260話 裕次郎と若大将


 皮肉なことになったと、つくづく思う。
 小学生時代、映画に行くといえば親の好みが優先され、東映時代劇が好きだった父親に連れられて、大川橋蔵などの黄金時代の時代劇を何本か見た。近所に映 画館があるという場所には住んでいなかったので、映画など年に数本見られれば上等という娯楽であった。そういえば、小学校で野外の映画上映会があったな あ。
 あのころ、1950年代末から60年代前半にかけて、日活アクションも東宝喜劇も松竹文芸映画も見た記憶がない。
 高校生になると、ひとりで映画館に行くようになり、土曜の午後は名画座で過ごすことが多かった。好きな映画を求めて都内の名画座をうろつく財力はなく、 高校から電車一本で行ける駅のそばにある名画座に通うことが多かった。アメリカ映画もヨーロッパ映画も見たが、日本映画はほとんど見ていない。もしかする と、高校時代見た日本映画は、「男はつらいよ」シリーズ(1969〜)の最初の3本だけかもしれない。すでに日活アクションの時代は終わっていた。私より かなり年上の人は、日活アクション映画の世界を「格好いい」と感じていたのだろうが、ヒッピー世代の私には「どん臭い」と思えた。格好をつけたセリフが格 好悪いという感覚。映画のウソが、まさしくウソにしか見えない感覚は、私と同世代の人ならある程度わかるだろう。東宝若大将シリーズや、石坂洋次郎的青 春映画といったウサン臭い健全作品に、嫌悪感を感じていた。「お坊ちゃまの無邪気な生活」に、貧乏少年は憧れではなく、憎しみを感じていたのだ。
 旧来のハリウッドや五社体制の日本映画界に対する不満が、高校時代に爆発する。
 高校生時代(1971年卒業)にアメリカで始まったのが、アメリカンニューシネマの時代で、67年の「俺たちに明日はない」「卒業」、69年の「イー ジーライダー」などは同時代に見ている。いま、インターネットで「アメリカンニューシネマ」を調べながら、この原稿を書いているのだが、「アメリカン ニューシネマ」なる語は、和製英語だと初めて知った。英語では“New Hollywood”というそうだ。
 これらアメリカンニューシネマの影響か、あるいは時代の波に乗って格好つけようとしたのか、ATG(日本アートシアターギルド)の日本映画も無理して見 るようになった。そうか、「男はつらいよ」以外にも、この手の日本映画も高校時代に見ているのだ。『初恋・地獄篇』(68年、羽仁進)、「新宿泥棒日記」 (69年、大島渚)、「心中天網島」(69年、篠田正浩)などを高校時代に見ているが、まるでおもしろくはなく、以後、映画を理屈や頭で見るのはやめた。 しかし、だからといって日活ロマンポルノや東映ヤクザ映画にもなじめず、そのうち海外旅行の資金稼ぎに忙しくなり、その資金で出かける旅行が生活のほとん どを占めるようになり、映画館にはあまり行かなくなった。とはいえ、「ぴあ」で作品を調べ、日本にいるときは年に数十本は見ていたように思う。
 少年時代に「虫酸が走る」というほど嫌っていた若大将シリーズに興味を持つようなったのは、日本人の海外旅行史を調べるようになったここ10年ほどのこ とで、レンタルビデオ屋で海外ロケをした日本映画を手に入る限り借りて見た。映画そのものの完成度など気にせず、映画のなかの外国に注目すれば、それはそ れで楽しいもので、文献を集めて歴史的背景も読み取ることになった。
 というわけで、皮肉なことに、少年時代にあれほど嫌いだった加山雄三石原裕次郎の映画をかなり見て、大枚支払って関連の本を買い集めることになってし まった。海外旅行史を調べるということは、昭和史を調べることであり、戦後の芸能人の行動と映画を追っていくと、日本人を「憧れの海外旅行」へと誘った要 素がいろいろ見えてくるのである。荒唐無稽にしか思えなかった若大将シリーズも、海外旅行史というモノサシで見ると、見事なほどリアリティーがあるのがわ かってきた。
 海外旅行史研究という太い柱を立てると、どんな枝葉も面白くなる。