494話 メモ 日本人の韓国旅行事情史 4/5 個人旅行者用ガイドブック

 
 戦後に発売された日本語の韓国旅行ガイドブックのなかで、ツアー客用のものでなく、個人旅行客を相手にした最初のものは、いまのところ1985年発売の『宝島スーパーガイド・アジア 韓国』(JICC、のちの宝島社)だろうと思う。このガイドは、87年に改訂版が出ている。
 JTBの韓国個人旅行ガイドは、1989年の『フリーダム・シリーズ 韓国自遊自在』が最初だろう。内容は確認していないが、実業之日本社からは『ブルーガイドわがまま歩き 韓国』が1997年に出ている。
 「地球の歩き方」シリーズは、1979年に『ヨーロッパ編 1980年版』と『アメリカ・カナダ・メキシコ編 1980年版』が最初の2冊として出た後、3冊目として81年に『インド ネパール編 1982〜83年版』が出た。これはアジア編としては異様に早いのだが、他のアジアの国はだいぶ遅れる。以下の国の初版はこうなる。
 『東南アジアA タイ』(1985)
 『東南アジアB シンガポール マレーシア』(1986)
 『韓国 1986〜87年版』(1986)
 『台湾』(1987)
 『香港』(1988)
 『地球の歩き方 韓国 1986〜1987年版』は、このあと現在まで発売されている「韓国編」の最初の版になる。ただし、この第一版は売れなかったのか、その次の発売は2年後の88年の「1988~1989年版」らしい。この情報は、国会図書館の蔵書リストによるもので、現物を確認していないので、間違いがあるかもしれない。ちなみに、個人旅行雑誌「オデッセイ」は、韓国特集はやっていないと思う。1986年に「地球の歩き方」の韓国編が出た理由は、88年のソウル・オリンピックを前にして、マスコミと広告代理店が「韓国ブーム」をあおった風潮に乗ったものだろうが、残念ながら売れなかったという裏事情が読み取れる。この頃、韓国や台湾などによく行っていた日本人の風体は、パンチパーマに金色腕時計、クラッチバッグにサングラスという野球選手なのかヤクザなのか判別できない姿の男たちだった。まだ青臭さがあった当時の「地球の歩き方」は、そういう人たちを読者とは考えていなかった。
 地球の歩き方が「ヨーロッパ」と「北米」の次に「インドとネパール」を出したところが、当時の若者の関心、旅行をしたい若者とガイドブックを作りたい若者の両方の関心が、良くわかるラインアップである。そして、もうひとつ「時代」がわかるのは、インド亜大陸以外のアジアには、あの当時の若者はまだほとんど関心はなかったということだ。ガイドブックの歴史を調べると、1980年代末ころになって、ボチボチとアジアを旅する若者が姿を見せたということがわかる。私の体験では、1970年代前半のバンコクでは、若い日本人旅行者のほとんどはインド帰りかインドへの途上で、そういう若者を全員集めても、常時せいぜい10人、年末などの多いときでも、20人くらいまでだろうと思う。カオサンにまだ安宿がないのは当然としても、ジュライホテルにも日本人はほとんどいなかった時代だ。あの頃、旅行者愛用の安宿は数少ないから、バンコクに滞在している旅行者数はだいたい推測できたのだ。ついでにバリ島のことも書いていくと、私が初めてバリに行った1974年には、島にひと月いても、日本人旅行者にはまったく会わなかった。クタビーチにいた外国人は、常時10人くらいだったか。ウブドゥには数日いても、旅行者にはまったく会わなかった。クタにもウブドゥにも、まだ安宿も電気もなかった時代だ。それが1970年代前半の東南アジアなのだ。
 インド亜大陸の次に日本の若者は、インド旅行の延長としてバンコクなど東南アジアには行ったが、韓国や台湾にはまだ足はほとんど向けていない。サハラ沙漠とかマチュピチュイースター島などに行ったことがある者でも、韓国や台湾には行ったことがないという例は少なくないと思う。あの頃の若者は、「荒野」か「遠く」に行きたかったのだ。「風景の徹底的な異郷」に行きたかったのだ。
 私にしても、インド亜大陸と東南アジアは、初めての海外旅行である1973年に足を踏み入れているが、韓国と台湾は70年代末になって初めて行った。あのころの私は、とにかく「遠くに」行きたかったし、日本とできるだけ違う景色・文化の国に行きたかった。政治的意味合いからのためらいはあまりなかったが、旅心をそそのかす「行きたいなあ・・・。よし行くぞ! 行ってやろうじゃないか!」という衝動というものを、日本から近い地域ではあまり感じなかったのだ。
 1982〜1983年のアフリカ方面の旅を終えたあと、「どこか遠くに」という欲求はすっかり消えて、通うのに便利な近場で定点観測をする方を選んだ。旅行者の部分よりも、文化の観察者の部分の方が大きくなったというわけだ。