410 話 またまた、聖火リレーの話

 日本の海外旅行史の資料として買った『飛行機がよくわかる本 ヴィンテージ飛行機の世界』(鈴木真二監修、PHP研究所、2009)を読んでいたら、予想もしていなかったことなのだが、1964年の東京オリンピック聖火リレーと飛行機の話が出てきたので、行きがかり上、ここで紹介しないわけにはいかなくなった。
 聖火リレーのルートは、ギリシャから何カ国かを転々と飛び、沖縄に至るという話はすでにした。当時の航空行政の規則は、俗に「航空憲法」と呼ばれるものがあり、国外は日本航空、国内は日本航空全日空が担当すると決められていたので、聖火リレーも国外部分は日本航空が担当し、国内部分は全日空が担当した。そういう事情だったので、聖火空輸特別委員会の委員長は、日本航空の社長だった。
 聖火空輸機は、ダグラスDC-6Bというプロペラ機だった。映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」で、羽田空港を離陸するシーンに登場した飛行機だといえば、「ああ、あれね」とわかる人もいるだろう。1964年当時、日本航空はすでにジェット機を導入していたが、あえてプロペラ機の使用を決めたのは、東京オリンピックにはDC-6Bの「シティ・オブ・トウキョウ」号を使いたかったかららしい。実より名をとったということだろう。「よど号」事件のように、昔は飛行機に愛称がついていたのだ。
 ところが、この「シティ・オブ・トウキョウ」号は、日本航空ではもっとも古い機種だったので、最新の「シティ・オブ・ナゴヤ」号を臨時に塗り替えて、トウキョウ号ということにした。
 聖火空輸機は、ギリシャから日本に向かう途中の香港で、台風に出会ってしまった。飛び立てない。格納庫に入れるスペースはない。長時間にわたって暴風雨に吹かれ続けて、飛んできた異物により、ついに補助翼が破損してしまった。大事件発生の報を受けて、聖火空輸の代理業務を担当にしたのが、羽田からかけつけたジェット機コンベア880Mだ。聖火を積み替えて、香港・啓徳空港を離陸しようとした時に、ああなんたる不運、エンジンが不調で飛び立てず。2機目も香港で、立ち往生してしまうこととなった。そこで、ちょうど香港にいた香港・東京間の定期便702便を臨時に聖火空輸機にして台北に飛んだ。これは、「二度あることは三度ある」にはならず、「三度目の正直」となって成功した。
 聖火は台北・沖縄・鹿児島と飛び、ついに日本本土に到着した。聖火は「分火」されて札幌にも運ばれた。輝ける国産機YS-11だ。しかし、九州から北海道に一気に飛ぶ能力はなく、名古屋で給油のために立ち寄ることになった。
南と北から東京を目指してリレーが始まった。陸上輸送が基本で、場合によって海上と空輸が加わるというのはわかるのだが、聖火リレー図を眺めていたら、謎の空輸ルートが見つかった。沖縄から鹿児島についた聖火は、熊本ルートと宮崎ルートの二手に分かれ、熊本ルートは福岡から日本海ルートをとる。鹿児島から宮崎に向かうルートは、大分から四国に渡る太平洋側ルートをとる。聖火は3方向に分かれたのだ。
 聖火が「分火」されるのは何の問題もないのだが、鹿児から宮崎のルートが、なぜか空輸なのだ。このルート上は人家もまばらで、陸上リレーなど不可能な山岳地帯だと判断されたのだろうか。まさか、いくらなんでも、霧島地方には、当時はまだ、けもの道しかなかったなどとは思えないが、舗装道路はなかった可能性はある。しかし、それはなにも鹿児島・宮崎間に限った話ではないはずで、当時は日本国中どこでも悪路だらけだったのだ。石原裕次郎浅丘ルリ子の日活映画「憎いあンちくしょう」(1962)を見ると、当時の道路事情がよくわかる。この映画に、東京から九州までドライブするシーンが出てくるが、土ほこりの悪路を走っているのだ。
 というわけで、謎の鹿児島・宮崎空路である。その謎を、ちょっと調べてみた。
聖火リレーに関して、宮崎県議会は「宮崎を聖火リレーの起点に」という決議をして、文部大臣に陳情して、許可されたようだ。したがって、聖火リレーの起点は、鹿児島、宮崎、北海道の3カ所になったというわけだ。宮崎は、鹿児島から陸路で聖火を受け取っては起点にならないという理由で、鹿児島・宮崎が空路になったということらしい。
宮崎県議会が起点決議をした理由は、単純なる郷土愛からなのだろうか、あるいは他に何か特別な理由があったのかどうかわからない。宮崎県が鹿児島県から分離独立(宮崎県再置という。廃藩置県のあと再度の置県という意味だ)から80周年が1964年という理屈もあったが、それがどれだけ意味のあるものかはわからない。それはともかく、この要望が受け入れられたいきさつは、おそらく政治的決断だったと思われる。宮崎県としては、神話などを持ち出して要望したのだろうが、その要望がかなったというあたりに、裏の勢力を感じる。
 この時代の宮崎といえば、思いつくことがある。薩摩藩支藩である佐土原藩は、薩摩藩ではあっても現在の鹿児島ではなく宮崎県で、薩摩藩系列という名家出身の島津久永氏(そう、島津氏だ)が昭和天皇の第五皇女である清宮貴子内親王と結婚したのが、1960年だ。皇室への関心が現在よりはるかに高かった当時は、この結婚の話題が世間を大いににぎわせているなか、ふたりが宮崎へ新婚旅行に行ったことで、「宮崎」が全国的話題となった時代だ。宮崎県議会の「聖火リレー起点決議」が、1962年。ということは、皇族と島津家の結婚と新婚旅行が話題になっているときに、その宮崎で聖火リレー起点誘致運動が始まっていたということになる。同じ62年に、皇太子夫妻(現・天皇皇后)が宮崎県を訪問している。というわけで、皇室と殿様という権威を利用したこの宮崎力が、のちの新婚旅行地宮崎の、「日南海岸」や「フェニックス」といった南国イメージへと変身していくのである。
 聖火リレーは、日本国内でも政治的事件でもあったのである。