440話 芸能の生きてきた世界  ―活字中毒患者のアジア旅行

 

 先日、国立演芸場に落語を聞きに行ったのだが、失礼ながら、落語よりもおもしろかったのが売店だった。売店そのものはどこにでもある映画館の売店とそう変わらないのだが、ただ一点違いがある。場所柄なのだが、演芸書を置いてあるコーナーがあった。大書店で音楽や映画のコーナーで長い時間を過ごすことはあるが、演芸本をきちんと点検することはあまりない。
 売店に置いてある本の種類は少ないが、おもしろそうな本がけっこうあるので、厳選して2冊買うことにした。その夜、まず『桂子八十歳の腹つづみ』(内海桂子東京新聞出版局)を読んだ。
 翌日は赤坂に行く用があり、ちょっと早めに着いたので、いつものように本屋巡りをした。TBS近くの金松堂書店は場所柄、マスコミや芸能関連の本を多く集めていて、ちょっと前から買いたいと思っていた『アマリア・ロドリゲス語る「このおかしな人生」』(ヴィトール・パヴォン・ドス・サントス著、近藤紀子訳、彩流社)があったので、ちょっと高いが買った。アマリアは、ポルトガルの伝説的ファド歌手だ。1999年に亡くなったときには、ポルトガルは3日間の喪に服したというくらいの大歌手だ。
 「内海桂子・好江」の漫才で知られた内海桂子は、戸籍では1923年となっているが、じつは22年生まれらしい。生まれも育ちも東京の浅草だと思っていたが、20歳を過ぎた頃、じつは千葉県の銚子生まれでだと知った。その事実を知った時、母は3番目の夫と暮らしているということも同時に知った。
 1920年生まれのアマリア・ロドリゲスの自伝は、次の一節で始まる。
 「私は、自分の生まれた日付を知らない。私ばかりか、家族の誰ひとり知らない。一家は大変な大家族だったから、ひとり生まれたからといって、それでどうということもなかったのだろう」
 浅草の漫才師とポルトガルのファド歌手の人生が、その地理的な距離ほどには遠くないことに気がついた。内海桂子は、小学校は3年で中退して、奉公に出た。アマリアも3年3カ月小学校に通っただけで、お針子になった。同じ時代の、東京とリスボンの貧しい少女の物語なのだが、桂子の方がまだ豊かな生活をしていたような印象を受ける。なにしろ、アマリアが育った家には、電気がなかったのだから。離島や山村で暮らしていたわけではない。首都リスボンでの暮しだ。
 内海桂子の自伝を読んでいて、芸能版「おしん」が頭に浮かんだのだが、ポルトガルにも「おしん」がいたのだ。
 芸能本を、もう1冊。『上海ブギウギ一九四五 服部良一の冒険』(上田賢一、音楽之友社)は、服部良一の伝記を軸に日本の大衆音楽の歴史を語っていく本だ。戦争と音楽をテーマにした文章がおもしろい。
 アメリカでは南北戦争(1861〜65)が南軍の敗戦で終わり、解散した南軍軍楽隊の楽器が二束三文の値で売られた。そういう楽器を使って生まれたのが、ジャズだ。日本では、ワシントン軍縮会議(1921〜22)が音楽と深い関係がある。ワシントン会議軍縮が決まり、戦力と直接関係のない軍楽隊が、すぐさま人員削除の対象になった。仕事を失った隊員たちは、民間音楽隊に入ったり、サーカスや無声映画の伴奏などをして糊口をしのいだ。服部が音楽を学んだ出雲屋少年音楽隊の指揮者も、軍楽隊の出身者だった。
 著者は音楽ライターではないので、音楽の社会背景をていねいに書いている。だから、私のように音楽の部外者が読んでも、充分に楽しめる内容になっている。
 付記:その昔、貧乏ライターに仕事をくれる会社が赤坂にあって、だいぶ通った。その後、溜池山王国際交流基金のアジア映画祭などにもしばしば行ったので、赤坂に行けば、この金松堂と文鳥堂、そして一ッ木通りにあった古本屋(いま、どうしてもあの店の名が思い出せない。川村書店だったか?)の3店には必ず立ち寄った。赤坂はけっしておもしろい町ではないが、本屋歩きは楽しかった。