527話 『あの日、僕は旅に出た』をめぐるいくつかの話 中編

 
 いままで、手を替え品を替え、『蔵翁自伝』の企画を考えてきた。なぜ勝手にそんな企画を考えるのかと問われれば、「私が読みたいからです」と言うしかない。次の本もその延長で紹介したことがある。
 若い夫婦が、イギリスからオーストラリアまで旅をして、出版社を作って成功するという実話が、”Once While Travelling”(2005)であり、書名は違うが同じ内容の、”Unlikely Destinations”(2007)だ。著者はTony&Maureen Wheeler、つまりロンリー・プラネットの創業者だ。
 この本をもっとも理解し、内容を共有できる日本人は蔵前仁一以外にいないと思い、蔵前さんに推薦したら、意外にも「そんな本に興味はない。読みたいとも思わない」という返事だった。理由はどうであれ、興味がないという。蔵前さんにもこういう本を書いてほしいと思って紹介したのだが、読む気もないならしょうがない。しかし、その蔵前さんが書いた『ある日、僕は旅に出た』は、当然ながら内容的にトニー夫妻の本とほとんど同じなのだ。旅行者が出版社を作って、ガイドブックを出すという話だから、それぞれの出版社の売上高に多少の違いがあるにせよ、同じような本になるのは当然だ。私にとっては、どちらの本も、同じようにおもしろい。
 トニー夫妻の本・・・と書いていて、今思い出したのだが、じつは蔵前さんと知り合うずっと前に、トニー・ウィラーから手紙をもらったことがある。1970年代の話で、そのころ天下の蔵前氏はまだ一度も日本から出ていないのだが、その話は、また別の機会に。
 トニー夫妻の本、つまり「ロンリー・プラネット物語」と、蔵前さんの「旅行人物語」の違いのひとつは、会社の経営問題、端的に言えば、「自社の本が売れない。儲からない」という話だ。ロンリー・プラネット社の話ではなく、旅行人の話だ。出したが、まるで売れないという本と、ある程度売れたが製作費がかかりすぎて充分な収益が上がらないという問題で、飛びぬけて売れない本を書いてしまった私は、多少は編集者兼発行人の苦行を知っている。『東南アジアの三輪車』は、通常は考えられないことなのだが、取材費まで支払ってくれた。そのカネで取材し、大量の資料を購入し、執筆したのだが、まるで売れなかった。それを見越して、ただの旅行記にしてもやはり売れないだろうし、私としては打つ手はない。
 『アフリカの満月』にしても、社長の印税と社の利益を貧乏ライターがかじる状況になった。社長のスネかじりライターである。「これでは旅行人はとても会社とはいえず、非営利団体、貧乏ライター救済NGOですねえ」と、感謝の気持ちを込めつつも、他人事のように言ったこともあるが、もちろん蔵前CEOにとっては笑い話ではない。本当に申し訳ないと思うから、練馬に足を向けて寝たことがない。練馬は天上にあるから・・・・、なんてね。
 売れそうもない本を「出そう」と決意してくれたことはありがたいと感謝しているのだが、だからといって迷惑をかけないように売れる本を書くという才能は、残念ながら私にはない。出版を決めてくれた編集者兼発行人に対して、できる限りちゃんとした内容の本を書くという行動でしか報いる手段がないのだが、そういう努力をすればするほど内容は深くなり、逆に読者を減らす結果になってしまった。蔵前さんが、「薄っぺらな内容のほうがいいよ、ペラペラで」などというわけもなく、あまり儲からないとわかって出版を決めてくれたのをいいことに、すっかり遊ばせてもらったのだが、やはり損のさせ過ぎである。「自分がわかっていない」といわれるかもしれないが、私の本があれほど売れないとは思えなかった。だから、苦労をかけてしまった。
 そういう意味では、蔵前さんは貧乏ライターの「旦那」だった。恩があるのはライターの方なのに、社主はその身を削って機織りを続ける慈悲深き夕鶴だった。