483話 アメリカからの自由化要求などの、経済のお勉強

 1970年の大阪万博の会場で、ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)が出店。そして、同じこの年に、名古屋でKFC、銀座でダンキン・ドーナッツ開店。翌71年には、大阪箕面市に、ミスター・ドーナッツ、銀座にマクドナルド開店。その後、ファミリーレストランが次々と出店していく。
食文化も専門領域にしているライターだから、このような歴史は、とっくの昔におさらいしている。すでによく知っている事実なのだ。しかし、こうした事実に、「いきさつ」や「なぜ」を考えたことがなかった。歴史的事実の羅列だけで、それ以上考えようとはしなかったことに気づき、改めて調べてみたくなった。
 日本ではすでに室町時代には飲食店があったが、「外食産業」と呼べるほどのまとまりのある群は、1970年代に入るまでほとんど存在しなかった。個人商店を超えるものは、デパートの食堂や不二家などを除けばあまりなかった。
 1970年代に外食産業が登場してきたのは、それなりの理由がある。アメリカとの経済関係だ。日米関係というのは、黒船の時代から、「自由化」を求めるアメリカと、それに抵抗する日本という図式だった。コメの輸入自由化とか、オレンジの輸入自由化といった波は新聞などで私も知っていたが、「資本自由化」というのは、今回の勉強で初めて知った。戦後、日本におけるアメリカ資本の自由化、つまりアメリカ資本の企業が日本で活動できることを求めていた。
 アメリカとの資本自由化交渉は、1967、1969、1970、1971、1973年の5回にわたって自由化措置がとられた。1969年の第2次自由化により、外食産業は100パーセントの自由化が認められたことにより、KFCダンキン・ドーナッツなどアメリカ資本の外食産業がどっと日本に進出したのである。
資本の自由化と外食産業に関しては、インターネットで調べただけで簡単に情報がでてくるのだが、1964年の海外旅行自由化と世界経済に関する情報はネットにも書籍にも、ほとんど出てこない。外食産業の研究は経済問題として考えるが、旅行業の場合は、「いくら儲かったか、損したか」ということ以外、経済の目で考えることがないようだ。
旅行業や観光学の資料には、「1964年に海外旅行が自由化される」といった記述は必ずあるが、そのいきさつをきちんと書いた文章を読んだことがない。だから、いたしかたなく、読みたくもない戦後日本経済史関連の資料を読むことになった。経済の専門家が海外旅行史を語らないから、私のような素人が苦労するのである。
 海外旅行自由化も経済問題だった。そのいきさつを順序だてて語ると退屈だろうから詳しい説明は省略するが、キーワードはOECD(経済開発協力機構)やIMF(国際通貨基金)だ。国の経済がまだ脆弱だから、外貨の両替を制限してもいいというのが、IMF第14条適用国。日本がIMFに加盟した1952年当時は14条適用国だったが、次第にIMF加盟国から、「日本はすでに復興したので、一人前の国らしく第8条適用国に移行するように」と勧告を受けるようになった。第8条というのは、国家経済がどういう状況であれ、それを理由に外貨との両替を拒否してはならないというものだ。8条適用を受け入れたことにより実現したのが、海外旅行自由化だったというわけだ。
 それまで、なぜ海外旅行が制限されていたかというと、政府から外貨への両替許可が出ないと、パスポートの申請ができなかったからだ。政府は輸出などで得た貴重な外貨を「海外観光旅行ごとき」で使われたくなかったので、国民に両替を制限していたのだ。ところが、8条適用国となったので、日本人も外貨への両替が許されたので、自由にパスポート発給申請することができるようになり、海外旅行ができるようになったというわけだ。
 こういういきさつがわかるまで、だいぶ勉強をしなければいけなかったのだが、調べてみるとやはりおもしろい。マーマー・マカロニやオーマイ・マカロニとアメリカの余剰農産物との関係など、経済がわからないと食文化も海外旅行もよくわからないという教えだ。
 オーマイというのは「王米」で、戦後の食糧不足の時代にアメリカの余剰小麦で代用米(米の姿をした小麦粉の粒)を作ったことによる命名だ。経済や政治など、真正面から勉強する気などまったくないし、やさしい入門書でさえ退屈だろうと思うのだが、知りたいことがあって調べれば、どんどん頭に入ってくるし、飽きない。
 上に書いた食文化現代史のヒントは『昭和と日本人の胃袋』(日本食糧新聞社編、日本食糧新聞社、1990)で得たが、『ファミリーレストラン 「外食」の近現代史』(今柊二光文社新書、2013)には、残念ながらそういう視点や検証はなかった。