448話 若者が海外に出かけるようになったころ  ―活字中毒患者のアジア旅行 

 

 2週間かかって、やっと1冊の本を読んだ。500ページを超える本ではあるが、だから時間がかかったわけではなく、内容が難しかったわけでもない。読んでいるとあまりにおもしろく、関連する本を併読するようになり、読み終えるのに時間がかかったのである。
 京都大学山岳部2回生が、海外遠征を提案した。1950年代のことだ。提案した学生は、のちに朝日新聞の記者となる本多勝一。この遠征がきっかけで、山岳部員の一部が探検部を作った。1956年のことだ。それから現在までの足跡を記したのが、『京大探検部 1956〜2006』(京大探検者の会編、新樹社)だ。この本は、戦後のしばらくの間、若者が海外に行くことなど、とうてい不可能だというのが常識だった時代に、猪突猛進、艱難辛苦・手練手管、勇猛果敢、怖いもの知らずで日本脱出を企てた若者たちの記録である。
 私は京都大学にも探検部にも関係してはいないが、京大探検部出身者が書いた本は、ずいぶん読んでいるし、ふだん交流のある人が、この本でじつは京大探検部出身だと初めて知ったということもある。
 1962年に探検部に入った瀬戸口烈司(のちに京大教授)は、「まえがき」でこう書いている。「遠征の最大の難関は国を出ることであった。そこで、遠征は出発すれば半分は成功、と言われるようになった」。国を出ることが難関だった理由は、1964年に海外旅行が自由化されるまで、外国に行くことで日本および日本人に利益が与えられると政府が認めない限り、日本を出ることが許されなかったからだ。あくまで形式上だが、物見遊山の海外観光旅行というのはありえないことになっていた。カネもコネも権力もない若者は、日本政府が認めるような大義名分をでっち上げて、政府や企業を煙に巻いて資金と物品を援助してもらった。若者たちには、探検隊を組織するだけの、政治力や活動力や組織力や知能も要求された。今のように、「行きたいから、行く」というだけで、外国に行ける時代ではなかった。
 この本を読むのに時間がかかったのは、この本の世界にもっと浸っていたかったからだ。
 38人の探検部の元顧問や元部員たちが、時系列にそって計45本のエッセイやインタビューが載っている。ある部員の思い出話を読んでいると、その報告書がないか気になって調べてみる。もしあれば、ネット古書店で次々に関連書を注文して、届けばそちらを先に読む。それは、例えばこういう読書だった。
 「探検部と為替自由化時代」という文章が載っている。1962年入部の鳥居正史氏が書いている。62年入部というのが興味深い。入部したときは、まだ自由に海外には行けない時代だったが、2年後に海外旅行が自由化された。自由化されれば、日本を出るための大義名分はもはやいらない。このころから、探検部員のなかには今までと違う新しい旅をする者が現れたのである。鳥居氏は、単独で、しかも自費で日本脱出を企てたのである。「当時はアルバイトの日給が300円だった時代」に、「フランスの貨物船でマルセイユまで10数万円もかかり」、ヨーロッパに向かった。
 ヘルシンキで働いていたころ、夫婦で旅行している日本人に会い、よく話をした。夫は帰国後小説家になり、鳥居氏のことをエッセイに書いた。「五木さんたちと議論をたたかわしたことが彼のデビューの一石となり、三〇年後に『デビューの頃』という本に忘れずに書いてくれた」という五木とは、もちろん五木寛之。しかし、『デビューの頃』という本は存在しない。『デビューのころ』(集英社、1995)は、現在『僕はこうして作家になった 〜デビューのころ』(幻冬舎文庫、2005)になっている。すぐさま注文し、読んだ。
 私は五木寛之研究をしていないので、彼のことはよく知らない。五木の初めての海外旅行はソビエトだった。1965年6月だった。32年生まれだから、このとき32か33歳ということになる。レコード会社専属の作詞家が、「私は思いがけず念願のロシア行きの夢をはたすことができて」、けっこうな額の資金を持って、夫婦で旅に出たらしい。年齢的にも資金的にも、貧乏旅行者の仲間ではなかったようだ。
 五木の文章には、ヘルシンキで働いている京大生の「鳥井君」として、鳥居正史氏が登場する。「鳥井君」は、ヘルシンキ市内のレストランで働いている。1日7時間半で週に6日働くと、週給140クローネになった。これは9800円で、日給に直せば1600円。住んでいる部屋は、五木夫人が「うらやましい」というほど立派で、家賃は友人と折半で8400円。こういう生活をしていて、月に60ドル(21600円)ほど蓄えられるという。
 五木は若者の旅を取材していたので、エッセイにはこういう数字が多く出てくる。私は読書を中断して電卓を取り出し、計算をして、1965年のヘルシンキの日本人の経済生活を調べていた。ヘルシンキで皿洗いをしていると、日本の同世代のサラリーマンの月給くらいは残せたことがわかった。こういうことをしているから、読書はなかなか進まない。
 五木の文章はそれほどおもしろくはないが、次の文は資料として興味深い。ソビエトから帰国した五木は、「小田実ふうの体験旅行記を書こうと企てたことがある」そうで、「しかし、二、三〇枚書いたところで、計画は投げ出してしまった」。いくらがんばっても小田のようには書けないので、旅の体験を小説にすることにした。『さらばモスクワ愚連隊』という小説を書いたら、小説現代新人賞を受賞して、小説家の道に進むことになった。                                             (2006)
 付記:鳥居正史氏は、のちに海外旅行が自由化された直後の旅の様子を、旅日記という形で自費出版した。『一九六四年春 旅立 〜二十歳のヒッチハイク』(鳥居正史、幻冬舎ルネッサンス、2012)は、注釈も付いていて、当時の旅資料にはなるが、けっしておもしろい文章ではなく、ただの行動メモでしかない。日記にもその註にも、五木との出会いはなぜか封印したようで、記述はまったくない。バンコクでは、幻の伝説的安宿「タイソン」に泊まっていることが確認できた。資料で確認できる限り、この宿に泊まった最初の日本人である。というわけで、1960年代半ばの安宿情報がわかるという程度の価値はある。
 1960年代の若者たちが定年退職し、自分史のひとつとしてかつての地球放浪記を書くようになり、何冊もすでに出版されている。おもしろい本が登場することを、わずかに期待して、つい手を出してしまう。