147話 小さな穴が大きくなって(2)

 日本のアンデルセンの娘婿


 朝日新聞のパリ支局長が書いた『ヨーロッパ手帳』(小島亮一、朝日新聞社、1961年)の「あとがき」に出てきた「三つくらいの時から久留島武彦先生の早蕨幼稚園にはいった」という部分にひっかかたのは、「久留島」という苗字に心当たりがあったからだ。
 1939(昭和14)年に出版されたアジア旅行記、『印度・印度支那』(非売品だが、1940年に相模書房から発売している)の著者が久留島秀三郎だ。変わった苗字だから、記憶の底に残っていたのだ。調べてみると、秀三郎の義父が武彦だとわかった。
 久留島武彦(1874〜1960)は、大分は玖珠の生まれ。明治27年に日清戦争に従軍し、戦地から投稿した作品が、「少年世界」の主筆・厳谷小波(い わや・さざなみ)に認められて軍事物を書き始めた。のちにお伽噺を創作するようになるが、創作よりも人前で話す「口演童話」を一生の仕事とした。
 また、中野忠八らとともに日本のボーイスカウトの基礎をつくったり、1910年に早蕨幼稚園を開設している。そういう有名人だ。
 中野忠八は、京都の薬卸問屋の長男に生まれ、父の急死により三高卒業と同時に家業を継ぐ。青少年の教育にも熱心で、ボーイスカウトの前身である少年義勇 団活動にかかわり、京都少年義勇団団長をしていたときに、久留島武彦と出会う。そして、忠八の弟秀三郎が武彦のひとり娘の婿となり、中野秀三郎は久留島秀 三郎となる。
 久留島秀三郎(くるしま・しゅうざぶろう)は、1888年京都生まれ。三高から九州帝国大学採鉱学科を卒業し、兵役のあと農商務省鉱山局に勤務する。 1920(大正9)年から1937(昭和12)年までの17年間にわたり満州に滞在して、さまざまな会社の役員をしていたらしい。1937年に日本に戻 り、昭和鉱業社長、1946年には同和鉱業の社長となる。
 久留島秀三郎の著書『印度・印度支那』は、手描きの絵が入った布で装丁されたやや豪華な本で、戦前にアジアの旅行記自費出版した男はいったいどんな人 物なのか少し気になっていたのが、少しずつ見えてきた。『印度・印度支那』を買ったのはもうだいぶ前で、そのころはまだコンピューターを持っていなかった から、著者の素性を調べなかったということもあるが、じつはこの本はそれほどおもしろいわけではない。だから、「よーし、調べてやろう」という熱意に欠け ていたのだ。
 ただ、日本人の手による戦前期のインド旅行記はそう多くはないので、この機会にこの本についてちょっと触れておこう。なお、この『印度・印度支那』は古書店で容易に手に入る本で、売価も安い。つまり、その程度の需要という本だ。
 久留島は、「はしがき」にこう書く。
 旅から帰って書店に行くと、「蘭印に関する書物は存外ある。そのおつきあいに仏領印度支那についての記事もある。フィリッピンに関する書物は四、五出て いる。だが、英領印度に関してはカンヂーだとか革命だとか、印度のほんの一面だけを扱ったものはある」(現代語にかえてある)。
 だから、「東亜の盟主を以って任じている人達が、支那満州国だけを対照に考えているとさえ思える」が、それではまずいだろうと、秀三郎は考えた。英領や仏領の事情を日本人に知らせるために、この旅行記を書いたのだそうだ。
 秀三郎はすでに、『珈琲を啜りながら』(1931年)という南米紀行を出し、『馬賊を語る』(1939年)を出している。秀三郎にとって3冊目の紀行文 が、この『印度・印度支那』である。名目上は視察とか出張という旅行なのだろうが、彼は戦後も旅行を続け、旅行記を出している。
 秀三郎の経歴がわかれば、この本に「バーンとベンガルの製鉄所とその炭鉱」とかバラジヤムダの鉄山とタタ製鉄所」といった項がある理由が納得できる。だ から、その方面の資料としては使えるのかもしれない。ちなみに、終戦直後に社長となった同和鉱業がもっている鉱山のひとつが、花岡事件で知られる秋田の花 岡鉱山だ。
 ほかにも、久留島秀三郎に関連する事柄を調べていくと、興味あることがいろいろ出てくる。 もっともびっくりしたことを、次回書く。