487話 ヒッピーを知りたい

 旅行の歴史、とりわけ若者の旅行の歴史を調べていると、絶対に押さえておかなければいけない時代と現象が、ヒッピーの時代だということがわかってくる。1960年代から70年代初頭の時代だ。若者たちの好奇心が、国境や民族の壁を超えはじめ、意識や知識だけではなく、実際に異文化を体験しようと出かける時代の始まりである。もちろん、それ以前にも「旅する若者」はいたのだが、ベビーブーマーたち(日本風にいえば団塊世代)の出現によって大量にうごめき始めたという意味では、やはりこの時代を検証する必要がある。「ベビーブーマーと海外旅行」というのも重要なテーマだが、今回は触れない。
 旅とヒッピーの関係について知りたくなったので、まず「ヒッピーとはなんだ」という基本的な疑問を解決しなくてはいけない。どのような文化的・社会的背景のもとでヒッピーは生まれ、消えていったのか。ヒッピーは与えた文化的・社会的影響は、どのようなものだったのかを把握し、若者の旅とヒッピー文化の関係を明らかにしたいというような、学術論文的な構想が浮かんだのだが、まあ、実際は「ヒッピーを知りたい」という好奇心でしかないのだが。ただし、私はヒッピーに親近感はない。ドラッグにも神秘主義や超自然現象やロックなどにも、まったく興味がない。若者の旅に影響を与えた「ヒッピーなるもの」について知りたいだけだ。
 そういう好奇心を抱いて調べ始めてもうずいぶんたつ。ウルトラマイナーなテーマを調べるわけじゃなし、そんなことは簡単にわかるだろうとタカをくくっていたのだが、資料が見つからないのだ。これ1冊で、ヒッピーのことはなんでもわかるという日本語の本はないことがすぐにわかった。ヒッピーの前史となるビート(ジェネレーション)の資料は豊富にあるが、ヒッピーには概説書がないのだ。日本語の資料で、もっとも詳しいのがウィキペディアの記述だという情けない現実がわかってきた。
 アメリカ現代史の本とか、対抗文化関連の論文、当時のルポルタージュなど翻訳も含めて日本語の本はあらかた読んだのだ。「どんな事が起こったのか」という断片的資料はいくらでもあるのだが、全体像が見えない。日本語の本で資料を探すのはどうやら無理らしいので、とりあえずは英語の本で「Hippie」が書名に入っている本から探してみた。ヒッピーの本は多くあるが、私が知りたい事柄をテーマにした本があるのかどうかよくわからない。アメリカ現代史資料などといったら無数にあり、内容をチェックせずに買うことは、その分野に素人の私には壁が高すぎる。そういう事情なので、「これならば、読みやすいか」と思ってアマゾンで注文した本はすでに何冊かあり、つい最近注文したのはこの本だ。
 “ The Hippie Dictionary A Cultural Encyclopedia(and Phraseicon) of the 1960s and 1970s ” (John Bassett McCleary , Ten Speed Press, 2004)
それほど高い本でもないので、簡単に<1-clickで今すぐ買う>をただちにクリックしたのだが、2週間後に到着して驚いた。日本風にいえば「A5変」のサイズで700ページの弁当箱本(正確にはドカ弁本)だった。「おい、おい、おい」と思いつつもざっと読んでわかったのは、sex, drug,ちょっとRock ‘n Rollの本で、旅関連の記述は見つからない。Walden、India、Goa、Kathmanduといった項目すらない(ウォルデンというのは、H,D,ソローの『森の生活』の原題だ)。著者が旅に関心がないとこうなるのだ。ただ、著者紹介を読むと、ライターやカメラマンをやってきた著者は、1970年代にアムステルダムギリシャアフガニスタン、インド(もちろんゴアも)やアメリカのグリニッチ・ビレッジやヘイト・アシュベリーに出没していたようなのだが、そういう旅の片鱗は、この本ではうかがえない。
 せっかく買った本だから、「これで、おしまい」ではもったいないので、少しでも旅行関連の語を探してみた。
 [R&R]という見出し語がある。R&Rを、この本ではRest&Recreationのことだとしているが、いくつかの資料ではほかに、Rest&RecuperationやRest&Relaxationという説明もあり、どれが正しいのかわからない。実はこの語はアメリカ軍の正式用語ではなく、軍人のスラングらしい。1年に7日ほどの「休暇」を意味する語として使われているのだが、改まってどういう単語の省略形なのかとなると、誰も正解を知らないというわけらしい。
 タイやフィリピンや沖縄が米軍兵士の歓楽地になったのは、ベトナム戦争時代にR&Rに利用されたからだ。だから、1960年代の若者にとって、R&Rという語はなじみがあった。
 ベトナム戦争以後の観光事情は、R&R時代にできた数多くの安ホテル、売春、歓楽街などと深い関係があり、そういう意味でも重要な研究テーマではある。さて、このR&Rという語がヒッピーの間で使われると、意味が変わる。”kicking back with a joint”のことで、kick backはもちろんリベートのことではなく、”to relax”を意味するスラングだ。
 [Tour guide]という見出し語があるが、もちろん旅行ガイドのことではない。Tourというのは集団のtripのことで、これまた「旅」のことではない。ヒッピー文化を知っている人は日本人でもこれだけの説明でわかるのだが、「トリップ(ドラッグによる幻覚体験)をする人の付き添い、手ほどきをする人」のことらしい。
 おびただしい数のドラッグやセックスの用語が出てくるこの本を読んでいて思い出したのは、1975年に出版された『アメリカ俗語辞典』(研究社)だ。「よくもこんな本を出したものだ」と、当時かなり話題になった辞書で、人前では絶対に口にしてはいけない語が詰まっていた。考えてみれば、辞書を読んだ最初の体験が、この辞書だったのかもしれない。読んでおもしろい辞書だった。最後のページまで読んだけれども、この辞書に収録されている単語や句を口にしたことはないし、調べる目的でこの辞書を使ったこともない。
 さて、物知りの皆さん、ヒッピーの全体像がわかる資料をご存知の方は、ぜひご教授ください。