437話 冨田先生が残したもの 前編   ―活字中毒患者のアジア旅行

 冨田先生が亡くなった。
 私は先生の教え子ではないが、いままでの功績を考え、大いにお世話になった感謝の意と、たまたま父と同じ1919年の生まれということもあって、敬意を表して「先生」と呼んでいた。私は誰に対しても「先生」とは呼ばない。「さん」づけで呼ぶ。唯一の例外が冨田先生だった。
 冨田竹二郎という名を初めて目にしたのは、井村文化事業社発行の東南アジア書の翻訳プロジェクトである「東南アジアブックス」の1冊、『タイからの手紙』(ボータン著)の翻訳者としてだった。1979年のことだ。翌年発行された『田舎の教師(せんせい)』(カムマーン・コンカイ著)も冨田先生の翻訳だが、その頃は小説のおもしろさを味わうだけで手いっぱいで、「タイの紹介者」という顔を見る余裕がなかった。
 タイを定点観測地と決め、タイに通い、タイに関するあらゆる資料を集中的に読み始めたのが1983年ころからだった。まず、タイに関係するあらゆる本を、ノートをとりながら片っぱしから読んだ。すでに読んだ本も多かったが、そういう本も再読した。借りて読んだ本は、あらためて買ってまた読んだ。今度は自分の本だから、好きなように付箋を付け、傍線を引き、メモを書き込んで精読した。翻訳されているタイ小説もすべて読んだ。分野に関係なく、タイに関するあらゆる本や論文を、手に入る限り読んでいった。駄本だとわかっていても、タイを舞台にした小説というだけで買って読んだ。当時はタイ関係書の出版点数がそれほど多くないので、「すべて読んだ」といっても、大した冊数ではない。国会図書館に通ったわけではないので、せいぜい200冊程度ではなかったか。
そういう作業をしていて、冨田先生の偉業に初めて気がついた。訳註がすさまじいのだ。小説に出てくる動植物には、タイ語名や学名がついている。食べ物も行事も、あらゆる事柄にていねいな訳註がついている。それは執念といってもいい。日本人のほとんどが知識も関心もないタイに、なんとか興味を持ってほしいという熱意だ。冨田先生は翻訳者にとどまらず、紹介者でもあった。
 タイ関係書があまた出版され、女性誌バンコク特集をやる現在では想像できないだろうが、90年代初め頃までの日本では、タイは無名の国のひとつだった。タイに興味のある人など、きわめて少なかった。
 冨田先生の翻訳と膨大な訳註のおかげでタイに関する雑多な知識がどんどん増えていった。同時に、タイを調べていることのおもしろさも教えてくれた。訳註だけ集めれば、「タイ雑学事典」になるほどの量があり、もちろん質も高い。そういう註を書いてくれた熱意に感謝したくて、翻訳書に書いてある自宅住所宛てに感謝の手紙を書いた。すぐさま返事をいただき、以後、手紙のやり取りが始まった。
 私がタイに関する疑問を書くと、手短かな回答と共に、関係する論文のコピーなどを送ってくださった。そういった手紙のやり取りのなかで、先生は目下『タイ日辞典』の編纂作業をしていることを知った。
 私が手紙を書くと、先生はいつもすぐに返事をくれたのに、あるとき、返事がまったく来ないことがあった。辞書や大学の仕事などで大忙しなのだろうと思い、大して気にも留めなかった。
 先生から久しぶりに手紙が届いた。
「倒れて、入院していたので、ご返事が書けずに申し訳ありません。もう少しで、あの世に行ってしまうところでした。辞書を作ると、命をなくすなどと言いますが、本当に危ないところでした。点滴を受けながら、校正作業を続けています」
 それからかなりたって、『タイ日辞典』の宣伝パンフレットと、辞書が完成したことに関して先生が受けた新聞インタビューの切り抜きと共に、「ついに、できました」という手紙が届いた。1987年だった。
 先生が命と引き換え覚悟で作った辞書を、すぐさま買った。まだコンピューター以前の辞書作りなので、タイ語と日本語のタイプライターを使い、紙に打った文字を台紙に貼って版下を作っていた。B4版2200ページをハサミとのりで組み立てた。
「タイ日辞典」の構想は、先生がタイに留学していた戦時中から始まったので、完成まで40年以上かかったことになる。トヨタ財団などの援助は受けたが、基本的には自費で作り、自費で出す出版物だ。定価は2万8000円。納得の値段だ。
 その当時の私は、タイ文字をほとんど読めなかったから、ローマ字表記された発音記号と日本語の説明を拾い読みして、ノートをとった。1週間かかって読み終え、これがあればバンコクの本が書けると思った。
 それから1年もたっていなかったと思う。バンコクで世話になった日本人に、お礼の代わりにこの辞典をあげようと思ったが、アジア文庫にもなかった。売り切れだ。定価2 万8000円の本が、1年もたたずに売り切れた。その驚きを手紙にした。
「すぐ売り切れるなんて、想像していなかったでしょうね」と、書いた。
「この辞書がすぐ売れるかどうかなんて考えたことないですよ。そもそも、私が生きているうちに、『タイ日辞典』が完成するとは思ってなかったです。1冊、手元にあります。お友達用に欲しければ、どうぞ」
 タイとの関わりが1973年からでしかない私にも、2200ページの『タイ日辞典』が出るのは奇跡に近いことはわかる。だから、戦前からタイと関わって来た先生には、なおさら驚きだろう。「出したい」と思いつつ努力を続けてきたが、完成した辞書を自分が手にすることができる自信はなかったのだろう。そういう辞書がたちまち売れて、とんだ事件に巻き込まれた。私への手紙の最後に、こんなことが書いてあった。
 自費出版の本がたちまち売れてしまったので、売り上げ金がどっと入ってきて、なんと税務署の調査が入ったんですよ。これが面倒で、戦前からの苦労の結果がこれですよ。