472話 狂犬とイギリス人 前編

 昨年バンコクで買った本を読んでいて、ジョー・コッカーのアルバムを思い出した。
 あれはアフリカだったか、アジアだったか場所を覚えていない。1980年代だったと思うが、安宿のけだるい午後に、イギリス人と「イギリス人という人たち」といった話題でおしゃべりを楽しんでいた。そのときに、ふと頭に浮かんだのが”Mad Dogs and Englishmen”という言葉だった。ジョー・コッカーアメリカツアーの名前であり、そのライブ盤(1970)のタイトルであり、そのコンサートを記録したドキュメント映画(1971)のタイトルでもある。はっきりとした記憶がないのだが、その映画を日比谷で見たような気がするのだが、もしかすると幻想だったかもしれない。客が入らず、1週間か10日ほどで公開打ち切りになったはずで、見ようと思っていて見られなかったのか、間に合って見たのか、もはや記憶にない。
 イギリス人と話をしていて、そのアルバムの名が突然浮かんだのは、もちろん “Englishmen” という語が入っているからなのだが、このタイトルの意味がわからず、気になっていたからでもある。この機会に、当のイギリス人に聞いてみようと思いついたのだ。
「ああ、あれね。『狂犬とイギリス人は、暑いさなか、日向に出ていく』といったような意味さ」
 そういう説明でなんとなく納得し、それ以上知りたいとは思わなかった。
それから長い長い時間が流れ、このアルバムの話が再び私の前に姿を見せたのは、イギリス人が書いた本の中だった。
 2005年頃のこと、ロンリー・プラネット社のホームページを読んでいておもしろそうな本を見つけた。”Once While Traveling”というその本をすぐさま注文しようとしたのだが、品切れ中だった。それで、増刷するまで待っている間、ほかになにかおもしろそうな本はないかとアマゾンで探していたら、”Once While Traveling”と内容は同じだが、別の書名で香港の出版社から出ている本があることを知った。こちらはすぐ買える。
 “Unlikely Destinations the lonely planet story”  Tony and Maureen Wheeler , Periplus , 2005は、旅行ガイドブックのロンリー・プラネット創業者夫婦の旅行記であり、創業物語であり、旅行ガイドブック発行にまつわるよもやま話が詰まっている本だ。この本に、次のような話が出ている。
イギリスからオーストラリアまで旅行してきた著者夫婦は、旅行情報を求める友人知人が多いので、出版社を作ろうと考えた。食事をしながら社名を考えているときに、トニーは「スペース・キャプテン」を口ずさんでいた。LP「マッド・ドッグス・アンド・イングリシュメン」のなかの1曲だ。歌詞のなかの”this lovely planet”を、トニーは”this lonely planet”と間違って覚えていると指摘され、「でも、こっちの方がいいよなあ」ということで、lonely planetを社名にしたというエピソードだ。ちなみに、社名はこのようにすべて小文字で書くのが正しい。
 その「スペース・キャプテン」の歌詞に、次の2行がある。
 Once while was traveling across the sky
 This lovely planet caught my eye
 歌詞を読んでいて、この自伝のロンリー・プラネット版のタイトルが”Once While Traveling”だったことを思い出した。社名にちなんで、自伝と社史であるこの本のタイトルも、「スペース・キャプテン」からいただいたというわけだ。
 この歌の歌詞を調べていて、「あれれ」と思う疑問がふたつ湧きあがってきた。歌詞が上に引用したものとは別に、”Once I was traveling”というのもあるのだ。ネット上に引用した人の間違いかもしれないので、ジョー・コッカーはどう歌っているのかYouTubeで調べてみたら、”Once I was・・“だ。別の歌手のカバーバージョンを聞いてみると、同じ歌手なのに、”Once I was”と”Once while”の両方で歌っている。イギリスやアメリカのレコードには歌詞カードはついていないはずだし、ジョー・コッカーの歌もオリジナルではないので、正解はわからない。
 もうひとつの疑問は、“my eyes”ではなく、“my eye”と単数形になっている意味がわからない。英語が良くわかるどなたか、ぜひともご教授ください。