかというと、多分出版されていないと思う。1950年代から1960年代の前半に、精密なカラー写真を何枚も撮影できる財力がある写真家は、日本にも韓国にもいなかったと思う。

 『宝島スーパーガイド・アジア 韓国』(JICC出版局、1985初版、1987年改訂版)には2ページのガイドがあるから、個人旅行者が使える。メモしたい記述はみっつ。

・駅名表示はハングルとローマ字

・キップの自動券売機はないから、ハングルと路線図が読めないとキップが買えない。

・駅を降りて地上に出ても、案内板がすべてハングルだから迷う。

 『ソウルの練習問題』(関川夏央)に「地下鉄の物語」という数ページの文章がある。2号線の工事が始まった1984年のソウルの地下鉄エピソードが綴られている。『街を読む ソウル』(榎本美礼)にも、1980年代半ばの地下鉄事情が載っていて参考になる。

 1970年、東大門付近で地下鉄工事中。工事の素人がこの写真から推測すると、地中に横穴を掘る工事ではなく、道路を掘り返して深い溝を作り、後から埋める工法(開削工法という)ではないかと思う。東京では銀座線がこの工法だった。写真は、ソウル生活史博物館の展示。

 長くなるので、次回に続く。

 

2149話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その44

韓国も日本も、変わった 5

 1980年代でも、ソウルのほとんどすべての場所は、特権階級でなければバスで移動するのが当たり前で、私は短期間の滞在だったがバスに乗る苦労はよくわかる。

 バス停は、バスを待つ人であふれている。そこにバスが次々に来て停車すれると、バス停は駅のホームのようにバスが列車のように止まっている。5台か10台が停まると、人々はバスの行先表示を見て、自分が乗るバスに走っていく。大混乱だ。『韓国バス事情』でも運転手自身が認めているのだが、長時間労働に疲れた運転手は、自主判断で勤務時間を減らすべく、バス停を飛ばして通過する。下車する客は降ろすが、もう客は乗せないで突っ走るということらしい。バンコクはもっとひどい。バスを下りる客がいても、無視する。私が被害者のひとりだ。タイ人の空気をわきまえない外国人だから、車内で「おろせ!」とわめき、車体の金属部分を力いっぱいたたく。運転手は、「まあ、しょうがねえなあ」とニタニタしながら、その辺でバスを止める。

 バス停では、乗りたいバスが来れば、手を振って「乗るよ」という意思表示をする。運転手と目を合わせ、すっかりと乗る意志を伝えているのに、運転手はニタニタ顔でバス停の民を嘲笑して素通りする。殺意を覚える瞬間だ。真夏に1時間以上バスを待っているのだ。

 バンコクのバスの想いでは、いくらでもある。もっともひどかったのは、路線バスが渋滞につかまると、裏道に入ってしまうのだ。夜のバスだったが、車内の電気を消して、「頭を下げてください」と乗客に呼び掛けた。ルートを外れるから、この先のバス停で降りる人は、ここで降りてくれと、車掌が大声でしゃべっていた。路線ルートを外れて走っているから、見つかるとまずいと思っているようだ。

 韓国のバスは、さすがそこまではひどくないだろう。

 『韓国がわかる60の風景』(林史樹、明石書店、2007)は、バスの1章を割いている。いい話はない。「急発進、急停車、急ブレーキも日常茶飯で、バスを乗り降りしようとした老人が転がる光景を見たことは一、二度ではない。老人を敬うはずの韓国における、思わぬ一面である」。

 1980年代のソウル取材時でも、バスはそんあものだった。取材と言っても、毎日バス通勤しているようなものだったが、寒風吹きつけるバス停でじっとバスを待つのはつらいものだ。幸運にもすぐにバスに乗れたとしてもひどい渋滞で、目的地にいつ着くのかわからない。同じ時代の、東京のバス通勤よりも、エネルギーを消耗しそうだ。

韓国のバスとタクシーは、あいかわらずひどいものらしい。官僚や政治家はバスに乗らないから、そのひどさがわからないのだ。

 「みんな、必死で生きてきました」という解説がつきそうな写真だ。これが、1976年。私が初めて行った韓国が78年。こういう時代の韓国を見ているのだなあと、時の流れを想う。

 

 1977年の韓国。この2枚の写真は、大韓民国歴史博物館の展示から。

 1987年のソウル取材は、文章も写真も私が担当したので、工夫次第で時間がうまく使えた。夕方に時間ができたので、地下鉄に乗ってみようと思った。ソウル駅から清涼里駅まで乗ってみた。ホームの自動販売機など駅風景を撮ろうとカメラを出して、少しおびえた。外国人が交通機関の撮影して逮捕されるという話を聞いた。軍事施設や橋や駅の撮影が禁止されているという噂があり、「いや、理由なんかなくても逮捕するさ。韓国はそういう国だ」という話のも説得力があった。2024年に地下鉄に乗っていて、警察におびえていた昔を思い出していた。

 今の韓国しか知らない人は、「それは被害妄想だよ」と切り捨てるかもしれないが、理由のない話ではない。『ソウルAtoZ』(尹学準ほか、集英社文庫、1988)に収録されているコラム「定着した市民の足―ソウルの地下鉄」(黒木和博)によると、筆者は地下鉄のホームで写真を撮ったら2度注意を受け、一度は駅長室に連れていかれ尋問されたことがあるという。

 私自身には、こういう経験がある。1978年の釜山でユースホステルの場所を探していて交番が目についたので、地図を見せながら場所を聞いたら、巡査は「パスポート!」と叫び、ショルダーバッグのなかに手を突っ込んで検査をした。そして、ユースホステルなんて知らないよと、ジェスチャーで意思表示した。

 85年の取材はカメラマンといっしょだった。どこで夕飯を食おうかとふたりで歩いていたら、交番の前で呼び止められた。カメラマンの荷物が気になったらしく、まずパスポートの検査のあと、バッグのなかを徹底的に調べられた。警官の虫の居所いだいでは、連行されることもある。警察は何でもできる国だった。

 あのころの韓国は、そういう国だったのだ。だから恐れられていたし、嫌われてもいた。

 

 

 

2148話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その43

韓国も日本も、変わった 4

 四方田犬彦の思い出話をつまんでいく。

 1979年、四方田は蚕室(チャムシル)で下宿生活を送った。蚕室は1988年のソウルオリンピックの会場で、巨大テーマパークであるロッテワールドなどで知られている場所だが、1979年当時は「アパートの周囲は何もなく、土埃でもうもうとした道を20分も歩けば農村となった」という場所だから、ソウルの中心地まで満員バスで50分かかった。地下鉄が開通するのは1980年である。1978年に、ソウルとはいえ畑が見えるホテルに泊まっていた経験があるから、79年の蚕室は想像ができる。

 「学生はみな貧しかった」。女子学生は誰も化粧をしていなかった。学生たちは「アルミの弁当箱にご飯とキムチだけ詰めたものを持参し、昼時になると弁当に熱湯をかけ、蓋をして豪快にシェイクし、「ビビンバだ」と自嘲しながら食べていた。

 朝鮮戦争が終わってからしばらくたっても、米の生産量はそれほど増えなかった。満足に米の飯が食べられないのだ。1960年代には、飲食店では米に雑穀などを混ぜた混合食を義務づけるだけでなく、週に2日は、米の飯を出さない日と決められた。米が足りない分は、アメリカからの援助小麦の利用が奨励され、そこで登場したのがインスタントラーメンだ。1963年のことだ。結果的に韓国が「国民ひとり当たりのインスタントラーメン消費量世界一」になった。韓国のインスタントラーメンの生産に明星食品が多大な協力をしたという過去を描いたのが、『インスタントラーメンが海を渡った日: 日韓・麺に賭けた男たちの挑戦』(村山俊夫、河出書房新社、2015)だ。この本は出てすぐに読み、「おもしろかった」という記憶があるが、なぜかこのアジア雑語林では紹介してなかった。しかし、同じ著者による『アン・ソンギ――韓国「国民俳優」の肖像』は、376話で紹介している。

 学校では弁当の飯はちゃんと雑穀入りかどうか検査する弁当検査も行なわれた。70年代末には混合食の義務はなくなったようだ。そのころの国民一人当たりの米消費量は130キロほどで、それ以降消費量は減っていく。混ぜ物なしの白米を充分に食べられるようになったのは、都市部に住んでいる人たちだけで、「銀シャリ」を毎日食べることはできない人たちがまだいた。

 韓国KBSの食文化番組「韓国人の食卓」は「すばらしき韓国の食文化」を見せる番組だから、都市の貧困層の食事風景を紹介した回はなかったと思う。しかし、山村離島の食事風景を伝える回だと、村民が食事をしながら、「昔は米の飯なんか、年に何回かしか食べられなかったなあ」と言いながら、村の伝統食を食べているというのはよくあるシーンだ。そういう会話をしている人たちは老人たちではなく、1950~60年代生まれの、放送当時の中高年なのだ。山村で育った40代の女性は、中学を出て街で働くようになって、初めて毎日白米を食べるることができたと話していた。場所によっては、1980~90年代でも、米が満足に食べられなかったのだ。この番組を見ていると、「ソウルの事情」を「韓国全体の事情」して論じてはいけないことを教えてくれる。

 ちなみに、日本で米の消費量がピークに達するのは1962年で、118キロだった。現在は55キロにまで減った。米の世界史は、いままで米を食べなかった人たちが、喜んで米を食べるようになるという歴史なのだが、充分食べられる量がありながら食べなくなった最初の国はおそらく日本で、次は台湾、その次が韓国だろうか。タイでも消費量は減っていて、バンコクではピーク時の半分くらいまで減っているという資料があるが、米を原料にした麺の消費は多いので、米粒の消費といっしょにはできないという問題がある。資料の誤差を読む必要がある。

 

 

 

2147話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その42

韓国も日本も変わった 3

 朝鮮半島のややこしさについて書きたい。

 ひょんなことから関川夏央さんと知り合ったのは1980年代初めころで、関川さんは当時「漫画アクション」(双葉社)でコラムを書いていたのは知っていたが、世間的にはまだそれほど知られたライターではなかった。その後も何かの機会に顔を合わせると、ちょっと雑談をする程度の付き合いだった。関川さんの『ソウルの練習問題』が出たのは1984年で、すぐに感想を書き送った。すると、近々転居するという知らせるハガキに、「どこかで会いませんか」という誘いの文に電話番号が書いてあった。

 関川さんが私に「会おう」と言ってくれたのは、ビンボーライターに編集者を紹介して、少しは稼ぎになるように助けようという慈悲だったようだが、生意気なビンボーライターは、「書きたくない原稿は、書きたくないんですよね」などと言ってその親切をことわった。その当時、なんとか暮らせる程度の稼ぎはあって、のちに『東南アジアの日常茶飯』としてまとめる食文化調査に関わろうと企てていたので、興味のないルポ記事など書きたくなかった。私は器用ではないし、物欲のない耐貧性の高いライターで、ちょっと稼ぎもあったから、「昭和枯れすすき」状態にはならないですんだ(わかるかなあ。貧しさに負けなかったという意味です)。

 関川さんと会って、『ソウルの練習問題』の話をした。はっきりした記憶はないが、「あんなややこしい国に、よく手を出しましたね」と言ったような気がする。関川さんはスペイン語ができるから中南米に関心があるということは知っていたが、韓国に興味があるなどとまったく知らなかったから、韓国の本を書いたのは意外だった。私のつぶやきに対して、関川さんは何と言ったか覚えていないが、たぶん黙って笑っていただけだろう。

 『ソウルAtoZ』(尹学準ほか、集英社文庫、1988)によれば、関川さんは1979年に観光旅行で初めて韓国に行ったとき、韓国に「わかりにくさ」と「かたくなさ」を感じて、勉強してみようと思い、その後何度も通ったという。78年の私はライターではなかったからか、韓国に行っても「わからないから調べてみよう」という職業的観察者の意識はまだなかった。今、このブログを書いているのは、まさに「韓国がわからないから調べてみよう」という好奇心からだ。

 ついでにもうひとつ書いておく。関川さんも四方田犬彦も初めての韓国は1979年で、その年に朴大統領が暗殺されている。その大事件によって、ふたりとも韓国と強く結びつく結果になったのではないかと、根拠もなく私は想像をしている。

 1980年代でも、朝鮮半島はややこしいのだ。社会問題、政治問題が連峰のごとくあり、在日問題もあり、政治家が東京で拉致されて(1973年)、のちに死刑判決を受ける国(1977年)、そして無期懲役減刑されたのが1982年だった。そんな時代に、私は朝鮮半島の政治問題や社会問題にはできるだけ関係のない本を探して読んでいた。冊数だけでいえば、けっこうな数になるが、実際に韓国に行こうとは思わなかった。すでに書いたように、1978年の旅はフィリピンから日本に帰国できなかったから韓国ルートを選んだだけだ。ソウルから羽田に飛んだのでは面白くないから、釜山から船で帰国した。それだけだ。韓国に特段の興味があったわけではない。

 韓国のニュースは、専制政治の暴力的でむなしい面が前面に出ていて、「また旅行しよう」という気にはとてもなれなかった。80年代に2度韓国に行っているが、自分の意志で出かけたわけではなく、雑誌の取材である。結局、1987年の取材旅行以後、韓国に行くことはなかった。旅行者としてもライターとしても、ややこしい朝鮮半島とのつきあいは読書だけで充分だった。旅はもっぱら東南アジアだった。当時の台湾も、韓国同様反共専制国家だったが、何度か旅行している。韓国ほど狂暴(凶暴)ではないと感じたからだろう。それは私の個人的な感想ではなく、大方の日本人の感想だっただろうと思う。

 関川さんは、韓国のさまざまでしかも大量のややこしさは一応頭に入れても、職業的観察者としてソウルを眺めた。旅行前に、韓国語教室に通っているから、「行った、食った」だけの旅行記ではない。

 インドもまたややこしい国で、私は旅行者としてもライターとしても、1978年以後近づかないまま現在に至っているのだが、インドのややこしさを前面に出さずに今までなかったインドを描いたのが、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんの『ゴーゴー・インド』(1986)だった。

 私は、「ややこしさ」や「うっとうしさ」が苦手なのだ。東南アジアの微笑みとはとても相性がいい。東南アジアでは、旅行者を放っておいてくれる。わずらわしさはない。始終怒鳴っていることもない。じつに、おだやかに旅できる。