387話 ミルクの行商

 西洋人は古くから牛乳を飲んでいたのだろうと思いがちだが、牛乳はチーズなどの乳製品の原料であったり、煮込み料理に入れるといった使い方をしていて、長らく飲み物ではなかった。フランスでは酪農家を別にして都市住民は、18世紀後半からカフェ・オレとして飲むようになり、パストゥールが低温殺菌法を考えだした19世紀後半になって、健康飲料として牛乳を飲むようになったそうだ。こういう話が、鹿島茂の『パリの秘密』(中公文庫、2010)に出てくる。
 これだけでも、「へえ、そうですか」と興味深いのだが、その先の話がより興味をそそる。
 牛乳は傷みやすいので、なるべく新鮮な牛乳が欲しいのだが、冷蔵庫のない時代なのでなかなか難しい注文だ。おっと、ここで、ちょっと思い出話を挟みたくなった。
 私がパリの安宿にいたある日のこと、夕食用にバゲットと瓶入り牛乳を買った。わびしい夕食ではあるが、パンがおいしいのがありがたかった。パンも牛乳も一回で食べきるには多すぎるので、翌日の朝食用に半分ずつ残した。さて、翌朝、前日の夕食と同じようにバゲットと牛乳で朝食にしようとしたら、あらら、牛乳が分離していた。安宿暮らしだから冷蔵庫などないが、秋のパリだ。充分に、涼しい。日本と違って、フランスでは保存するための加工をしていないらしい。夕食に全部飲んでおくのだったと悔しがっても、元に戻らず。水道の水でパンを食べた。
 さて、話は19世紀のパリに戻る。なんとか新鮮な牛乳が欲しいという消費者のために、ミルクの行商が始まったのだという。ベレー帽をかぶった男が数匹のヤギを連れて、パリの街角を流す。男が吹く笛を耳にした人は、ビンやコップを手に家から出てきて、路上で乳を絞ってもらう。パリでは、18世紀に近郊の農民がロバを連れてくる「ロバのミルク屋」があったそうだが、19世紀になるとバスク人の出稼ぎ人がヤギを連れて行商に代わったらしい。
 この話が印象に残ったのが、牛を連れて牛乳の行商をやるインドの光景をテレビで見たことがあるからだ。1980年ごろのことだが、地方都市ならそういう商売は今もまだ残っているかもしれない。
 東南アジアではどうだったのか。フランスの植民地時代のベトナムでは、今と同じようにカフェ・オレにはコンデンスミルクを使っていたという話を、研究者から聞いたことがあるが、牛乳の行商があったかどうかはわからない。
 タイではどうか。『タイのインド人社会』(佐藤宏、アジア経済研究所、1995)には、こういう話が書いてある。北インドのウッタル・プラデシュ東部のいくつかの県からタイにやって来た者の重要な仕事は、牛飼いであり牛乳販売だった。1961年の統計では、バンコクと対岸のトンブリを合わせて、138の酪農場があったという。そこまではわかったのだが、牛乳をどのようにして売ったのかは、この本には書いてない。生乳を加熱しても、タイの気候では1日ももたないだろう。長い間、東南アジアの牛乳事情が気になっていて、『パリの秘密』を読んだというわけだ。東南アジア乳業史資料は、まだ見つけていない。
 知りたいことが多すぎて、困る。