513話 無視しているわけにはいかなくなった

 「英語にはゼノフォービア(xenophobia)という言葉があって、外国人恐怖(嫌悪・排斥)症などと訳されますが、私はこの感情が日本人には見事に欠けていると思います」という文章があって、こんな本は無視すればいいやと思っていたのだが、アマゾンの読者評では高得点なので、ちょっと口をはさまないわけにはいかなくなった。トンデモ本だということに気がつかない人が多すぎる。
 『日本人はなぜ日本を愛せないないのか』(鈴木孝夫、新潮選書)。初版は2006年だが、私が買ったのは2008年の6刷だから売れているらしい。買っているのは、多分、「週刊新潮」や「諸君」や「SAPIO」などの愛読者だろう。乏しい根拠でも、「日本はすばらしい」と書いてあるとうれしくなり、なにも考えず子守唄のごとく受け入れて、「左翼はアホだ。朝日はウソばかり」と書いてあるとなお喜んで買う層だ。著者は言語社会学を専攻する慶応大学名誉教授。言語学関連の本を何冊か読んでいるので、この本も読んでみようと思ったのだが、あらあら、まあなんとひどいことよ。愛国的書物というのは、往々にして感情的で非論理的なのだとわかっている。この手の本に対して、まともな学者は無視して、きちんと批判しないだろうから、無知なライターが立ち上がろうか。
 ゼノフォービアの話の続きだ。日本人は外国人に対して排斥の感情などない。日本に住んでいる外国人を不快にすることはないではないが、それは嫌悪感のあらわれではなく、外国人に対して「戸惑い、照れくささ、不安を感じる結果として、できるだけ関わりを持ちたくないという消極的な心理なのです」と説明している。日本人は、民族差別をしない珍しい民族なんだと説明しているのだが、まともな人ならこんな説を信用しないでしょ。攘夷、夷敵、毛唐などなど、この手の語はいくらでもある。
 外国に憧れを抱くのは、世界で日本人だけだと説くのにも、口をあんぐり。著者が考える外国とは西洋、とくに英米であり、それをもとに「日本と外国」という対立で論を進めていく論の展開が、西洋しか知らない学者の欠点なのだが、実は西洋のこともあまりご存知ないらしい。西洋の旅行史をちょっと調べてみれば、ゲーテの『イタリア紀行』やイギリスの若き貴族が修学旅行のように出かけたグランドツアーのフランスやイタリアは、憧れの対象ではなかったのか。アジア、アフリカ、中南米をも含めても、「日本ほど(外国文化を)礼賛することは、ほとんどありませんね」と言えるのか。異国情緒の研究を読んだことがないのか?
 こうやって、不出来な個所を指摘していくと、きりがない。いくらでも見つかるのだ。大学生のリポートだって、合格点には達しないレベルなのだ。だから、あと2点だけにポイントを絞る。
 「どうしてキリスト教だけは全くといって良いほど(日本に)広まらないのか」。「私の答えは『日本に羊がいないからです』なんですね」という珍回答を出して、かなりのページを使って論を展開している。キリスト教は羊を飼育している地域でのみ広まるという説だ。著者は韓国にキリスト教徒が多いのはご存知のようだが、さて韓国に羊が多かったか。このことに関して、著者は苦しい説明をしている。「韓国人や中国人は文化の基層にユーラシア大陸の文明と共通するある特質をもっている」からだと説明している。それなら、中国もキリスト教国か? 羊が多く飼育されているモンゴルもユーラシア大陸の一部だが、キリスト教国だったか? キリスト教徒が大多数の国フィリピンは、ユーラシア大陸とつながっていない。羊も少ない。アフリカや中年米の国々にキリスト教徒が多い理由の説明は、ない。要するに、思いつきで言っているだけなのだ。
 指摘したいもうひとつのことは、植民地支配に対する考えだ。著者の考え方は、基本的には新潮社や文藝春秋のお抱え論客と同じだ。西洋の植民地支配を強く糾弾する。そのことに関しては、私も同意見だ。植民地支配が糾弾されるべきものなら、日本がやったことも同じように糾弾されるべきなのだが、この方たちはそういう方向には向かわない。
 その理由は2点。まず、植民地支配が「日本の歴史のわずか二五分の一にすぎない」短い期間なのだから、イギリスやオランダなどの長い植民地支配といっしょにするなという論理だ。支配された側は、「短いから、まあいいか」と言うと思っているのか。
 そして、この手の文化人に多い論理は、西洋の植民地支配は悪だが、日本はいいことをしたという論理だ。日本がやったすばらしいひとつの例として、京城台北帝国大学を作り、教育に力を入れたことだという。そういう日本と、「小学校ですらろくに作らなかったオランダのインドネシア植民地政策などと比較してみてください」と書いているが、こういう論理展開に騙されてはいけない。京城台北帝国大学は誰のための大学だったかということだ。京城帝大の学生の七割ほどは日本人だったのだ。著者がイギリスやフランスの植民地ではなく、わざわざオランダの植民地支配を例に挙げたのは偶然ではない。その理由は明白だ。インドネシアオランダ語ができる人が少ないのは、オランダが植民地での教育に力を入れなかったからだが、インドやマレーシアやケニアではいまでも英語がよく使われているのは、英語教育に力を入れたイギリスの植民地だったからだ。そういう事情があるので、教育を例に挙げるときはイギリスの植民地事情ではなく、なにもしなかったオランダ植民地を例に挙げれば、無知な読者を騙せると思ったのだろう。
 「日本は、植民地でいいこともした」と言いたいなら、イギリスの植民地における、学校、病院、鉄道、道路の建設などがあげられるだろうが、日本の植民地支配だけが正しいと主張したい人は、そういう論理展開をしない。西洋人のやることは悪で、日本人は善行なのだという論だ。
 日本がアジアの植民地解放・独立に力を貸したと自画自賛するなら、日本からの独立を望んだ朝鮮人たちに対して何をしたのか考えてみるといい。
西洋は植民地支配を反省したり謝罪したりしないというのは、それが勝者の論理だからだ。東京裁判も、勝者の論理で展開した。それが、世間の「力」というものだ。善悪ではない。勝者が善人ズラするのが、世間だ、現実だ。日清・日露の戦争後も、第一次世界大戦後も、日本も勝者の論理で領土を拡大したのだ。強い者が勝手なことをするというのが、現実の世界なのだ。それを受け入れるかどうかは、また別問題だ。
 だから、「西洋と同じように、日本も植民地支配を謝罪しない。それが世界の常識だ」というなら、日本人が西洋の植民地支配を糾弾するのはおかしいということになる。西洋は西洋、日本は日本独自の考えをするというのなら、謝罪しない西洋のマネをすることはない。
 「すばらしき日本の植民地支配」を説きたい人は、「こんなすばらしい日本人がいた」という例を探して紹介したがる。その人の行為で免罪符にしたいらしい。そういう論理は次回に詳しく書く。