288話 神田古本まつりのころ 後編

 昨年も、11月1日に古本まつりに行った。もとより「買い出し」目的ではなく、散歩である。昔は、定価の半額だと「安い!」と思ったのだが、アマゾンの1円本や、ブックオフの105円本のせいで、定価1980円の本に1000円の値札がついていても、「たいして安くもないな」と思うようになった。そういうご時世だから、さしもの神田でも一般書は昔と比べれば、安い値段をつけているような気がする。
 ある古本屋の出店の前で、ちょっとうなった。井村文化事業社の本が20冊ほど出ていたのである。東南アジア文学を翻訳した「東南アジアブックス」のシリーズだ。その20冊ほどの本は、すべて持っているし、すべて読んでいるから買う気はない。一応売り値を調べると、思いのほか安かった。通常の付け値の半額程度だ。本は食料品と違って、安いから大量に買っておこうというものではないが、「タイに送ってあげようか」とふと思った。タイで出版している日本語の雑誌「ダコ」で連載をしている縁で、編集部に送ってあげれば、スタッフや関係者も読める。そんなわけで、東南アジアブックスのタイ篇6冊を買った。
 2時間の神保町散歩で、買ったのはその6冊だけだった。予想していた通りとはいえ、不作だった。神保町散歩のシメはいつもアジア文庫と決まっていて、その日の収穫をネタに、店主の大野さんと語り合うというのが、毎度の楽しみにしている。
アジア文庫に向かっているときに、「余計なことをしたかな」という思いがわきあがって来た。本は、読みたければ、なんとしてでも読む。読む気がなければ、タダでも読まない。本とはそういうものだ。タイのダコスタッフにしても、読みたければ、アマゾンなどネット古書店で買うこともできる。タイに発送してもらうのが難しい場合でも、日本の友人知人に頼んで買ってもらうこともできる。井村文化事業社のようなタイ関連の本なら、バンコク日本文化センターの図書館で読むこともできる。読む気があれば、読む手段はいくらでもある。いままで読んでいないということは、つまりは読む気がないということで、そういう人たちに本を送り付けるのは、余計なお世話、おせっかい。ありがた迷惑というものだろう。
 アジア文庫には、いつものように客はほとんどいなかった。大野さんに、買ったばかりの井村のタイ篇を見せて、「このほか、フィリピン篇やインドネシア篇も安く売っていたよ」と報告した。
「ここのところ体調が悪くて、今年はまだ古本まつりのチェックをしていないんですよ。歩くのもつらくてね」
 大野さんは、いつものように小声で言った。力のない小声はいつものことだから、大して気にもしなかったのだが、のちに知った事実では、この数日前にガンの宣告を受けていたのだった。「原発不明癌で、入院します」というメールを受け取ったのは、それから20日ほどあとのことになる。原発不明というのは、胃ガンとか肺ガンのようにどの臓器がガンに侵されているかがわからないという意味らしい。だから、手術でガンに侵された部位を取り除くことはできない。治療法といっても、効きそうな薬を探すしかないらしい。すぐに入院しなかったのは、母親の介護の問題を先に解決しないと、自分が入院できないからだ。大野さんは、いっそう厳しくなった書店の経営と母親の介護に苦しんでいるときに、自分がかなり危ない病気にかかってしまったと知ったのである。三倍の苦渋の押しつぶされそうになっていただろう。
 10月に入ったころから、胃のあたりがおかしいと感じていたようだ。病院で胃の検査を受けたが「異常なし」という結果で安心していたが、体調はますます悪くなるばかりで、再度検査を受けたら、ガンだとわかった。その数日後に、私はのん気に店に姿を現し、バカ話を始めていたわけだ。
「もし店で売る気があれば、井村の本6冊全部、買い値で譲るよ」というと、すぐさま商談は成立した。その代わりに、『タイ三都周郵記』(内藤陽介、彩流社、2007)と、『韓国の酒を飲んで韓国を知ろう』(中村欽哉、つげ書房新社、2004)の2冊を買った。
 入院中の築地の国立がんセンターに行ったのが、クリスマスの夜。年が明けて間もなく、病状が急変し、あっけなく亡くなった。このあたりのことは、まだ詳しき書く気になれない。時間が、もう少し欲しい。
 アジア文庫の顧客や関わりがあった人に、こういういきさつを知らせたいと思ったが、このアジア雑語林の編集担当者は大野さんだから、私がいくら原稿を書いたとしても、ネット上に公開することができなかった。今回、蔵前さんの厚意で、またこのアジア雑語林を始まられることになり、こうして「大野さんのアジア文庫」の最後を、改めて伝えることができた。自分では店に通ってくれた客に最後の言葉を言えなかった大野さんに成り代わってひとこと言えば、「長年のご愛顧、本当に、本当にありがとうございます」。きっと、そう言うでしょう。
 アジア文庫の足跡と店主の発言は、蔵前仁一さんのデザインで『アジア文庫から』というタイトルで1冊にまとまった。市販はしていないが、出版社のめこんのホームページにアクセスすれば、買える仕組みになっている。