102話 古本のページの間に


 新宿から四谷方面に散歩しているときだった。
 住宅地の路地から路地へと徘徊していると、黒く大きな物体が視野に入った。3階ほどの建物なのだが、屋根はもちろん壁も真っ黒だった。壁はタイルか金属 でうろこ状でおおわれ、全体が巨大な甲冑、あるいは甲虫のように見える異様な建造物だった。外観は異様だが、宗教施設とか劇場という感じではなく、ベラン ダがあるから住宅のように思えた。
 この建物の正体が知りたくて正面入り口に立つと、幻想小説にでも出てきそうな漢字を使った「○○館」という看板が見えた。どうやら集合住宅のようだが、奇妙なこの建物の名前に記憶があった。1年ほど前に、ここに手紙を出したことがあるからだ。
 古本屋で買った本に、葉書がはさまっていた。古本に何かがはさまっているというのはよくあることで、新刊書と同じように愛読者カードや新刊案内以外に も、映画館の半券、箸袋、鉄道の切符、レシート、メモ用紙などがはさまっていることがある。しおり代わりに使ったのだろう。しかし、使用済みの葉書が入っ ていたのは、そのときの一回だけだ。
 女性から女性への葉書で、その文字からして高齢者のように思われた。文面は日常のなんということもない内容だが、当人たちにとっては重要な葉書かもしれないと思い、その葉書を手に入れたいきさつなども書き添えて、葉書のあて先に送った。
 しばらくして、礼状が届いた。「妹からの葉書が転々としてしまったようで・・・・」という内容の、ていねいな文章だった。その人が住んでいるのが、この甲冑の館だ。
 古本をよく買う人なら、このように本に何かがはさんであったというのはよくあることなのだが、次のような例は稀有な体験だろうと思う。「そんな物なら、 私が買った本にも・・・」という人は、世界の古本マニアでもめったに体験しないだろうと豪語したい。現金でも株券でもなく、金銭的価値はないが、珍しいも のであることはたしかだ。
 場所は神田の古書店だった。数年前のある日、社会科学系の学術書も専門のひとつとしている書店に足を踏み入れると、その店では珍しいことに、床から本が 高く積み上げてあった。50冊くらいはあっただろうか。それらの本はどれもアジア、とくに東南アジアのやや専門的な本ばかりだから、個人の蔵書をまとめて 売却したのだろう。研究者が亡くなったので売却したのかとも思ったが、どの本もそれほど古いものはなく、純然たる専門書は一冊もなく、東南アジアの何かを 専門とする研究者の蔵書には見えなかった。
 値段はかなり安めだったので、未読の本を何冊か買った。
 そのうちの一冊、『母なるメコン、その豊かさを蝕む開発』(リスベス・スイルター著、メコンウォッチ日本国際ボランティアセンター訳、めこん、1999 年)を自宅で読んでいたら、手製のしおりがはさんであるのに気がついた。何かの書類をしおりの大きさに切ったものだ。読める部分には、こんな文字がある。

 料(印税計算の場合)  発行部数X定価 10%
 ら受領した出版使用料の 乙が受領した金額の

 出版関係者なら、これがどういう書類を切ったのかすぐにわかる。著者と出版社の間で取り 交わされる出版契約書である。この手製しおりの裏は、ちょうど著者の住所・氏名・捺印の部分で、そのには芥川賞作家M氏の署名・捺印がある。その人の本は 読んだことはないが、小説嫌いな私でも名前を知っている有名作家だ。
 そこで疑問だ。あの古書店に積んであったアジア関係書はすべてM氏の蔵書だったのだろうか。同じ系統の本だからそう考えるのが自然だが、M氏の作品にア ジアが関係するものを知らない。基本的に私は小説を読まないし無知だが、アジア、とくに東南アジアが関係する作品ならば、純文学であれミステリーであれ、 探し出してたいてい読んでいる。それらの小説やエッセイのなかにM氏の名は記憶にない。
 もうひとつの疑問は、なぜ出版契約書をしおりにしたのか、だ。井上ひさしは、本の帯を切ってしおりにしていると書いていて、それならわかるが、出版契約 書を利用するというのは気にかかる。しかも、自分の住所と署名がある部分も使っている。出版契約をしたものの、出版社が倒産したか、原稿が書けなかった か、なにかのトラブルで出版できなかったといった腹いせで、契約書を切り刻んだのだろうか。
 ちなみに、私は映画や催し物のちらしを切って、手製しおりにしている。紙が厚く、色が鮮やかだから、目立っていい。いい映画ちらしが入手できないときに、海外ツアーのパンフレットを切ったこともあるが、紙が薄すぎて使いにくく、文字が多いので美しくない。