502話 路面電車の時代 その1

 『鉄道原風景 海外編』という本が出ていることは、前々から知っていた。タイの交通を調べていた時に知ったのだ。定価7000円なので、すぐに「よし、買った!」というわけにもいかず、おろおろとしている間に時間がたち、アマゾンの中古本で少しは安くなっていたがまだまだ高く、そのうちにこの本の事はすっかり忘れてしまった。
 それがつい先日、昔のバンコクのことをインターネットで調べていると、この本の紹介記事がヒットした。「ああ、こんな本があったよなあ」と思いだし、買うには高いのは知っているから、試しに近所の図書館の蔵書リストを検索するとあったので、すぐさま借りてきた。やはり、素晴らしい本だ。タイの鉄道記事だけでも50ページほどある。もしカラーコピーをとるならば、それだけで結構な金額になる。資料的価値のある文字部分だけなら、モノクロコピーでいいから、安い。しかし、カラー写真は味があって、「バンコク路面電車があった時代」を伝えているんだよなあ・・・。じつはネット上にもバンコク路面電車の写真は動画も含めて割合あるのだが、それは「写っている」というだけで、鉄道研究家が撮影した写真とはその質が違う。この本を、欲しい。自分の本にして、返却期日などを考えずに、じっくりと眺めたい。写真は、見るだけならすぐ終わるが、読もうと思うと時間がかかる。
 アマゾンでは今いくらだ? 調べてみたら、安い。質を考えれば、とんでもなく安い。熟察30秒で、<1-Clickで今すぐ買う>をクリックしてしまった。
 日本語・英語併記の大判写真集『発掘カラー写真 1950・1960年代鉄道原風景 海外編』(J.ウォーリー・ヒギンズ、JTBパブリッシング、2006)は、アジアや中南米路面電車の最晩年の姿を伝えるオールカラーのすばらしい作品だ。
 こんな本ができた理由の一つは、当時の日本人からすれば、著者のアメリカ人がかなりの金持ちだったからだ。1950年代に鉄道の写真を撮影に外国に行くというだけでも金銭的に大変なのだが、カラーのフィルム代も高かったはずだ。この本の鉄道写真は、すべて鮮やかなカラーだ。多分、コダクロームで撮影したのだろう。A4版見開き(つまりA3のサイズだ)に耐える密度の写真だ。
 ソウルの路面電車の写真がある。42&43ページ見開きの写真だ。東大門の南、清渓川(チョンゲチョン)にかかる鉄橋を渡る電車の写真は、1963年に撮影されたのだが、その風景は1945年12月の広島といってもいいような一面バラック住宅の海だ。韓国では、まだまだ食糧難の時代が続いていたことがよくわかる写真だ。
 1964年の東京オリンピックの時代、子供だった私には実感はないが、「戦争が終わってまだ20年もたっていないのに、よくぞここまで復興したものだ」と日本人は感慨にふけったのだが、1963年の荒廃したソウルの写真を見ると、88年のソウルオリンピックを、64年の日本人と同じように、「よくぞ、ここまで復興したものだ」という感慨と感激を韓国人が抱いたのだと想像できる。鉄道そのものにあまり興味のない私は、そういう風景写真から歴史を感じるのだ。私は鉄道写真集を買いたかったのではない。列車など写ってなくてもいいのだ。時代の風景が見事に切り取られていれば、それでいいのだ。
韓国では、私と同じ世代かそれより若い世代でも、「昔は、ホントに飯が食えなかった。食い物がなかったよなあ」と韓国のテレビ番組で語っているのをしばしば耳にする。1960年代の農山村離島は、まだ満足に飯が食えない人がいくらでもいたことがわかる。そういう話が、この写真1枚でよくわかる。
 この写真集に載っている路面電車で、今日も残っているのは香港の電車だけだ。この本に載っているバンコクの写真がいかに貴重であるかということを説明するには、バンコクの地理に明るくないとよくはわからないのだが、一応説明しておく。
 バンコクの主要交通路は長らく水路だった。江戸も大坂も水路の町だったが、それよりももっと細かく水路が張り巡らされていた。水路の町バンコクに西洋文明が入ってくる。自動車と鉄道だ。バンコクの主要道路のひとつであるラマ4世通りの写真が載っている。撮影したのは、1959年2月だ。左端に、ルンピニ公園の柵が見える。柵の前は、舗装された車道だ。2台がすれ違えるくらいの広さだ。車道の脇を走っているのがサムセン線の路面電車だ。その右側は空き地になっているのだが、そこはちょっと前までは運河だったことは昔の地図で確認している。運河を埋めたばかりだとわかる。そして、元運河の脇、写真で言うともっとも右側に、タイ最初の鉄道であるパクナム鉄道の線路が見える。つまり、この写真は、自動車、路面鉄道、舟、郊外列車という4種の交通機関の歴史を見せているのだ。
 バンコクはこの時、1950年代末に、運河による水上交通の時代が終わり、陸上交通の時代に移ろうとしているのだが、鉄道の時代もまた間もなく終わろうとしている。撮影者はその歴史がわかっていて、そこを撮影地に選んだのだろう。金持ち旅行者のスナップ写真とは根本的に違うのである。1893年開通のパクナム鉄道はタイ最初の鉄道なのだが、1959年、つまり、この風景を撮影してすぐ後に営業を停止し廃線となった。路面電車はもう少し生き延びて、1968年まで営業した。1959年の撮影というのは、そういう時代を踏まえていることがわかると、その素晴らしさがわかる。
 日本以外のアジアだけでも、この本に登場しない路面電車はいくらでもある。ジャカルタにも、ビルママンダレーにも路面電車があった。そういう写真も見たい。