272話 最近読んだ本の話 その2


 ビルマ文学の翻訳で知られる土橋泰子さんが書いた『ビルマ万華鏡』 (連合出版)は、いわば「ビルマと私」とでもいった前半の柱と、「ビルマ雑学ノート」とでもいった後半の柱の2本立てで構成されている。半世紀以上にもわ たる著者とビルマのつきあいを書いた前半部分が、私には特に興味深かった。著者が大阪外語大ビルマ語学科に入学したのは1954年で、57年にビルマに 留学している。
 留学記の部分を読んでいて、「そのころと、現在で、ビルマの風景は大して変わっていないだろうなあ」と思った、ここ10年ほどで、ヤンゴンはやや変わっ たものの、東南アジアの他の国々と比べれば、変わらないも同然だ。高架鉄道も地下鉄も高層ビルもないのだから。30年ぶりに再訪したメイミョは、街の名が ピンウールインと変わっただけで、それ以外、昔とまったく同じ街だったので驚いた。誤解のないように言っておくが、変わっていないことが、「いい。すばら しい」と賞賛しているのではなく、あるいは逆に「悪い。ひどい」と非難しようとしているのでもない。ただ、事実を書いただけだ。
 この雑語林でもたびたび書いているが、私は学問の歴史に興味があって、例えば日本人の外国語学習の歴史だ。1980年代までの日本では、朝鮮語・韓国語 を学ぶ者は、共産主義者か、在日朝鮮人だと思われていた。例えば、『ソウルの日本大使館から』(町田貢、文藝春秋、1999)は、1950年代から現在ま でのさまざまな韓国語事情にも言及している。町田氏は1935年生まれで、天理大学朝鮮語科を卒業して、韓国の日本大使館に長年勤務した。この本は、 1960年代からの日韓交流史の体験的資料としても、興味深い記述がある。
 ちなみに、大宅賞作品の『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋)などを書いた萩原遼氏は、1937年生まれ。朝鮮語を勉強したくて天理大学を受験し たが、共産党員であるため不合格となり、のちに大阪外語大朝鮮語科が創設されて、やっと朝鮮語の勉強ができるようになり、卒業後「赤旗」の記者になっ た。政治的外国語として、この両者の歩みはとても興味深い。
 日本人にとって、タイ語に政治性はない。タイ語ができる男は、タイで女遊びをしていると思われていたくらいだろう。フィリピン語(タガログ語)も同様。 フィリピン語をしゃべる男は、フィリピンパブに大金を注ぎ込んだ常連に違いないと思われるだろう。こうした外国語のイメージの問題のほか、そもそも英語以 外の外国語を勉強できる場所・機関がほとんどなかったという問題もある。そういう事も含めて、日本人の外国語学習史を調べていると、けっこうおもしろく遊 べる。
 『ビルマ万華鏡』の後半の、ビルマ雑学編の部分は、おもしろい個所をいちいち書き出すときりがないので、あえて言及しないが、1日2食の食生活のことな ど、興味深い話がいくらでもでてくる。ただし、私がもっとも知りたい「ビルマ式便器」については、まったく記述がない(著者にメールで問い合わせたが、便 器の雑学まではご存知ないそうだ)。アラブ式便器にもちょっと似ているビルマ式便器についてご存知の方、あの便器の歴史など、なんでも教えてください。
 そうそう、土橋さんが留学していた同じ時代に、日本の17名の青年僧侶も、ビルマ政府の招待で長期滞在していた。その滞在記が『ミャンマー乞食旅行』 (遠藤祐純、ノンブル、2002)で、『ビルマ万華鏡』を読む直前に、古本屋で見つけた。私よりも年配の方々、どうか昔の留学記や滞在記や旅行記を、書き 残しておいてください。現在との比較があれば、なおうれしい。