422話 「活字中毒患者のアジア旅行」抄 第1回 バトパハ

 序文
 神田神保町のアジア文庫が出していた「新刊案内」に、エッセイを初めて書いたのは、第17号(1988,10~11)で、以後途切れることなく、最終号の104号の87回まで連載が続いた。「新刊案内」というのは、アジア文庫に入荷した本がリストになっているだけなので、「読書案内のようなものを載せたらいいね」と私が提案し、結局、私が書くことになった。しかし、読書案内は初期だけで、あまりおもしろい本が出なかったり、「何だ、こんなゴミ!」と思うような本が出ると、怒りのエッセイに変わってしまうこともあった。
「新刊案内」は1986年4月に隔月刊で始まり、途中から「アジア文庫から」とタイトルが変わり季刊になった。この冊子は店内に置いてあり無料だったが、定期購読希望者には送料分の負担だけで、発送していた。印刷部数がどのくらいだったかは、よく知らない。最初は、店主の大野さんが、ワープロ専用機「東芝ルポ」で打ち、コピー機で印刷していたはずだが、すぐに印刷業者に任せた方が安くなり、もっとも多い時で数百部くらいだったのではないだろうか。
 私が書いた全87本のエッセイのなかから、20本ほどを選び、ここで紹介しておこうと思う。デジタル化しようと思った意図は、自分のメモにもなるからだ。「あの話、どっかに書いたが・・」と、情報を探したくなったときに、「アジア雑語林」に載せておけば、検索できるという利点があるからだ。
再録する文章は、誤字脱字の訂正はもちろん、かなり手を入れている。元は2000字以上の割と長い文章なので、平均すれば500字くらいは削っているが、場合によっては大幅に加筆したので、1回分を2回に分けていることもある。必要だと感じたら、付記も記す。インターネット上にすでに発表した文章もあるが、手を加えているので、ここでまた載せることにした。文末の(  )の数字は、発表年を示す。


  バトパハ  ―活字中毒患者のアジア旅行


 金子光晴の姿を初めて見たのは、おそらく雑誌「面白半分」の講演会だったと思う。そのあと、中央線古本屋巡りをしていると、吉祥寺でときどき見かける老人が金子だとわかった。古本屋の片隅に腰をおろして店主と話をしていたり、路地をよぼよぼと歩いていたり、喫茶店でコーヒーを飲んでいると、ガラス越しに浴衣姿の老人が散歩している姿を見かけたことがある。
 そのころ、1970年代の初めころの私は、この老詩人と東南アジアの関係をまったく知らなかった。小説に興味がなく、ましてや詩なんぞにまったく興味がなかった。中公文庫に彼の紀行文が入る1976年まで、私にとっての金子光晴は浴衣姿の助平詩人でしかなかった。「面白半分」で猥談をしていたので、助平詩人という印象だった。
 昭和のはじめ、日本を抜け出した金子は、まず中国に行く。金子が上海で暮らしていた場所を調べたことがある。情報を得るということでも便利だったのだろうが、内山書店の近くで、そのすぐそばに、私の祖父が営む薬局があり、母もその地で暮らしていたことを、のちに当時の地図を見て知った。
 金子の旅行記は、中国のあとマレーに来たところまでが、『どくろ杯』。ヨーロッパまでの旅が『ねむれ巴里』。そのヨーロッパを離れて東南アジアをぶらつくのが、『西ひがし』。以上が紀行文3部作なのだが、東南アジアの旅をファンタジーも交えて書いたのが、『マレー蘭印紀行』だ。3部作の方は旅を終えて長い時間が経過した1960年代に出版されたものだが、『マレー蘭印紀行』だけは、1928年から32年にわたる長い旅を終えてから、少しずつ書きためた原稿が、1940年に出版された。
 東南アジアが好きな人たちにとって、これら中公文庫の4冊、とりわけ『マレー蘭印紀行』は、名著としてよく知られている。私もまた、金子光晴の文庫本を持って旅をしてきた。
 東南アジアが好きな活字中毒者としては、金子を超える書き手を待ち望んでいるのだが、正直言ってほとんどあきらめている。プロの書き手たちも、金子を越えようというようなとんでもない野望は抱かず、ただ金子の旅に一歩でも近づきたいと、金子の足跡に自分も足を踏み入れようとしている。具体的な地名で言えば、マレーシアのバトパハだ。マレー語で書けば、Batu Pahatだから、今なら「バトゥー・パハット」とカタカナ表記するだろうが、金子光晴が描いた東南アジア世界に魅了された者たちにとって、この町の名はバトパハとして、いつも心の片隅で輝いている。
 室憲二は『アジア人の自画像』(晶文社)で、バトパハに行ったときのことを書いている。立松和平は『アジア混沌紀行』(筑摩書房)で、山口文憲は雑誌「面白半分」(1980年4月号)で、バトパハを訪れたときの思い出話を書いている(山口の文章は残念ながら単行本未収録)。三人はそれぞれに、ある種の興奮状態でこの町に立ち寄ったものの、文章ではその興奮を抑えようとしているように私は感じた。
 さて、私はといえば、マラッカでぶらぶらしていたときも、バッグには『マレー蘭印紀行』が入っていて、雨で散歩ができない時間は、ベッドに寝転んでこの文庫を読んでいた。マラッカからなら、バトパハまですぐに行ける。しかし、私は毎日マラッカをほっつき歩いていた。現在のバトパハに行ってみたいという気持ちが湧きあがってこなかったのだ。バトパハで、金子を気取って米粉ビーフン)を食べるなんぞ、なんとも恥ずかしいと思った。
 バトパハに行く代わりに、帰国してから『金子光晴詩集』(村野四郎編、旺文社文庫)と『森三千代鈔』(森三千代、涛書房)を読んだ。森は金子の妻で、金子夫妻が旅に出た理由のひとつは、妻の男関係を清算させるためだった。金子は妻を先にヨーロッパに送り、旅をしながら自分の旅費を稼いでいたのだ。だから、森の文章には東南アジアはほとんどでてこない。                       (1988)
 付記:金子光晴全集第8巻におさめられている文章を再編集したエッセイ集、『世界見世物づくし』(金子光晴、中公文庫、2008)が発売されている。このほか、いわゆる「金子もの」の出版物は多い。