217話 オランダ人の日本戦後史 おどろく事実 その1


 倒産した新風舎はなにかと評判が悪かったが、浜の真砂ほども出版した本のなかには、ちょっとはいい本もあり、旅行史や異文化関連の本を数冊買っている。
 つい最近読んだのが、1950年から74年まで日本に滞在していたオランダ人銀行家が書いた、『まがたま模様の落書き』(ハンス・ブリンクマン著、溝口広美訳、新風舎、2005年)という滞在記だ。
 全体的には、とりたてておもしろいわけではないし、鋭い考察があるわけでもないが、「ええ!」と驚いて傍線を引きたくなる記述が、少なくとも2カ所あった。
 ひとつは、オランダのナショナル・ハンデルス銀行の東京支店長になった1962年ごろに住んでいた新宿区西落合の家と、そのご近所の話だ。ちなみに、このとき著者はまだ29歳だが、運転手つきの車に乗る生活だった。
 日本人の妻と住んでいたその家というのが、アントニン・レーモンドが1933年に設計したものだというではないか。日本の建築史に多少の知識があれば、 「ほっほー」と驚くだろう。レーモンドは、旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトほどの知名度はないが、そのライトの助手だったレーモンドは聖 路加病院や東京女子大などの設計で知られる有名な建築家だ。
 西落合のご近所について、こういう記述がある。
 「本田氏はうちの近所に、大きくてモダンな家を建てたばかりだった」という、「本田氏」とは本田宗一郎で、当時のホンダは自動車を発売しはじめたばかりだが、もちろん本田宗一郎はすでに有名人だ。
 著者が勤めるナショナル・ハンデルス銀行が、1963年に創立100周年を迎えるので、上野の東京文化会館で記念コンサートを開催しよういう計画を立て た。そこで、近所に住んでいる武蔵野音楽大学の教授に、演目の相談に行った。その教授とは、日本の音楽教育に多大な貢献をしたドイツ人音楽家クラウス・プ リングハイムだ。プリングハイムが初来日したのは1931年だが、37年から2年間はバンコク西洋音楽を教えていたが、タイが連合国側の政策に転じたた め、国外追放にあい、日本にやってきたという流浪の音楽家である。
 さて、西落合周辺のご近所の人間で、もっともびっくりしたのは、著者と家族ぐるみの付き合いをしていたという、「オードリー・ヘップバーンの実兄」一家 だ。「彼らのちっぽけなプールつきの庭で、よく一緒に日曜日の午後を過ごし」たそうだ。オードリーには兄がふたりいるようだが、どちらの兄が日本でどうい う生活をしていたのか、まったくわからない。