254話 『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第八話

  香港



 1974年に日本を出て、75年帰国した沢木の旅は、帰国した翌年の1976年暮れに初 めて活字になった。76年12月に発売された「月刊プレイボーイ」(1997年2月号)に、「飛光よ! 飛光よ!」というタイトルで香港旅行記を発表して いる。私はこの文章を、発売直後に読んでいる。旅をやめて、コックの見習いをやっているころだ。
 1973年に発売された『若き実力者たち』(文藝春秋)で沢木の文章と初めて出会い、76年の『敗れざる者たち』(文藝春秋)ももちろん読み、そして年 末に「月刊プレイボーイ」で香港の旅行記に出会った。「月刊プレイボーイ」・「若きノンフィクションライター」・「香港」という組み合わせは、当時として は、かなり奇異なものだった。「月刊プレイボーイ」で藤原新也の「全東洋街道」の連載が始まるのは、1980年からだ。広告がいっぱい入り、カラーページ の多い雑誌に、アジアが登場するのは、1970年代では奇異なことだった。日本の雑誌の常識では、外国とは、欧米だったのだ。
 この香港旅行記について、沢木は『旅する力』のなかで、「もしかして、若者が香港を紀行の対象として発見した最初のものかもしれないとも思う」と書いている。
 おそらく、沢木の推察は正しいと思う。香港に限らず、インドとネパールを除けば、日本の若者はアジアには興味がなかった時代なのだ。旅行地として興味が ないから、あまり旅行をしないし、行ったところで紀行文を書こうとも思わなかったのだ。だからこそ、そのころの私は香港の雑学本を書こうと思い、何度も香 港に通い、資料を読んでいたのだが、間もなくその必要がなくなった。1979年に、山口文憲の名著『香港旅の雑学ノート』(ダイヤモンド社)が出たから だ。
 1980年までの香港の本といえば、政治や経済の専門書や旅行ガイドがほとんどだ。あえて異論を挟めば、沢木の「飛光よ! 飛光よ!」以前に、香港を旅 行して紀行文を書いた若者がまったくいなかったわけではない。いま、森村桂の名を思い出したので調べてみる。『森村桂香港へ行く』(講談社)の発売は、 1970年。森村は1940年生まれだから、このとき30歳くらいだ。ギリギリの若者と言っておこうか。講談社文庫に入ったのは75年、79年には角川文 庫に入っている。売れていたのだ。
 この手のお手軽旅行エッセイ、内容はなにもないものの、それがかえって「軽さ」という魅力となって、売れることは売れる旅行本が大量生産されるのは、 1990年代に入ってからで、そういう意味では森村桂がその先鞭をつけたといえる。記憶で書くが、山口文憲は『森村桂香港へ行く』について、一週間の旅行 で一冊書けるんだからすごいというようなことを書いていたと思う。
 沢木が旅した1974年の香港がどんな場所だったのか、沢木は「当時刊行されていたガイドブック」から、廟街周辺の描写を引用している。いわく、「旅行者の入るべきところではない」と書いてあるという。
 あのあたりは私がよく歩いている地区で、ガイドブックにそんなことが書いてあるとは信じられず、手元のガイドブックをチェックしてみた。沢木が引用した のは『ブルーガイド海外版 香港・マカオ・台湾』だが、何年版かは書いてない。初版は1966年で、おそらくその当時の原稿のままだったのだろう。私の手 元にあるのは改定版にあたる『香港・マカオ』(1976年)で、廟街の記述はまったく違う。1970年代初めあたりまでの香港は、日本人にとって魔都であ り犯罪都市といったイメージがあった。日本の女は、香港で誘拐されて売られるといった噂や、麻薬基地といった悪評だ。そういうイメージを裏打ちしたのが、 ガイドブックのこの記述だろう。