490話 1965年のアジア

 はるか昔、小学館から『世界の旅』というシリーズ本が出ていた。編集顧問だけは、そうそうたる名前が並んでいる。阿川弘之、葦原英了、石田龍次郎、犬養道子井上靖今西錦司大宅壮一小田実戸塚文子、富永惣一、林健太郎という名前は、このシリーズの少し前に出版された同名のシリーズ『世界の旅』(1961〜62、中央公論社)の顔ぶれとあまり変わらない。外国のことを書ける日本人がいかに少なかったかという証拠でもある。
 小学館版のほうは、1964年から66年にかけて、全13巻別冊4巻で出版された。1964年に海外旅行が自由化され、東京でオリンピックが開催され、海外旅行の気分だった時代を反映した出版だろうが、もちろん誰でも外国に行ける時代はまだまだ先の事だ。
中学1年生になった1965年に、私はこのシリーズのうち何冊かを買っている。定価480円というのは、現在の価値にすればかなり高い。日雇い労働者の日給が1200円、小学校教員の初任給が1万7000円ほどだが、新聞広告の求人欄では、日給500円が普通だった時代だ。親にもらったわずかな小遣いを、全部本にあてて、やっと買ったのだ。
 で、感動するほどおもしろかったのかといえば、田舎の中学生にも、凡庸な内容だとわかっていた。文章に刺激がなかったのだ。それでも、かなり無理をしてこのシリーズの本を何冊も買ったのは、カラー写真で「外国旅行という気分」を手に入れたかったからだろう。
 それから20年ほどして、これらの本は資源ゴミとして捨てた。それからまた長い年月が流れ、今日、ブックオフでまた買った。105円ならいいだろう。『世界の旅 9 中国/東南アジア』(1965年)の表紙はタイの寺院だから、当然、時代の変化は見えない。時代の推移を見たい時には、観光写真は役に立たない。本の前半はカラー写真で構成され、短い文章が載っている。署名のないこの文章は、新聞記者のアルバイトかもしれない。2ページから始まる中国編には、当時の有名な一節がある。
 「一九四九年、中華人民共和国を成立させたことによって、歴史の新しい段階に足を踏み入れた。そして今までの歴史には見られなかった新しい気ふうと迫力によって、古き中国新しく衣がえさせんとしている。喧騒と混雑を特徴としていた各都市が、ハエ一匹いない清潔な町に一変しただけでも、新しい中国の大きな歩みがしみじみ感じられる」
 この「ハエ一匹いない」が、時代のキーワードだ。朝日新聞からの引用ではない。保守で反中国・朝鮮・韓国の「SAPIO」を出している小学館の出版物である。高校に入ってからであるが、この文章のように中国を賛美する教師に対して、「アホ」と批判できるくらいの判断力は、私にもすでにあった。
 台湾のページには、総統府前を走る三輪自転車の写真が載っている。のちに三輪車の本を書くことなど予想もしていないのだから、この写真のことは覚えていないが、この時代の台湾に三輪自転車が走っていたことは、『カラーブックス 東南アジアの旅』(石井出雄、保育社、1966)で知っている。70年代後半に台湾を旅したときは、さすがに台北など都市では見なかったが、山里の哺里で現役でまだ営業している三輪自転車を見ている。
 当時の旅行事情をいちいち書いていくときりがないので、航空運賃だけ書き出してみよう。いずれも、エコノミー片道料金である。当然、格安航空券というのはまだほとんどなく、団体旅行をする気がなければ、この航空券を買うしかない。小学校教員の初任給が1万7000円程度だった時代だということを頭に入れて、その額を見てほしい。
 台湾 3万9350円
 香港 5万5950円(フランス郵船なら、もっとも安い船室だと1万800円)
 バンコク 8万1650円
 クアラルンプール 8万9750円(船なら、3万4200〜4万7240円)
 ジャカルタ 10万2850円
 マニラ 6万3350円
 さて、『中国/東南アジア』というこの巻は、今風にいえば、『東アジア/東南アジア』ということになるのだが、現在の常識では考えられない構成になっている。北朝鮮旅行ガイドがないのはわかるとしても、韓国編もないのだ。日韓基本条約が締結され、国交正常化されるのが、1965年6月だから、この世界の旅シリーズはそれ以前の企画ということになる。
 国会図書館の蔵書検索で、戦後の古い韓国旅行案内を調べてみると、韓国を単独で扱っているのは『一番近い韓国旅行』(近森節子・岡本俊一・景山裕一、白陵社、1971)がもっとも古い。東南アジアのガイドに韓国を加えたものでは、『JTBガイド 東南アジア 韓国』((日本交通公社、1966)がある。韓国旅行情報だけを1冊にまとめたJTBのガイドは、『韓国』(1975)がもっとも古そうだ。他社のものでは、パン・ニューズ・インターナショナル社の物が古く、韓国情報も含まれている『東南アジアの旅』(1967年)は手元にある。「韓国旅行の制限が緩和されてわずかの間に、この国を訪れる日本人は非常に多くなり・・・・」という書き出しが印象的だ。同社のガイドで、韓国を単独で扱うのは『韓国』(1974年)である。国会図書館の蔵書にはこのほか、韓国案内が載っている西東社の『東南アジア』(1973)や、花曜社の『韓国旅行ガイド』(1974)などがある。
 戦後の韓国旅行事情史を調べたいと思っていてもう10年以上たつが、何も手をつけていない。韓国の専門家はいくらでもいるから誰かがやるだろうと期待しているのだが、専門家はどうやらそういう分野には興味がないらしい。