411話 ロサンゼルスのニューヨークホテル

 だいぶ前から、旅行の歴史、とりわけ若者の旅行史が知りたくて、ぽつりぽつりと調べている。「若者たちの世界旅行」と限定して考えれば、アメリカから始まったビート、そしてヒッピーの誕生はキーワードのひとつとして欠かせない。1950〜60年代の若者の旅行史資料は簡単にわかるだろうと思っていたのだが、意外にもてこずっている。「ヒッピー始末記」とか「ヒッピー興亡記」といった情報が欲しくて、翻訳書も含めてアメリカ現代史に関する日本語の本はかなり読んでみたのだが、見つからない。英語の本なら情報は見つかるだろうが、本腰を入れてアメリ現代思想史だのアメリ現代社会史だのといった専門書を読みあさるところまでの熱意はなく、グズグズと日々を過ごしている。
 つい先日、ネット古書店で見つけたのが、高校時代の1年と大学時代の3年間を、1960年代のアメリカで過ごしたという人が書いた『追憶の60年代カリフォルニア』(三浦久、平凡社新書、1999)なのだが、個人的な思い出話ばかりで、資料として参考になるような情報はほとんどなかった。
 その新書を読み終えた日の午後、古本屋に出かけて行って見つけたのが、『ガーデン・ボーイ』(石川好、文藝春秋、1994)だった。この小説は1960年代末を舞台にしたものだが、だから買ったのではなく、石川好の『ストロベリー・ロード』とその続編『ストロベリー・ボーイ』はすでに読んでいたのだが、3部作の完結編となるこの本が出ているとは知らなかったから、古本屋で見つけてすぐさま買ったというだけだ。この3部作は、日本人移民史としては資料になるだろうが、アメリカ社会史という点ではほとんど資料にはならない。著者は日本の高校を卒業後、1965年に18歳で移民としてアメリカに渡った作家だ。私は、日本の若者の異文化衝突の物語として第1、2作を読み、その流れで第3作も読んでみようと思ったのだ。読んでみれば、この第3作は、まあ、どうでもいいような内容で、おもしろくない。しかし、ここでコラムを書いてみたくなるネタが見つかった。
 妹尾河童蔵前仁一と前川健一の3人とも泊まったことがあるホテルが、世界に1軒だけある。妹尾・蔵前両氏の旅行記を読んで、知ったのだ。ロサンゼルスの日本人街、リトル・トーキョーにあるにもかかわらず、なぜかニューヨークという名がついているホテルだ。『ガーデン・ボーイ』というのは、カリフォルニアで庭師をやっている著者の分身である主人公の物語で、主人公イシカワは休日に泊まりがけで、リトル・トーキョーに遊びに来た。そのホテルを、こう説明している。

 リトルトウキョウの「ニューヨークホテル」は、一九六〇年代の日本人町最大のホテルだった。リトルトウキョウには、この他にいくつかの安い宿やボーディングハウスがあったが、「ニューヨークホテル」は、ほぼ日本人街の中央に位置する関係上、日本からの旅行者、短期滞在の駐在員、アパートが見つかるまでのビジネスマンの仮の宿としても、便利がられていた。引退し身寄りのない老人が、何人か棲み家にしている、ともいわれていた。

 オンボロではまったくなかったが、駐在員が仮の宿にするような中級ホテルには見えなかった。少なくとも、私が気後れするようなホテルではなかった。二階建ての小さなホテルだったような記憶がある。ロビーにはいつも、日系の老人が椅子に座って、通りを眺めていたのは、私もよく覚えている。取材の情報欲しさに、そのうちの何人かに話かけたことがある。
このホテルのことを、河童さんは、誰かに教えてもらったのだろう。蔵前さんは、発売されたばかりの『地球の歩き方』を見て、泊まることにしたのだろうか。私が泊まったのは、蔵前さんが泊まった翌年の1980年のことだ。アメリカ各地を移動するその時の旅には、発売されたばかりの『地球の歩き方』はまったく役に立たない事はわかっていたので、買っていないし、読んでもいない。この宿のことは、世界を取材してきたカメラマンに教えてもらった。
 「ロスに行くのか。よし、いい宿を教えてやる。リトル・トーキョーに『ニューヨークホテル』っていうのがあるから、そこに泊まれ。空港からバスで、グレイハウンドのバス・ティーボ(日本式に言うと、バス・ターミナル)に行く。そこから歩いて行けるところにリトル・トーキョーがあるけどな、夜はタクシ―で行け。お前はケチして、歩こうとしそうだが、絶対にダメだ。あのあたり、危ない。いいか、歩くなよ。タクシー代、ケチするなよ!」
百戦錬磨のカメラマンに「危ない」と言われたのだから、これは信用するしかなく、深夜、グレイハウンドのバス・ティーボ前で、忠告されたとおりにタクシーに乗ろうとしたら、ドライバーが私をにらんだ。「なに? リトル・トーキョー? すぐそこじゃねえか、歩いて行けよ!」とどなられ、乗車拒否されたのだ。停まっているタクシーはほかになく、しかたなく多額の取材費と撮影機材を持って、トボトボと危険地帯を歩いて行ったことを思い出していたら、この本にもそういう話が出てきた。
夜、イシカワ青年がロビーで、到着したばかりの二人の日本人旅行者に出会う。彼らが求める安い部屋はこのホテルにはなく、また宿探しをするためにロビーを出ていくというシーンに続く文章だ。
 その旅行者は、ボストンバッグを手にホテルを出て行く。茶色のシャツに汗がにじみ出ている。きっとグレーハウンドバスか何かで、どこかの町からやってきたんだろう。グレーハウンドバスのターミナルはこのホテルからだと二十分ぐらいはかかる。あそこからここまでだと、治安のよくない所を通らなければいけないのに、重い荷物を持って、よく歩いてきたものだ

 20分か。もっと近かったような気もするが、よく覚えていない。いま、この原稿を書いていて昔の旅を少し思い出してきた。アメリカ取材旅行をほぼ終えてまたロサンゼルスに戻って来たのだが、ニューヨークホテルはやはりやや高めだったので、もっと安いホテルに泊まった。そこにはリトルトーキョーの食堂の日本人料理人が、アパートとして住んでいたことも思い出した。1ドルが250円の時代だが、宿泊料金は覚えていない。ニューヨークホテルは、たぶん17ドルくらいだったか。
 85年ごろだったか、再びロサンゼルスに出かける用があり、取材先がたまたまリトルトーキョーのすぐそばだったので、仕事が終わってから散歩がてらリトルトーキョーに行ってみた。そのころ、もうすでにこの地区の改造計画が進んでいたようで、なつかしのニューヨークホテルは姿を消して、更地になっていた。
 石川好の本で、ほかにおもしろそうなものはないかと検索したら、『双書 現代のカルテ 60年代って何?』(岩波書店、2006)があったので、さっそく注文した。その本がついさっき届いたのだが、旅行史の資料としては使えそうもない。いくらアメリカでの生活経験があっても、日系人社会にどっぷりつかって暮らしていては、見えてくる世界はかなり狭くなる。