296話 DFSと日本人の海外買い物旅行 

 戦後の日本で、GHQの兵士として4年間過ごし、アメリカに帰国して、コーネル大学ホテル経営学部に入学したチャック・フィーニーのビジネス物語を描いたのが、『無一文の億万長者』(コナー・オクレリー著、山形浩生・守岡桜訳、ダイヤモンド社、2009)だ。コーネル大学のホテル経営学部というのは、世界最初の観光学部だといってもいい。コーネルを卒業したフィーニーはヨーロッパに留学し、そこで軍人用の免税商売を考えつく。1950年代は、アメリカ人といえども大々的に海外観光旅行に出かける時代ではまだなく、フィーニーはホノルルや香港に場所を移して、米兵に酒や車を売る商売を始めた。
 副業として、1962年から始めたホノルル空港の免税店が大きな利益を生み出すようになるのは、64年に日本人の海外旅行が自由化されてからだ。DFS(デューティー・フリー・ショッパーズ)が、本格的に動き出したのがこの時代だ。これ以降、日本人をターゲットに、徹底的な販売戦略を展開し、日本人の物欲を刺激して、まんまと巨万の富を手にいれた。そのいきさつが、実に詳しく書いてある。巨万の富を手に入れても、ほとんど慈善事業に寄付してしまうから、「無一文の億万長者」だというのが、日本語版タイトルの意味だ。
 私はビジネスマンの一代記などに、まったく興味はないので、この本の後半は飛ばし読みしたが、前半はノートをとってじっくり読んだ。実に、おもしろい。海外旅行の買い物に関する資料というのはほとんどなく、旅行社の社員や添乗員による思い出話が多少あるだけで、事実ほとんど語られてこなかった。その理由はいくつかあるが、最大の理由は、旅行社は客の買い物について、極力語りたくないからだ。なぜ語りたくないのか。旅行社がガイドと共謀して、客に買い物をさせて、リベートを得てきたからだ。アジア方面ツアーの内容を詳細に点検すれば、みやげ物屋に立ち寄ることを条件としたツアーや、立ち寄らない場合は課徴金を請求するといった但し書きのついたツアーがあるとわかる。空港とホテルを結ぶバスがみやげ物屋の所有で、運転手もガイドもみやげ物屋の人間が担当することで、送迎費用をタダにした上で、客の購入額に応じてリベート(KB、キック・バックともいう)を得ているツアーもあるからだ。
 この本では、DFS香港店のリベートが、はっきり金額を示して書いてある。添乗員が書いた本はいくらでもあるが、そういう情報をきちんと書いた本は、多分ない。そういう意味でも、この本は観光学&旅行学の貴重な資料だ。
免税品などに興味のない私でも、旅行史研究者として、「ジョニ黒やコミャック」の時代があったことくらい知っている。日本人がコニャックを買いだしたそもそものきっかけは、DFSにまんまと乗せられたのだと、この本で初めて知った。1960年当時、弱小コニャックメーカーだったカミューから、コニャックを大量に安くまとめ買いした。そして、ホノルル空港の日系人の店員が、日本人観光客に売りまくったのである。売れればボーナスが入るから、店員は必死で売った。コニャック(ブランデー)などまったく知らない日本人が、「日本では高い。DFSなら安い」というそれだけの理由で、買いまくったのである。かつて、日本人客は、特上の鴨ネギであった。こういう事実に、「日本人をコケにしやがって、不愉快だ」という読後感をネット上に書いている人が少なくないが、詐欺にあったわけじゃなし、日本人客は知識もなしにホイホイと買ってしまったというだけの話だ。外国でカネを使うというだけで興奮した時代だったのだ。
 日本人が「ナポレオン」という名が好きだから、「ナポレオン」という表示があるクルボアジェのコニャックを買うと知ったフィーニーは、カミューのラベルにも「ナポレオン」と表示した。すると、売れた。そう、日本人は、コニャックなんて、味で選んでいた訳ではなかったのだ。DFSは、カミューのコニャックの世界独占流通代理店も設立しているから、DFS以外の店で売れても儲かる仕組みを作った。
 カミューのコニャック同様、DFSの販売強化商品だったのが、ニナ・リッチの香水だ。店員の巧み腕前で、日本人はニナ・リッチをまとめ買いしていった。
 実は、この本には事実関係で、私にもわかる間違いがいくつかあって、いわゆる「裏をとる」作業をしないといけないのだが、とりあえず、この本に書いてあるままに紹介する。1970年代なかば、サイパンではDFSが空港を無料で建設するから、免税商売をする権利を20年間保証せよという契約を当局と結んでいる。そこまでしても、大儲けできるほど、日本人客の買い物がすさまじかったということだ。
 この本の後半部分は飛ばし読みをしたが、興味深い記述ももちろんある。それは、日本人の海外買い物史の変遷に関する部分だ。なぜDFSが大儲けできたかと言えば、日本の内外価格差のせいだ。日本国内で1万円売っているスコッチウィスキーが、免税なら2000円ほどだ。だから、免税品に狂喜乱舞する。ところが、欧米などの圧力で、輸入の自由化や、関税の引き下げがたびたびあり、内外価格差がどんどん縮まっていく。そして、日本人は、ウィスキーを飲まなくなり、タバコを吸わなくなり、団体旅行をしなくなり、免税店ではなく、各ブランドの店に行くようになった。
 1997年、DFSはLVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)傘下に入った。だから、創業者は、過去のことを詳しくライターに話す気になったようだ。
 いままで数多く出版されている「ヨーロッパ高級ブランド物語」といった本は、ブランドのひも付きライターとブランド品の広告で成り立つ商品カタログだから、真実の歴史はわからない。その点、この本の毒はすさまじい。