204話 ビルマ小説『漁師』


 さて、ビルマの小説『漁師』(チェニイ、河東田静雄訳、財団法人大同生命国際文化基金、 2007、非売品)だ。この財団が出している「アジアの現在文芸」シリーズは、市販はされていないが、大きな図書館などにあるので、借りて読むことは出来 る。日本語への翻訳では、タイ篇は13冊、マレーシア篇が4冊、インドネシア篇が5冊、ビルマ篇6冊、ラオス篇が1冊、ベトナム篇3冊、カンボジア篇が2 冊、パキスタン篇が7冊、インド篇6冊、バングラデシュ篇が1冊でている。このほか、日本語からさまざまなアジアの言語に翻訳された日本の本もある。
 ビルマの小説『漁師』はその題名どおり、漁師を主人公にした短編の連作小説だ。アジアの小説というと、私の読者体験でいえば、主人公は都会のインテリか 農民ということが多いような気がするから、漁師を主人公にした小説は珍しいように思う。私がいままで読んだなかで漁師小説といえば、タイのアッシリ・タマ チョートの短編「ナーンラム」が思い浮かぶくらいだ。これも、やはり大同の「アジアの現在文芸」の1冊、タイの短編小説集・詩集『ナーンラム』(タイ国言 語・図書協会編、吉川みね子編訳、1990)にはいっていて、表題作の「ナーンラム」をはじめアッシリ・タマチョートの作品がいい。
 『漁師』のおもしろい部分の紹介はあとにして、先に文句を言っておこう。訳者の河東田(かとうだ)さんとは面識があるし、お世話になったこともあるのだが、しかし、やはり書いておかねばならない。この奇妙なカタカナ・ビルマ語のことだ。
 主人公の名は、「ダァゥンセィン」、その女房の名は「メェセィン」というように、誰にも発音できない奇妙なカタカナが次々に出てくる。ビルマ語の綴りや 発音のニュアンスなど、カタカナで表現する必要はない。ビルマ語がわからない日本人読者のために日本語に翻訳しているのだから、ビルマ語がわかる人のため に凝りすぎた(だから誰も発音できない)カタカナ表記を作り上げることはないと、韓国語やタイ語の翻訳についても何度も書いているが、これからも飽きずに 書き続ける。
 さて、『漁師』だ。小説の登場人物たちは、イラワジ川のデルタに住んでいる。小説の粗筋はさほど重要ではないから、関心のある人は自分で読んでもらうとして、ここでは興味深い細部を少々紹介したい。
■「尿意を催した彼はへさきの端にしゃがむと、湖を守護するナッの神々に、どうか、怒らないで下さいと断ってから、薬缶から水を注ぐように小便をした」(P12)
 しゃがんで小便をしているのは、小舟に乗っているからだとも考えられるが、ロンジーという腰布を巻いているせいでもあるような気がする。足首まである腰布を巻いている文化圏では、立小便はあまりしない。
 この小説の場合は、湖に小便することを、精霊ナッに謝罪しているが、私は仏教の戒律を思い出した。僧が守らなければならない戒律は227条あって、その第7章「衆学」の第4項「雑」には、こうある。
第1条 僧は病気でもないのに、立って大小便をしてはならない。
第2条 僧は病気でもないのに、大小便や唾を植物にかけてはならない。
第3条 僧は病気でのないのに、大小便や唾を川の中に流してはならない。
 『タイ―その生活と文化』(星田晋五、学習研究社、1972年)より引用。
 小便のことだって、調べればおもしろそうなネタはどんどん出てくる。僧に限らず仏教徒に は不殺生の戒律があるなかで、漁師は差別されているというのが、この小説のテーマのひとつである。植物に小便をかけてはいけないのは、そこに虫がいると殺 してしまうからだが、そういう世界で、日常的に魚を食べている普通の人々が、魚をとることを職業にしている人々、つまり漁師を差別しているのである。僧は 魚も肉も食べていいが、虫さえ殺してはいけないというのが、この地域の仏教だ。深い関心のある人は、本を読んでもらうとして、次に行く。こんどは食べる 話。
■「残り飯に魚醤油をかけて握り飯にして葉に包んだ弁当を手に提げて家を出た」
 これで、貧乏漁師の弁当がどんなものかわかる。ビルマの飯は、タイのうるち米よりもやや粘りがあるような気がしていて、それならば握り飯にできるわけだ。これが人間の飯だが。魚の餌は、こうなる。
■「針を曲げて作った釣針に、粘りが出るまでこねた米飯に魚醤と米糠を混ぜて固めた餌をつけていた」
 川のある場所に魚を集めるには、まず川にタマリンドの枝を沈め、魚が集まってきたら、米糠をまくそうだ。
 このほか、行事食、魚の干物の作り方、魚醤油の作り方、食用の魚油の取り出し方など詳しい描写があるので、ビルマ文化研究者だけでなく、漁労文化や食文化などに興味のある人にも参考になると思う。