444話 マンガ『食客』が教えてくること  ―活字中毒患者のアジア旅行  

 

 『焼肉の文化史』の著者のように、かなり以前から朝鮮半島の食文化を研究してきた人なら、次の2冊を書店で見かけたら、まず買わないだろう。幻冬舎から出た『韓流マンガ 幻のチゲ鍋』と『韓流マンガ 究極のキムチ』という韓国マンガの日本版2冊だ。著者は有名な韓国人のマンガ家ホ・ヨンマンであるが、まず気がつくのは翻訳者の名前が明記されていないことだ。そして、このマンガが韓国でどのように出版されたかといった解説がない。タイトルに「韓流マンガ」、帯には「韓国版 美味しんぼ!」というだけで、いかにも時流に乗りたい幻冬舎商法が見てとれる。チゲというのは、小鍋仕立ての汁物の意味だから、「チゲ鍋」では「小鍋鍋」という意味になってしまう。「おかしいが、日本では『チゲ鍋』という語も使われているから、このタイトルにした」といった解説もいっさいない。
 マンガマニアによるマンガ批評というのは私の眼中にないのでどうでもいいが、このマンガそのものは、悪くない。きちんと作っている。だから悪いのは、仕事をしない編集者だ。註も解説もなし。ハングルをそのまま日本語に置き換えただけで、日本人読者に韓国の食文化をわかってもらおうという配慮などまったくない。
 マンガの主人公ソンチャンは、料亭の料理人をやめて、より良い食材を求めて各地に出向き、ソウルで販売するトラックの行商人をやっている30代の男。野菜や魚貝類など食材の仕入れにまつわる話や、その料理法などを巡って毎回、話が展開していくというマンガだ。
 韓国人が韓国人向けに描いたマンガをそのまま日本文字に直しても、意味が通じない。例えば、「シナモズク蟹メウンタン」なる語が何の説明もなく登場する。メウンタンは辛い汁だということを私は知っているが、日本では良く知られた料理ではない。シナモズク蟹は私も知らないので調べてみたら、上海蟹のことだった。基本的にはちゃんとしたマンガなのだから、編集者がちゃんと仕事をすれば、いい本になったのに残念だ。
 米の話で、モチ種があるのはジャポニカだけだというような説明をしているのは明らかに間違いだが、こういう間違いが多くあるわけではない。
 「やっぱり、そうだよなあ」と思ったのは、韓国人の食事風景だ。旅行ガイドや韓国食べ歩きの本や、韓国食文化の本など、あらゆる本に韓国人の食事の仕方が書いてある。飯やスープはスプーンで食べる。汁のないおかずは、箸で食べると書いてある。韓国人は、日本人と違い、飯茶碗をけっして持ち上げて食べない。そういう意味の説明が、どんな本にも書いてある。しかし、私は機会があるたびに、それは違うと書いてきた。「あるべき姿」を説明するマナーの話と、現実の姿は違うことに、私はとっくの昔から気がついているからだ。
 私の趣味というか、ライフワークといってもいいが、「食事の仕方調査」を、韓国を旅行しているときもやったことがある。すると、茶碗を持ちあげて、スプーンや箸でご飯をすくっている姿をしばしば見かけた。『韓流マンガ 幻のチゲ鍋』の224ページの食事シーンで大学教授が茶碗を左手に持ち、右手の箸で飯をすくって食べる姿がある。韓国人のマンガ家が、韓国人向けのマンガに、こういうシーンを自然に描いてしまうくらいよくあることだと解釈したらいいだろ。 今現在生きている韓国人が、いつでもマナー通りの正しい食べ方をしているわけではないと、私は言いたいのだ。理想とする「あるべき姿」と、現実の「ある姿」を、韓国文化紹介者は混同してはいけない。           (2005)
 付記:このマンガは、韓国語タイトル『食客』のまま、映画(2007、2010)やテレビドラマ(2008)になったせいで、原作漫画が装いも新たに、2009年に翻訳出版された。こんどは、ちゃんとした本に仕上がっている。翻訳者名も明記している。『食客』(ホ・ヨンマン、カン・スンジャ訳、講談社)というタイトルで、現在まで5冊出ている。「5冊を出版」と宣言していないから、売れればもっと出す予定だったのだろうが、現在までのところこれ以上は出ない。韓国では、単行本27巻で終了したそうだが、日本では、たいして売れないのだろう。なお、映画「食客」については、このアジア雑後林の347話に批評を書いている。
 韓国人の食事の仕方は、ドラマや映画でも注意して見ているが、やはり私の説の正しさを再確認している。冷麺など、丼に口をつけて汁を飲んでいる姿も見た。上品な方々は、「お行儀が悪い」と顔をしかめるだろうが、現実はこうだ。