381話 黎明期の日本の外国料理店

 前回触れた『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)の1954(昭和29)年4月22日分に、こういう文章がある。
「印度料理のナイル(山本嘉次郎より教はった店)へ入り、インディアン・カレーを試みる。カレーは、やはりCBのやうな、辛くてドロッとしているのがいゝ、印度風って奴は、サラッとしてゝ美味くない。」
 古川ロッパの父は男爵。早稲田で英文学を学び、文藝春秋に入社して編集者。そして芸人になった人で、同じ匂いを感じさせる人に、森繁久彌タモリがいる。
 ロッパは61年に亡くなっているので、この日記に出てくる店のほとんどを私は知らない。しかし、その数少ない例外が、このナイルだ。1949年の開店。おそらく、日本最初のインド料理店だ。ロッパがこの店に入ってから20年以上たって、私もこの店に入り、店主A.M.ナイル氏が勧めるムルギランチを食べた。そして、その感想がロッパとまったく同じだったので、『日記』を読んでいて、「そう、そう、そうですよ」と心の中で故人となったロッパ氏に言った。
 私が初めてナイルに行ったその日、昼過ぎの時刻で、客は私ひとりだった。店主のほかに、もうひとり店内にいたような気がするので、それはもしかして子息のG.M.ナイル氏だったかもしれない。世にナイルのファンが大勢いることはわかっているが、この店の味は私の趣味には合わないので、多分、それ以後、何かの理由でもう一度行っただけだと思う。
 と、まあ、『古川ロッパ昭和日記』で、ナイルを思い出していたちょうどそのころ、『銀座ナイルレストラン物語』(水野仁輔著、G.M.ナイル語り、ブルース・インターアクションズ)を読んだ。もしかすると、水野氏が書いた本の中でもっとも売れない本になるかもしれないが、いまのところ、もっとも画期的な本になることは間違いない。前回のこのコラムで、日本の西洋料理史と料理店史の話をほんの少し書いたが、私は以前から、日本の外国料理史をずっと調べている。日本人が異文化と出合ってどう対応したかということが、私の興味の柱だ。料理史だけでなく、旅行史でも建築史でも音楽史でも、結局は同じように、異文化対応のようすが興味深いのだ。
 『銀座ナイル・・・』は、外国料理店史研究としては、画期的な本だが、その内容はかなり不満が多い。私の主たる関心分野なので、そもそもハードルが非常に高い。一般の読者は、「それは高望みだよ」と言うかもしれないが、水野氏はインド料理の料理人のインタビューを続けて、自費出版の非売品書「インド料理をめぐる冒険」http://www014.upp.so-net.ne.jp/tandoor/meguru/を出し続けているので、いずれ『日本インド料理史』といった本を書いてくれるかもしれないが、残念ながらそれを待っている読者はほとんどいないだろう。
 日本におけるドイツ料理店やイタリア料理店の黎明期は、「レストランなど、開きたかったわけではない」という人たちが始めた店も多く、それは革命家A.M.ナイル氏のナイルレストランも同じだ。ドイツ料理店やイタリア料理店の黎明期については、この雑語林の、206,207,218話を参照。
 料理人の歴史といえば、ホテルニューグランドの初代料理長の足跡を追った『初代総料理長サリー・ワイル』(神山典士、講談社)も同時期に読んでいた。これも、異文化としての西洋料理とどう出会い、どう学んできたかといったテーマをスイス人料理人の足跡から探っていこうとした本だ。サリー・ワイルに関しては、ウィキペディアに詳しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB
 このウィキペディアの文章は、もしかして神山氏が書いたのかもしれないが、こういう文章を読むと、料理人サリー・ワイルについてもっと知りたくなった。それで、私は神山氏の手による伝記を買ったというわけだ。