235話 石井好子の外国 その1

 日本脱出



 戦後の日本人の外国体験については、フルブライト留学などアメリカに渡った人々の話はい くらか調べたが、それ以外の国についてはほとんど知らない。『戦後日本人世界各国留学事情』といった本でもあれば、それを読んで「問題解決」としたいのだ が、私が読みたいような本は、たいていはまだ出版されていない。戦前期の留学や移民の研究はそこそこあるのだが、戦後となると研究書は少ない。そこで、 ちょっと調べてみた。「フランス留学事情といえば・・・」と考えて、頭に浮かんだのは遠藤周作であり、石井好子である。
 まず手に入れたのは、石井好子の『私は私』(岩波書店、1997年)だ。シャンソンに多少知識があれば、この書名が有名な歌のタイトルからとったとわかるだろう。
 まずは、石井好子の略歴を紹介しておく。
 1922年、東京生まれ。祖父は逓信大臣久原房之助、父は経済界や政界で活躍した石井光三郎。1942年、東京音楽学校声楽科(のちの東京芸術大学)卒 業。終戦後すぐにジャズ歌手となる。ジャズとシャンソンを歌い、結婚し4年後に離婚という生活をしていた石井は、別の世界に行ってみたくなった。以下、引 用は『私は私』から。

 ―――外国へ行きたい、としみじみ思った。こんな狭くるしい島国の中で手さぐりをしながら歌っている身が、もどかしかった。こうしていても、月日はどんどん流れてゆく。こんな無駄な時間の中で青春がすぎてゆく事はがまんならなかった。

 それでフランスに行ったのだと思っていたが、ちがった。石井もアメリカに行ったのだと、 この本を読んで初めて知った。フランスへの門は狭いが、アメリカならどうにかなるという留学事情だったらしい。この当時の留学記にはよくあることなのだ が、留学にまつわるこまごまとした手続きに関しては、まったく記述がない。占領下の日本では、日本人が外国に出ることは基本的には許可されない。外務省の 官僚などが、例外的に許可されるという渡航事情で、私費留学できた裏の事情は、当然ながら何も書いてない。留学の費用をどうやって作ったのかは、書いてあ る。「山中湖の別荘を売って留学費用を出してくれた」とあるが、その日本円を持っていくわけには行かないし、日本国外では当時の日本円などゴミでしかな い。別荘の売却代金どころか、小額であれ日本円をドルに両替できるような時代ではない。そこに、権力者だけができるカラクリがあるから、正々堂々とは書け ないのだろう。
 1950年8月1日、羽田空港から出た。つまり、安い船ではなく、高価な飛行機を使ったということだ。目的地はサンフランシスコのミュージック・アン ド・アーツ・インスティテュート。パンアメリカンの機内には、「ハワイ公演に行く漫才の姉妹、二世部隊の小説取材に行かれる作家の今日出海さんがおられ た」。
 「漫才の姉妹」については、詳細不明。今日出海がこのときの取材をもとに書いた小説は、単行本になっているかどうか不明だが、その小説が映画化されてい ることはわかった。なんと「ハワイの夜」だ。なんと、と驚いているのは戦後の映画史とか異文化交流に興味を持っている少数の者だけだろうが、「ハワイの 夜」は、1953年の新東宝映画。出演は鶴田浩二岸恵子など。ハワイでロケをしている。1950年に、小説の取材のためにハワイに行ったということは、 自費ではもちろん、出版社のカネでも無理だし、許可も出ないということは、アメリカ政府か軍がバックについていた映画だとわかる。
 というところで、石井好子はまだハワイにも着けない。次回に続く。