472話で、目がなぜeyesではなくeyeと単数形なのかという疑問を書いているうちに、旅先でもそういう話をしたことがあったことを思い出した。
インドネシアはスマトラの山中、快適な高原の街で過ごしていた時のことだ。オランダ人の屋敷だった住宅をゲストハウスに改造した宿は、中庭に面した軒下に、インスタントコーヒーが入った缶と電気ポットが置いてあり、自由にコーヒーを飲むことができた。そんなわけで、宿にいるときは、いつも中庭でコーヒーを飲みながら、本を読んだりノートにメモを書いていた。
そんなある日の午後、ここの客であるアメリカ人の大学院生が、宿のオーナーの娘らしい女子高生に英語の個人教授をしていた。問題集の長文を読んで、設問に答えるというものだ。
先生が設問を読みあげる。高校生はあまり英語ができないらしく、「あ〜」と声を出すだけで答えの英語が出てこない。先生はやや大きい声でゆっくりともう一度問題を読み、それで私が本から顔を上げ、やはり何も答えられない高校生を見た。私はその質問は聞きとれたが、長文を読み上げたときはノートにメモを書いていたので、聞いていない。だから、私も正解は知らない。
アメリカ人のニワカ教師は、ゆっくりと正解を口にし始めた。
“He・・ drinks・・?”教師は生徒の顔を見て、生徒の口から続いて正解が出てくることを期待したが、生徒が黙ったままなので、しかたなく自分ひとりで正解を口にした。 “ a lot of・・ beers・・ everyday.”
なに、”beers”だと? ビールが複数になるか? おいおい。waterもmilkもcoffeeも、液体はどんなに大量にあろうが複数形にならないという学習は、たぶん中学一年生レベルでやったことではないか。a cup of coffeeがもう一杯増えても、two cups of cofeesにはならないと、はるか昔に学んだような気がするのだが、あれは幻覚だったのか。
「ねえ、beersって、sがつくのはどうして?」
英語ができないインドネシア人高校生に代わって、英語があまりできない日本人旅行者が口をはさんだ。
「sは複数形のsだよ。例外的にsheepのように単複同形というのがあって・・・・」
「いやいや、そんなことはわかっているんで、気になったのはbeerにsがつくことなんだ」
大学院生は、小さな声で、“a lot of beers”と何度も繰り返し、「変じゃないよ」といった。
「じゃあ、ビールじゃなくて、コーヒーやコーラやミルクでも、複数形のsがつくの? He drinks a lot of coffees everydayって言う? それが正しい英語?」
「いや、言わない」
「じゃあ、なぜbeersなの?」
英語教師は答えが見つけられず沈黙した。「そういう習慣だから」というのが正解かもしれない。文法に「なぜ?」と疑問を投げかけても答えが返ってこないことが少なくない。教師を問い詰めてもしかたがないので、生徒である私は自習した。アメリカではビールはビンや缶で飲むことが多い。ミルクもコーラも、家庭では巨大ボトルからカップに注いで飲む。コーヒーもカップで飲む。だから、「何本もの」というニュアンスで、アメリカではビールに複数形があるんじゃないかという仮説を立てた。
30分ほどたって、我が仮説を検証するチャンスが巡って来た。この宿で親しくしているイギリス人夫婦が散歩を終えて帰って来たのだ。イギリスではビールをジョッキで飲むことが多い。
「ちょうどいいときに、先生に出会った」
「なんだよ」
「英語の文法に関する質問なんだけど、He drinks a lot of beers everydayって、変じゃない?」
「どこが?」
「beerじゃなくて、beersになっているところ」
イギリス人夫婦は何度か例文を口にして、「変じゃないよ」という。
「じゃあ、ミルクもコーヒーも複数形にする?」
「しない。ビールだけ。でも、それで間違いじゃないのよ」
というわけで、謎は解けないまま現在に至っている。
こういう話を書いていると、私が英文法をいつも気にかけているような印象を受けるかもしれないが、事実は逆だ。試験にでるような細かい文法など一切気にしないから、あるいは受験英語など無視してきたから、英語の試験はいつもひどい成績だった。高校時代、英語に関しては、通常のクラス編成を崩して、「できる者クラス」と「できない者クラス」というように能力別に分かれていた。私はもちろん「できない者クラス」に配属され、そのなかでもきわめて成績の悪い生徒だった。
だから、最初の海外旅行のときから、英会話であまり困らなかったのだ。文法をよく知らないから、文法が気になってしゃべれないという弊害がなかったのだ。単語だけを並べている英語の会話を、恥ずかしいとは思わなかったのだ。