239話 「まなざし」の大安売り本 その1


 人は何に誘われて旅に出るのかといったテーマに興味があって、『沖縄イメージを旅する』 (多田治中公新書ラクレ、2008)を読んだのだが、どうも読後感が良くない。バランスが悪いのだ。著者は元琉球大学助教授で、現在一橋大学の准教授だ が、この本には文意が不明の個所が多い論文調の部分と、ごくごく個人的な話も加えたくだけた話が混在しているのが、読みにくさの原因である。手持ちの論文 や、雑誌や新聞に発表した原稿を寄せ集め、しかしうまく統合できなかったのが原因だろう。
 全体の構成では、希望も含めて言いたいことはいくらでもある。沖縄イメージといえば、音楽ならザ・ブームの「島唄」やビギンなどの話を、1960年代の 話なら大江健三郎竹中労の話題が出てきてしかるべきだろう。沖縄の音楽を語るなら、ワールドミュージックのブームとともに語るべきだろうし、沖縄料理の 流行は、例えば東南アジア料理の流行と関連してエスニックフードの流行とともに語るべきだろう。つまり、「沖縄と本土」という枠だけで考えていてはいけな い。「沖縄のイメージと旅行」を出版物からさぐる手段に著者は「旅」を使っているが、それより「るるぶ」や「アンアン」「ノンノ」やガイドブックでしょ う。「旅」は、おっさんの雑誌です。近年の沖縄移住者たちは、何の影響で、どういうイメージで移住を決意したのか、明快には書いてないのはなぜ? などな ど・・・・。
 あるいは、事実関係でも気になる記述がある。例えば、沖縄のハブについて書いた次の文章。
 「(ハブは)天敵のマングースを輸入してから減少し、昭和の観光客が行く頃にはまず見られなくなったので、県の衛生課で飼育しているのをわざわざ見に行っていた」
 沖縄についてほとんど知識のない私でも、野生状態ではマングースはハブを食べないことは知っているし、昭和の初めにはハブが「まず見られない」と言えるほど減少したという記述は信じがたい。
 こういうことを詳しく書いていくとキリがないので、やめておく。ここでは、文章とことばの話だけはしておこう。
 学者が学者相手に文章を書くなら、業界の隠語がどれだけ入っていようがかまわない。どういう言い回しを使おうが、勝手である。部外者がとやかくいう問題 ではない。しかし、一般書を書くなら、私のような学のない読者でもわかる表現にして欲しい。例えば、こういう文章がある。このコラムの読者であるあなた は、容易に理解できますか?
 「一九八〇年代に入ると、沖縄イメージはより自律化して、沖縄のもとあった現実を離れていった。競合する海外リゾートの海が沖縄の海にはね返り、重ねられて、イメージのグローバル化が進んだからだ」
 あるいは、この文章は?
 「七七(昭和五二)年四月、「団体包括割引GIT」が沖縄に導入された。これはパッケージツアーのなかに、航空券だけを買った場合よりも安い航空運賃を設定する制度で、航空会社と旅行業者の間で料金が設定されるため、利用者にはその価格が隠されている」
 わかりにくい文章だ。「沖縄線に、パッケージ旅行用の団体割引き航空運賃が適用された」と書けばいいだけなのに、わけのわからん理屈をこねて説明しよう としている。団体旅行の航空運賃が、航空券だけを買う場合よりも安いのは、当たり前。通常の正規航空運賃で催行する団体旅行などあるか。パックツアー料金 のなかで、航空運賃がいくらなのかを客に明示する旅行会社などあるだろうか。考えればわかることだろうに。
 この本が、「まなざし」の大安売りだということも、大いに気になる。社会学や観光学などの業界の流行語らしいが、同じ語の繰り返しは、読者をいらいらさ せる。本文のいたるところに、「まなざし」が出てくる。例えば、76〜77ページの見開きに、6回も出てくる。あるいは、120〜121ページの見開き (全28行分)には、次のような用例で登場する。

・観光のまなざしにさらされた瞬間
・海をまなざす純粋な視覚的快楽のフレーム
・観光のまなざしのオブジェへと変えてしまう
・海を美的にまなざす構図のセンターにあった

 こういう文章は、悪文である。才能のないコピーライターが、自己陶酔して書きそうなひど い文章である。あるいは、「どう、ボク、頭いいでしょ」と自慢したい学者のタマゴが書きたがる文章だ。へなちょこライターの私が言うのは変だが、こういう 悪文を書く教師に、学生の論文を指導する力はないと思う。やたらに「まなざす」学者は、「すんげー」と「やべー」しか語彙のない若者となんら変わりがない と、編集者が教えてあげればよかったのに。
 この本でもう一点、気になったのは写真のことだ。その話は、次号で。