526話 『あの日、僕は旅に出た』をめぐるいくつかの話 前編 

 蔵前仁一著『あの日、ぼくは旅に出た』によれば、彼の初の著作『ゴーゴー・インド』に対して、不遜にもこの前川が「酷評したハガキを送り付けてきた」そうだ。「昔のことは覚えていない」などと、カサブランカの酒場のおやじリック・ブレインのセリフが口グセの人には珍しく、昔のこともよく覚えているようだ。私は、そのハガキの内容は覚えていないのだが、1997年の『インドは今日も雨だった』(世界文化社)に対して書いた感想の文面は覚えている。本を送られて無視するのは失礼だし、人畜無害の礼状でお茶を濁すのは嫌だ。書き手が素人なら、適当なコメントを書いて礼状にすることはあるが、プロの書き手に対しては、まともに付き合いたい。97年はまだパソコンを買っていないから、ファックスか手紙を直接著者に送ったはずだ。
 その内容は、まず、おやじギャグ的ダジャレ書名は好きになれないということ。もう一点は、ただ、「インドに行きました」というだけの内容だから、おもしろみがないというものだった。すぐに返信が来た。
 「ああいう旅行記が書きたかったのです」
 それから何年かたち、「ああいう旅行記」も悪くないなあと、私も思えるようになった。ただし、内容はかなり手を入れて欲しい。例えば、電気がないインドやネパールの村の夜の暗さや明るさについて。できるなら、朝飯はこういうのにしたいというような朝飯のクセはあるのか。雨や湿気や乾燥や熱気について、どういう体験があって、どういう感情を抱いたのか。必ず持ち歩く薬品はあるのか。旅の好奇心が消えゆくときはないのか。孤独感とか、長旅で頭に浮かぶ日本。そういう事柄を書いてもらえないかなあと直接言うと、「旅のことなんか、ほとんど忘れていて、思い出せないんだよ」といういつもの返答だった。記憶障害があるという話は本人がしょっちゅう言っているから、天下のクラマエジンイチはウソをいうわけはない。それはホントなんだと信じていたのだが、時がたつにつれて、あれは違うんじゃないのかと思うようになった。
 森繁久彌は、老人を演じる遊びをやっていた。パーティーなどで若い女優が近くにいると、急に、いかにも足が悪くてよろよろした動きで、助けを求めるようなしぐさで女優の肩や腰に手をまわして、喜んでいた。あるいは、旧知の人と会い、あいさつを受けると、「さて、どちらさんでしたでしょうか?」などと言って、「ああ、森繁さんはついにボケたか!」と相手がどぎまぎしているのを楽しんでいた。そういう「老いぼれた老人」を演じるのを楽しんでいた。
 蔵前さんの「忘れた、覚えていない」というのは老人趣味ではなく、むしろ諧謔や謙遜と、同時に「そういう本は書きたくない」という意思表示の言い訳なのだ。それは、セールスを断るときの決まり文句のようなものだ。私が考えた蔵前仁一著作集の企画は、この「忘れた。覚えてない」のセリフでことごとく拒絶された。その拒絶は、書き手としても、出版業者としても賢明なものだと判断せざるを得ないのは、私の企画はカネにならないからだ。カネにならないということは、読者がほとんどいないということだから、多くの人は読みたいとは思わない本だということだ。蔵前氏の判断は正しい。
 名著『つい昨日のインド 1968〜1988』(渡辺建夫、木犀社、2004)が出たとき、『蔵前仁一とインド30年』を勝手に企画して、提案したことがある。インドを旅する自分と、インドそのものの両方の変化を書いた本だ。鹿児島で育った少年が東京でデザイナー&イラストレーターになるまでの自伝前編に続く後編の企画だったのだが、いつものように相手にされなかった。しかし、この『蔵翁自伝』2部作の後編は、本物の編集者の手によって、売れる商品になり、幻冬舎から出版された。わたしの幻想が、部分的に実現したのである。
 2003年にパソコンを買ってからも、蔵前さんとはしばらくはファックスで「文通」していた。電子メールと違って、ワープロ専用機のA4紙の大きさという制限がおもしろく、限定1部の新聞のようなものを作って送っていたこともある。蔵前さんからの返信もファイルしていたのだが。感熱紙だったから、すべて白紙に戻ってしまった。蔵前さんの文章も400字200枚分くらいはあったから、蔵前仁一著作集の材料になったはずだが、すべて白紙になった。残念なことをした。