449話 大野力さんとピブーン  ―活字中毒患者のアジア旅行

 

 手紙類を思い切って整理した。引き出しに入り切らなくなった手紙類を大きな箱に移したのは数年前で、その箱が満杯になってしまったので、これを機会に全部捨ててしまおうと思った。私もすでに手紙から電子メールの時代に入ってしまったから、今後どれだけ時間がかかっても、文箱がいっぱいになることはもうないだろう。
 手紙は、なかなか捨てられない。勇気をふりしぼって、どんどん捨てていったのだが、どうしても捨てられなかった手紙が、当然何通もある。冨田竹二郎先生や大野力さんからの手紙も捨てられなかった。
 大野さんからの手紙は、こういういきさつでいただいた。1998年に出た『ニッポン人はなぜ?』(大野力、スリーエーネットワーク)が非常におもしろく、教えられたことも多いので、書評を書いた。著書に自宅住所が書いてあったので、書評のコピーを送った。それをきかっけに手紙のやり取りがあり、何通かの手紙をいただいた。『ニッポン人はなぜ?』が出てから3年後の2001年に亡くなったことを、新聞の死亡欄で知った。大野力さんを知らない人のために、略歴を書いておこう。
 大野力(おおの・つとむ)1928年生まれ。中学教員のあと、文筆業に入り、「思想の科学編集委員、のち同社社長。1972年以降アジア各地を旅して、「アジア歴史講談」と銘打ち、アジアの話をする会を各地で開く。神奈川県相模原市国際交流協会理事、海外技術者研修協会講師。
 私が初めて大野さんを知ったのは、『新・亜細亜風雪書』(創世記、1976)が出た頃だろう。学者ではない人たちが書いたアジアの本が出始めたころだ。そのあと、『再発見アジアを知る方法』(日刊工業新聞社、1978)が出た。政治学や経済学の論文ではなく、「日本はこうすべきだ」とい提唱でもなく、過去の贖罪でもなく、経済進出のそそのかしでもなく、アジアにはこういう興味深いことが転がっているよという紹介だった。いつだったかはっきりとは覚えていないが、上野本牧亭で大野さんの「アジア講談」を聞いたことがある。演目は「ホセ・リサールの日本訪問」だった。ホセの『ノリ・メ・タンヘレ』(井村文化事業社、1976)をすでに読んでいたから、ホセ・リサールは知っていたが、日本に来たことがあるとは知らなかった。
 それが大野さんの姿を見た最初だが、最後かどうかはわからない。なにかの講演会に出席されたかもしれないが、一度も言葉を交わしたことはない。
 竹中労もまた、この時期に積極的に講演会に出ていた。竹中が大迫力のアジテイターであったのに対して、大野さんはやさしい「お話おじさん」だった。竹中のアジ芸(アジテーション芸)は見事なものだったが、内容的には私の理解の外であることが多かった。だから、アジにそそのかされることはなかった。一方、大野さん話はまわりくどい部分もあったが、話の方向は私の好奇心に近かった(「大野さん」と書いているのに、竹中に対して「さん」をつけていないのは問題かなとは思うが、私にとっては、「竹中労」と敬称略でよぶのがふさわしいような気がする)。
 『新・亜細亜風雪書』の第3章は、「アンパンと人力車 輸出された”明治の発明”」というタイトルだ。クアラルンプールの国立博物館に、マレー半島で使われていた人力車が展示してあるという話から、アジアの人力車情報を語っていった。それが、私が初めて知った日本以外の国の人力車事情だった。のちに、東南アジアの人力車について調べてみようと思った時、当然クアラルンプールの国立博物館に行った。1冊の本としてまとまった『東南アジアの三輪車』(旅行人)の参考文献に『新・亜細亜風雪書』をあげているのはそういういきさつがあったからであり、『ニッポン人はなぜ?』の書評と手紙を大野さんに送ろうと思った理由も、人力車のことを教えていただいたお礼の意味もあった。この機会に、お礼をしようと思ったのである。
 私の手紙の返信に、大野さんが世話役をやっている相模原国際交流協会が発行している「国際交流ニュース」のバックナンバーが送られてきた。そこには、大野さん自身によるピブーンに関する記事が載っていた。
 ピブーンとは通称で、プレーク・ピブンソンクラームというタイの元首相(在1938〜44、48〜57)で、クーデターが起こってタイを脱出して、日本に逃れてきた。そして、二度とタイに戻ることなく、1964年に相模原で客死した。その事実は知っていたが、詳しいいきさつはタイ政治などの専門書を読んでも書いていない。1冊まるごとピブーンを書いている『ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』(村嶋英治、岩波書店、1996)を読んでみても、日本時代のことはまったく書いてないのだ。そういう事情だったのだが、ピブーン終焉の地相模原で発行しているニュースレターなら、おもしろい情報が満載だろうと期待したのだが。まだ序章だった。本論に入ればまた送ってもらえるのだろうかと期待していたら、新聞で大野さんが亡くなったと知って、それっきりになってしまった。
 そのころいただいた手紙と「国際交流ニュース」のバックナンバーが、今回の手紙箱整理で出てきて、すっかり忘れていたピブーンの連載記事は、その後どうなったのか気になった。大野さんが原稿を書きためていて、ある程度は発表されたのか、それともほかの誰かが引き継いで、研究をしているのだろうか。もしも「国際交流ニュース」にその後のピブーンの情報が出ているなら、ぜひ読んでみたい。すぐさま、相模原国際交流協会に電話してみた。
 電話のやりとりが少し変だった。探りながら、電話の相手と会話をしていてわかったのは、協会は大野さんの自宅で、その電話に出たのは大野さんの奥さまだったのだ。私は市役所の一室で、職員が電話に出ると確信していたので、話がうまくかみ合わなかったのだ。電話で次のような話を聞いた。
 大野さんはピブーンを調べたくて、タイにも行って資料探しや取材もやっていたのだという。大野さんはタイ語資料は読めないが、アシスタントを使って、資料を解読する覚悟だったらしい。執筆の準備をしている間、メモを「国際交流ニュース」に書きつつ本格的に執筆の準備に入るというところで、病魔が襲い、資料を集めただけで終わってしまったということだ。90年にいただいた手紙では、協会の仕事などいろいろ忙しく、ピブーン研究にはなかなか手がつけられませんと書いてあったが、仕事の配分を工夫して、いよいよ書く段階に入っていたようで、なんとも残念だ。
 非常に有名なタイの元首相が実質的に日本に亡命し、そのまま日本で死んだというのに、日本語の資料はほとんどない。戦中と戦争直後というピブーンの在位を見ればわかるように、日本軍と深い関係を持った首相であり、戦後賠償(タイ特別円)時代の首相であり、日本での生活資金は、誰がどのように支出したのかなど、明確にできないことだらけなのだ。ピブーンを書いた村嶋教授が、この点にまったく触れていないのにも気になる。                                              (2007)