321話 『東南アジアの音楽』を買った

 ケチで貧乏な私にしては珍しく、今後、何かの拍子にさらっと目を通すことはあっても、精読はしないとわかっている本を買ってしまった。安かったというだけの理由で、『東洋音楽選書八 東南アジアの音楽』(黒沢隆朝、音楽之友社、1970年)を買ってしまったのだ。
 1980年代なかばころだったか、東南アジアの音楽について知りたくなったものの、その当時は日本語の文字資料などほとんどなく、わずかに小泉文夫氏の手によるカセットテープとその解説文を読んでいただけだった。ただし、私が知りたいのは、民族音楽学が扱う音楽ではなく、民族音楽をベースにした大衆音楽なのだが、もちろんそういう資料など、日本にはなかった。
 80年代末ころになって、いつかタイ音楽の本を書きたいと思うようになって、本格的に資料探しをやるようになり、神保町をうろついた。音楽の専門書がある本屋が2軒あることはわかっているから、ていねいに棚を点検していくと、その本、『東南アジアの音楽』という専門書があった。民族音楽学の専門書だから、私の興味とはずれるのだが、他に資料がないのだから、しかたがない。値札を見ると、「3000」とある。70年の発売時の定価は2400円だから、ちょっとプレミアがついて、3000円になるのはしょうがないか。そう思い、古本屋のレジにその本を持って行った。
 「いらっしゃいませ。はい、3万円いただきます」
 「えっ,3万円?」
店主の声に驚いて、巻末の値札をもう一度見たら、「30000」だった。もし「3万円」と書いてあれば、すぐに気がつたのだが、まさか30000円もするとは思わないから、勝手に3000円と理解したのだ。
 「すいません。3000円だろう思ったものですから・・・」と言って、本は棚に戻した。
 この本のタイ音楽の部分をぜひ読みたくて、あるわけはないだろうと思いつつも近所の図書館で探してみると、意外にも見つかり、さっそくコピーした。
 タイでタイ音楽の資料を探してみると、私が探しているものではないにしろ、英語による古典音楽関連の資料は、国立博物館売店で見つかった。Thai Culture, New Series という24ページほどのオールカラーの冊子シリーズで、音楽や舞踊関連の本が何冊かある。例えば、こういう本だ。”Thai Music” by Phra Chen Duriyanga , The Promotion and Public Relations Sub-Division , The Fine Arts Department。この著者名を見て、「おお!」と目を見張った人は、タイの知識がかなりある人だ。この著者、プラ・チェーンドゥリヤーンは、タイ国歌の作曲者だ。
 参考までに、バンコクで買った音楽書の紹介をしておくと、こういう本を決死の思いで買っていた。
“Traditional Music of the Lao ―Kaen Playing and mawlum Singing in Northeast Thailand” Terry E. Miller, Greenwood Press, London, 1985
なぜ、「決死の思いで買った」のかと言うと、DK書店で見つけたこの本に1795バーツの売り値がついていたからだ。買った当時の交換レートは、1バーツ7円ほどだったから、日本円にすれば13000円ほどで買ったことになる。日本円に換算しても高額だとわかるが、当時は20バーツあれば昼食を食べられたから、90回分の食費に相当する。だから、いかに「決死の思いで買った」かがわかるだろう。
 『東南アジアの音楽』のなかの、タイ古典音楽に関して必要な部分はすでにコピーしてあるし、今後音楽に関する文章を書くことはないので、もう買う必要のない本だ。それなのに、20年以上たって再会したその本を買ったのは、たしかに安かったからではあるが、じつはもうひとつ訳がある。
 この本は、その値札から元々はアジア文庫にあったという来歴がわかったからだ。アジア文庫の店主がさまざまな手を尽くして集めた古書の1冊なのだ。しかし、店主が亡くなってしまい、せっかく集めた古書は散逸してしまったのだが、在庫分をまとまって委譲されたのが日本タイ協会で、私はそこでこの本を見つけたというわけだ。「アジア文庫」というスタンプが押された紙切れに、店主ならおそらく「14.800円」と書きこんだだろうが、まだ店頭には出していなかったので、売り値はついていなかった。タイ協会がつけた値段がとびきり安かったこともあって、アジア文庫ゆかりのこの古書を買ったというわけだ。
 ちなみに、この『東南アジアの音楽』をネット古書店で調べると、どういうわけかどっと売りに出ていて、売り値は1〜2万円程度である。発売からもう40年たっているが、東南アジアの音楽の基礎情報に関して、これ以上詳しい本は未だ出版されていない。