2024-10-01から1ヶ月間の記事一覧
韓国も日本も、変わった 10 コーヒー2 1979年にソウルで日本語教師をしていた四方田犬彦の『大好きな韓国』に、当時の喫茶店の話が出てくる。長いが、引用したい。 喫茶店はたいてい暗く、熱帯魚を入れた水槽があった。。学生たちは鬱屈した気分を抱き、イ…
韓国も日本も、変わった 9 コーヒー1 2139話で、1984年に取材で韓国人家庭を訪問したという話をした。 取材させてもらうことへの謝礼をどうしようかという話は、編集部とはしてなかった。取材費に多少の余裕があるから「ほんのお礼」程度の額なら支払えるの…
韓国も日本も、変わった 8 地下鉄3 日本を旅行する韓国人の動画は、YouTubeにいくらでもある。日本語のものは、日本在住韓国人が家族友人知人に日本を案内するという企画が多く、たいていは「初めて食べる日本の味」といったものだ。食のほかの日本体験シリ…
韓国も日本も、変わった 7 地下鉄2 ソウルの地下鉄の話を、手持ちの資料で読む話の続きだ。 『韓国の本』(講談社、1986)はムックだから実用情報には欠けるが、時代を感じることができる。短いコラムから、箇条書きにする。 ●従来の1号線2号伝に加えて、…
韓国も日本も、変わった 6 地下鉄1 韓国最初の地下鉄であるソウルの1号線は、ソウル駅から東に延びて清涼里(チョンニャンニ)までの7.8キロで、開通は1974年だった。清涼里駅は東大門駅から4つ目の駅だから、ソウルの中心部を東西にちょっと移動するだけ…
韓国も日本も、変わった 5 1980年代でも、ソウルのほとんどすべての場所は、特権階級でなければバスで移動するのが当たり前で、私は短期間の滞在だったがバスに乗る苦労はよくわかる。 バス停は、バスを待つ人であふれている。そこにバスが次々に来て停車す…
韓国も日本も、変わった 4 四方田犬彦の思い出話をつまんでいく。 1979年、四方田は蚕室(チャムシル)で下宿生活を送った。蚕室は1988年のソウルオリンピックの会場で、巨大テーマパークであるロッテワールドなどで知られている場所だが、1979年当時は…
韓国も日本も変わった 3 朝鮮半島のややこしさについて書きたい。 ひょんなことから関川夏央さんと知り合ったのは1980年代初めころで、関川さんは当時「漫画アクション」(双葉社)でコラムを書いていたのは知っていたが、世間的にはまだそれほど知られたラ…
韓国も日本も、変わった 2 朝鮮語学習というと、いつも萩原遼のことを思い出す。このコラムですでに触れたことがあるが、再度書いておく。 言語と政治という話になると、「赤旗」のピョンヤン特派員だった萩原遼(1937~2017)の若き日のことを思いだす。高…
韓国も日本も、変わった 1 「うん、韓国は変わったな」とうなづきながら、ソウルの街を歩いていた。 記憶の底を探ると、ある韓国人の発言が浮かび上がってきた。いつ、だれの発言だったという記憶はないが、多分、1990年代の日本のテレビ番組だったような気…
ソウル生活博物館 8 韓国では長らく日本文化を拒絶排斥してきた。日本語の歌、日本映画、日本のテレビ番組、マンガなどは、「日本の俗悪は文化が韓国に流入されないため」という理由で禁止されていた。雑誌で読んだのだろうが、初めて韓国に行く前からそうい…
ソウル生活博物館 7 ここの展示でも、やはりポンチャックは無視されていた(と思う。解説文が読めないから勝手な誤解かもしれないが)。韓国音楽に関するさまざまな文章を読むと、「ポンチャックはトロットの別名」という解説ばかりだ。この動画を見ると、ポ…
ソウル生活史博物館 6 展示のなかで、ちょっとおもしろいものがあった。 左端のレコードは、ハン・テスの「長くて遠い道」。ハン・テスは実に興味深い人物である。その歌声は、こんな感じだ。 韓国大衆音楽の歴史解説のなかには、私にも多少わかることがある…
ソウル生活史博物館 5 別棟にあるカフェから博物館に戻って、見学を続ける。今開催している特別展は、うれしいことに「大衆音楽史」だ。戦前からのレコードが展示されている。プラハの博物館では、レコードとプレーヤーが置いてあって、自由に聞くことができ…
ソウル生活史博物館 4 煉炭の展示を見て廊下に出ると、突き当りに別棟のビルが見えた。ふたつのビルの間がテラスになっている。別棟のガラス越しにカフェが見え、ミュージアム・ショップも見えるので、そこでひと休みすることにした。 ここもデジタル式の注…