248話『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第二話

  ジョン・スタインベック




  小説を読まない私でも、ノーベル賞作家スタインベックの名は、さすがに知っている。『怒りの葡萄』は、内容は知らないが、書名だけは記憶にある。『エデン の東』も、もちろん読んだことはないが、映画は見ている。その程度の知識だ。これほど無知なのだが、『チャーリーとの旅』については少し知っている。 チャーリーが著者の愛犬の名で、その愛犬といっしょにアメリカを巡った旅行記だということくらいは知っていた。
 読んだ記憶はないが、表紙のデザインは覚えていて、今回インターネットで調べてみると、記憶していた表紙と違う。とすれば、私が手にしたのは英語のペーパーバックで、それなら1980年のニューヨークの書店でのことだろう。
 このとき、なぜスタインベックの本に手を伸ばしたのかというと、1974年の記憶があったからだ。
 1974年、台風がふたつ同時にやってきた7月の早朝、私は横浜の埠頭にいた。ソビエト船でまず香港に行く。そのあとのことは、まだはっきりとは決まっ ていなかった。暴風雨に襲われた港には、まだ乗客の姿は見えなかった。しばらく雨宿りをしていると、巨大な影が私の前を通り過ぎた。リュックの上からヒザ まであるポンチョをまとい、大きなレインハットをかぶった旅行者が3人。ポンチョとハットのせいで、大柄な体がよりいっそう巨大に見えた。アメリカ人2人 と日本人ひとりの3人組の姿は、190センチの緑色の壁に見えた。
 3人とは船内で親しくなり、香港ではともに重慶大厦(チョンキン・マンション)に泊まり、彼らはベトナムサイゴンに行き、私はバンコクに飛び、バンコクで彼らと再会した。
 3人のなかで、ジムといちばん気があった。バンコクでは私の誘いに乗って、楽宮旅社にやって来た。もしかすると、あの伝説的安宿に泊まった最初のアメリカ人は、このジムかもしれない。
 ある夜、彼が私の部屋にやって来た。母の体調がかなり悪いと言う姉からの手紙をきょう受け取ったが、アメリカには帰らない、母にはもうさよならを言ったからという話をしたあと、1冊の本を差し出した。
 「今、読み終わったんだ。好きな本だから、あげるよ」
 そういって、私に差し出したのが、スタインベックの“Sweet Thursday”という小説だった。彼は、この小説の舞台となっているカリフォルニアの街の話をしたあと、その本のなかで、私が絶対に知らないと思われる単語の説明をしてくれた。そのとき教えてくれた単語で、いまでも覚えているのは”brothel”だけだ。
 旅行中も、帰国してからも、この小説を読もうと試みたが、数ページも続かなかった。私の英語力が貧弱で、娯楽小説ではないので、根気が続かず、それでもジムが私に読ませようとした世界を知りたくて、日本語訳が出版されていないか調べたが、見つからなかった。
 1954年にアメリカで出版されたこの小説が、日本で初めて翻訳出版されたのは、1984年の『たのしい木曜日』(市民書房)としてらしい。1974年の日本の書店や図書館で翻訳書を探しても、みつからないわけだ。
 1980年にアメリカに行き、ニューヨークの書店でスタインベックの本をちょっと立ち読みしたのは、ジムからもらった本のことがずっと気になっていたか らだ。このときに、小説以外で、私にも読めそうなエッセイがあるかもしれないと思って探していて、『チャーリーとの旅』を手にしたらしい。書店でちょっと 立ち読みして、どういう本か少し理解はしたが、最後まで読みこなせる英語力はないこともわかり、結局買わなかったのだろう。
 あれは1985年ごろだったか、取材でカリフォルニア州を旅していたときのことだ。「スナップ程度の写真でいいから、モンタレーやカーメルに行って ちょっと写真を撮って欲しい。取材費はほとんどないが、よろしく」という雑誌編集部の依頼で、取材費節約の手段としてツアーにまぎれこんで、バス旅行をし たことがある。これが、生まれて初めての団体バス旅行だった。あなたまかせの気楽な団体旅行のせいで、緊張感もなくうつらうつらとしていたら、ガイドが 「スタインベックの・・・」と話しだしたところで目が覚めた。そのバスが走っているところが、スタインベックゆかりの地だという説明だ。1974年にバン コクでジムから聞いた話の舞台が、ここなのだと気がついた。
 そして、2008年に『旅する力』のページに、スタインベックの名が私の前にまた現れて、むかしが懐かしくなって、すぐさま『チャーリーとの旅』を書店に注文した。もちろん、日本語訳だ。