519話 あの特別な日の夜

 

 久しぶりに、上智大学の寺田勇文さん(文化人類学、フィリピン研究)に会った。だいぶ前にたった一度会い、ほんの数語ことばを交わしただけなのだが、あのときのことはよく覚えている。寺田さんも、「ええ、前に会ったのはあのときですね」と、あの日のことをはっきり覚えていた。
 「あの日」の数日前、出版社めこんの桑原さんから電話があった。1988年暮れのことだ。
 「久しぶりにビルマから帰って来た人がいてさ、学生時代から知っているヤツで、元探検部なんだよ。で、久しぶりの帰国なので、報告会とそろそろ忘年会の時期だから、その両方を兼ねた会をやろうと思っていて、どう? 来ない」
 会場の場所を知らないので、当日、まずめこんの事務所に行った。そこに、すでに講師が来ていた。1985年3月に日本を出て、その年88年の10月までビルマ山中をさまよっていた吉田敏浩さんと、その日初めて会った。大学探検部出身と聞いていたので、体力自慢だけの人物かと思っていたのだが、北ビルマの生活について質問すると、驚くほど詳しかった。食べ物の話を聞くと、料理以前の、農業の話から始める。農業、作物、料理ときちんと順序を追って話が進む。「こりゃ、そんじょそこらのライターじゃないぞ」と心底驚いた。翌年、彼は東大で特別授業をやり、北ビルマでの体験を書いた『森の回廊』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞(96年)することになるのだが、そのくらいの逸材だった。会って5分で、凡百のライターとはレベルが違うことに気がついた。
 吉田さんの話を聞きながら、講演会場に行った。30人くらいの聴衆のなかで、すでに面識があるのは西倉一喜さんくらいで、彼は『中国グラスルーツ』(1983)で、84年に大宅賞を受賞している。あの日、読んだばかりの『中国生活誌 ―黄土高原の衣食住』(竹内実、羅漾明、大修館書店、1984)の話を西倉さんとした記憶がはっきりある。
 吉田さんの講演会は、のちに『森の回廊』にまとまる内容で、私の直感どおり濃い内容だった。そのあとの忘年会で、名前は知っているが、一度も会ったことがないというがふたりいた。ひとりは、『フィリピン新人民軍』(1981)という傑作を書いた野村進さん。その本はもちろん、読んでいて感心した。彼は吉田さん受賞の翌年の97年に、『コリアン世界への旅』でやはり大宅賞を受賞した。あの忘年会は、座敷でやったので移動が難しく、残念ながら野村さんとは話ができなかった。
 名前を知っていたもうひとりが、寺田さんだった。おそらく論文集のようなもので、フィリピン研究者だと知っていたと思う。寺田さんは、出たばかりの私の本『東南アジアの日常茶飯』を読んでくれていて、その感想を話しかけてくれたにも関わらず、しかも初対面にもかかわらず、いきなりいがかりをつけてしまった。私としてはケンカを売ったのではなく、日ごろの感想を口にしただけだったのだが。
キリスト教国というのは、どうもおもしろそうじゃなくて、フィリピンには強い関心とか愛着というものが、どうも持てないんですねえ」
 それに対して、温厚な寺田さんは、出来の悪い学生に語りかけるように話した。
 「キリスト教というのが、きまりきったひとつの姿だと思っちゃいけませんよ。西洋のカソリックは、フィリピンのカソリックとは違います。フィリピンでは土着の宗教と混交していますから、スペインやイタリアのキリスト教とは違うんですよ」
 こういう解説をいまでもはっきりと覚えているのは、「純粋なキリスト教」も「純粋なイスラム教」などというものはなく、宗教は混交するという当たり前のことを、そのころはまったく知らなかったからだ。宗教に興味がないから、知識もなかった。
 あの夜から25年たって、寺田さんとゆっくり話ができる機会を得たので、昔の非礼を詫びたあと、雑談をした。「フィリピンではフィリピン料理店が増えている」という話は新鮮だった。フィリピンの高級フィリピン店というのは、外国人観光客相手の店で、ちょっとカネを持ったフィリピン人は、大金を払ってフィリピン料理を食べることなんかしないというのが、私の印象であり、在日フィリピン人たちから得た知識だった。 「最近、フィリピンには行ってます?」と言われると、つらい。行きたい気にならないから、ずっと行っていないのだ。最近のフィリピンでは、フィリピン人が高級フィリピン料理店で食事をするようになったそうだ。
 話題はフィリピン関連の本に移り、私のベストと言えるフィリピンの食文化文献は
”Culinary Culture of Philippines”だと話した。この本は、バンコクで買った。1バーツが10円以上していた時代の、1000バーツの本だから買うかどうか悩んだが、ここで買わないと2度と出会えないと思い、一大決心をして買った。その予感通り、2度と出会っていない。
 「あの本は、私も買いましたが、高かったですね。フィリピンが国威を見せようとして作った記念碑的出版でしたから」と、言いながら、寺田さんはポケットからスマホを取り出した。「今手に入る本なら、ええと、これはどうだ・・・」と言いながら、アマゾンの画面で本を探す。自宅のパソコンと同じように、テーマ別や著者別で書籍を探せるから、「えーと、あれ、著者は誰だったかなあ」ということがない。探している本がすぐさま出てくる。私もその場で、表紙がわかり、価格もわかる。
 「フィリピンの『お料理本』(レシピ本)だけじゃなくて、食文化にも言及しているこの本は、おすすめですよ。あっ、今ならマーケットプレースで安い!」という推薦を受けて、帰宅後さっそく注文したのは、これ。数日で到着。
 “Memories of Philippines Kitchens “ Amy Beta & Romy Dorotan , Stewart , Tabori & Chang , 2006
 さすが、寺田さんの推薦なので、よくできた本だ。食文化史にも言及している。ただし、大判のこの本も、残念ながら棟方本で、小さい活字で組んでいるから目にひどく悪い。日本語の文章でもつらいのに、英語だと目と脳に神経を集中するから、少し読んだらすぐ疲れて、しばらくは窓辺の花など眺めることになる。読むのに、時間がかかりすぎるのが難点。